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《乞食》

8月1日。


領主である、エミール・ド・デュボアは、2ヶ月に1回、月が変わる最初の日に領内を見回る。


視察の予定は年度初めに組まれ、どの地区も必ず3年に1回は視察がある。


今日は、12〜15番街を視察する予定だ。


この日は、領主のお目見えという事もあって、多くの人が遠巻きに噂の領主を見つめる日でもある。


「あの方が領主様?背が高いのね。」

「いや、領主様はその隣さ、背が低くて色白の方だよ。」



そんなやり取りが、毎回、行われている。


領民は、決められた場所、決められた時間内であれば、直接領主に陳情をする事が許されている。

領主は、この陳情の内容を理由に、陳情者を裁いてはならず、もしこれを破ったら、陳情者が被った不利益の補償をしなくてはならない。


武器さえ持っていなければ、名前も顔も年齢も、性別さえ明かす必要はない。


これは、エミールが作った規則だ。


かつて、1人の命知らずが、延々とエミールを罵倒した事がある。


「税金が高すぎて食料が買えねぇじゃねーか!そもそも、なんで税金を払わなきゃならねぇだ!俺が稼いだ金でねぇか!」


…エミールは、罰さなかったが怒鳴り返した。


「税金は、所得に応じで取る量を変えているだろう!食料が高すぎるのは、麦の不作に商会が便乗値上げしているからだ!税金をなぜ取るかだって?街を作るためさ。貴様が歩いている道は税金で作ったんだ!」


そして、こう続けた。


「わかったよ、便乗値上げを規制すれば良いんだろう?商会に言っておく!」


こんな事があったから、いつか民衆に刺されるのではないかと、エミールの護衛や、同行する教会関係者は、常に神経を張り詰めている。


子爵の警護に不備があれば、例え教会のものであっても、無傷では済まないからだ。


そのため、教会では毎回、誰が子爵を案内するか、なすりつけ合いに熱が入るのだが、今回は皆、平穏だった。

ルカ・アントニオ・ヴァレンティーニがいたからだ。


彼が事あるごとにデュボア邸に足を運んでいることは周知の事実だったし、ド・モンフォール司教が不調を理由に同行を辞退しても、カミーユは不快そうに鼻を鳴らしただけで、それ以上の追求はしなかった。


視察は、幾つかの地区を順番に1日がかりで回る形式で行われる。


最初は、順調だった。

最初だけは。


ルカがデュボア邸にエミールを迎えに行った時、エミールは肌が弱いから、日焼けをしたくないと言って、つばの広い帽子をかぶり、目から下は白いヴェールをつけていた。


一目見ただけでは、どこかのご令嬢ではないかと錯覚させるほど、中性的な美しさが際立っている。


移動は、馬車ではなく、徒歩を選んだ。

随分と整えられたとはいえ、舗装されていない道や、凸凹も多い。


風に乗って、少しベタつくような磯の香りが一瞬だけ通り過ぎる。


アルヴェニエは、港町というほどではないが、海まで数十kmしかないので、風向きによっては、潮の匂いが届くのだ。


ルカは、エミールの足下を見る。

革靴の底にコルクを貼り付けた特注の靴だ。


ルカはかすかに感嘆した。

特注の靴とはいえ、自分の領地を歩いて回る領主がいるとは。


エミールは、疲れを滲ませつつも、領民の訴えには必ず最後まで耳を傾けた。


昼になり、昼食を取るため、新市街の端から移動していたときのことだ。


下水の橋の麓で乞食をしている集団がいた。


エミールは、下水は全て地下を流したかったが、いくら急成長中の子爵といえど、全ての下水を地下化するには財源が足りなすぎた。そのせいで、多くの下水溝が未だに露出しているのだ。


風が吹くたびに土埃が舞い、処理前の下水は異臭を放っている。


乞食達は、各々、エミール達一行に、おもむろにかけた茶碗や何かの入れ物を差し出している。


エミールに同行した者たちは、立ち止まると、それぞれ何枚かの小銭を入れてやった。

乞食の1人は、ルカを見つけると、手をあげて祈りを頼んだ。


皆が各々に施している最中、風は2回吹き、遠くに鳥の声は3回聞こえた。


待ちくたびれたのか、エミールは、不思議そうに近くの乞食に問うた。


「なぜ救貧院に行かない?」


そこにいた全ての人に緊張が走る。

乞食は、言葉を選びながら、答える。


「救貧院は怠け者が行くとこでさ。あそこさ行ったら、2度と普通の生活は出来ねぇだ。」


エミールの顔に、当惑が浮かぶ。


「あんなところ、恥ずかしくて行けんですよ。」


つかの間の沈黙。


「じゃあ、乞食は恥じゃないのか?」

「は?」


誰かの間の抜けた声がする。

一瞬で、空気が凍った。


「救貧院は私が作った。救貧院を利用した者を馬鹿にする奴は、私を馬鹿にするのと同じだ。お前も含めてな。」


憮然とした表情で、エミールは周囲に宣言した。

皆、エミールに、「お前に何がわかる」と言ってやりたかったに違いない。


とはいえ、エミールは、急速にアルヴァニエを発展させ、権力を握りつつある“子爵”だ。どんなに鼻もちならない領主であっても、彼の庇護の下で実利がある以上、誰も何も言わない。


その時だった。

近くで物乞いをしていた親子、正確には子どもの方が声を上げた。


「おじさんを馬鹿にするな、あんたは何もくれないけど、おじさんはあたしにパンをくれたんだ!」


少女の母親は慌てて、エミールから子どもを引き離そうとする。


しかし、子供は親に抱きかかえられてその場を去るまで、口を閉じなかった。


小さい体が、拳を振り上げ、全力で抵抗する。緑の鼻水を垂らし、真っ赤な顔をして。


「体が動かなくなるほど寒い夜、あたしはここにいる!アンタはどこにいるんだ!」


周囲の人間は互いに顔を見合わせた。

中には、エミールの顔色を伺う者、よくぞ言ってくれたと歓喜を顔に出す者もいる。


エミールのために声を上げるものは、誰一人いなかった。


「…ならば、どうすれば、お前達は屋根の下で寝れるんだ?」


ルカは驚いた。

隣にいたルカは、かろうじてその悲鳴のような小さな呟きを聞く事が出来たからだ。


エミールの目は泳ぎ、まるで親に叱られた子どもみたいに、不安げに佇む。


忘れていた。


ルカより10cm以上低いこの人物は、まだまだ経験の浅い若者なのだ。


腹に一物を抱えていたとしても、領民のために街を良くしようと駆け回る、1人の若者なのだ。


ルカの目に映るエミールが、得体のしれない不気味な人物から、能力はあるが不器用な幼子の姿に変わっていく。


なぜ救貧院に行かないのか、領主なら、考えるべき問いだ。

いや、聞かねばならぬ問いだ。理由がわからなければ、彼らが身を寄せる事ができる屋根を作ってやれないのだから。


傲慢な態度と誠実な問い。高いプライドと慈悲。


穏健派の北方交易商会長が慌てて、エミールに教会へ戻るよう促す。

セント・クレール教会から派遣された、もう1人の神父がルカに囁いた。


「汚れるってわかってるのに、あえて白い服で来るなんてさ。金持ちはいい気なもんだな。」


ルカは言葉に詰まった。エミールの白い衣装は、“白い”という事以外には取り立てて華美な装飾はない。


エミールは言っていたではないか。肌が弱いのだと。白い衣装でも、彼は服が汚れるのを厭わない。


その理由が、洗濯をするのがエミール自身ではないから…ではないはずだ。


「見た目で判断すべきではない。」


ルカはそう応えた。


教会に着く頃には、エミールの顔は、感情の読めない微笑みに戻っていた。いつもと変わらぬ態度で、残りの日課もこなす。


ルカには、その微笑みがまるで彫刻刀で彫られた仮面のように感じた。穏やかな笑顔のはずなのに、うっすらと哀愁が漂う。


エミールは、屋敷に戻ると1人になりたがったが、ルカはあれこれ理由をつけて側に居続けた。エミールの情緒が心配だった。あの時、声を上げれなかった埋め合わせだ。


冷静に考えれば、アルヴァニエは、他所よりずっと住みやすい都市なのだ。そして、その街を、この子は作って来たのだ。自分の体は守っても、名誉のために声を上げてくれる者がいない中で。


なかなか書斎から出て行かないルカに、エミールが初めて毒づく。


「いつまでそこに居るつもりだ?私のベッドの中にまでついてくる気じゃないだろうな?」


赤い目が、ルカを睨みつけた。


「言い方に気をつけたらどうだ?そんな言い方をするから、誤解を招くんだぞ?」


ルカの砕けた言い方に、エミールは目を見開く。

領主相手の物言いではない。しかし、今は対等に振る舞っても許される気がした。


乞食も言えば良かったのだ。恥をかくことの何が元の生活に戻る事を妨げるのか。あの場で沈黙を貫いた者たちも言ってやれば良かった。


あの者たちは乞食の中でも最下層で、救貧院に行けば、他の乞食に嫌がらせをされるのだと。怠け者がいくところだと言ったのは、行きたくても行けない、彼らなりの矜持なのだと。


忖度し、何も言わなかったから、エミールは知らなかっただけだ。


ルカはエミールに近づくと、ソファーに放り出してあった薄いショールを拾う。


一瞬、エミールに触れるか躊躇した。

しかし、ルカはすぐにその考えを振り払うと、彼の肩にそっと、ショールをかけた。


「風邪をひかないでください。」


エミールが目を伏せる。長いまつ毛が影を落とした。

ルカの手が、自然とエミールの頭を撫でる。兄が弟にするように。


エミールが驚いて目を上げると、ルカの驚いた目とぶつかった。


「いえ、お気になさらず。」


された方が言うべき言葉を吐いて、ルカは慌てて部屋を出た。

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