後宮の毒見役は、毒が効かない体質だった。おかげで暗殺が全部バレる
第一話 紫陽花の茶
後宮に入って最初に出された茶は、紫陽花の甘い香りがした。
一口飲んで、少し首を傾げた。
「苦いですね」
向かいに座る侍女長の顔から、血の気が引いていく。茶碗を持つ私の手を、六つの目が凝視していた。
死ぬはずだった、という顔をしている。
私の名は翠玲。十七になったばかりで、今朝、後宮の毒見役として召し上げられた。
毒見役。文字どおり、皇帝や妃に供される食事や茶を事前に口にして、毒の有無を確かめる役目だ。命懸けの仕事だが、志願したのは私自身だった。理由は単純で、後宮の毒見役は給金が良い。田舎で弟妹の面倒を見ている祖母に、仕送りができる。
それに——死なないから。
物心ついた頃から、私は毒に当たらない。幼い頃、裏山で毒茸を食べても腹も下さなかった。蛇に噛まれても腫れなかった。村の薬師が首を捻り、「こんな体質は見たことがない」と匙を投げた。
だから毒見役は天職だと思った。
ただ、まさか初日から毒を盛られるとは思わなかった。
侍女長の名は劉芳蘭という。四十がらみの、背筋の伸びた女だった。後宮に二十年仕えているという話は、ここに来る前に聞いていた。顔の皺は深いが、目の奥に鋭いものが光っている。
その目が、今、大きく見開かれている。
侍女長の隣に控える二人の侍女——小柄で丸顔の方が春桃、切れ長の目をした方が秋蘭と、先ほど紹介された。二人とも茶碗を凝視したまま動かない。
沈黙が、重い。
私はもう一口、茶を啜った。
紫陽花の香りの奥に、確かに不自然な苦味がある。茶葉の渋みとは違う、舌の根元にじわりと残る種類の苦さだ。何の毒かまでは分からないが、毒であることは間違いない。村で散々毒草を食べてきた舌が、そう告げている。
「この茶葉、少し古いのでしょうか。渋みとは違う苦味があります。舌の奥のほうに残る感じの」
春桃の喉が、ごくり、と鳴った。
劉芳蘭が口を開いた。唇が微かに震えている。
「……お体に、変わりはありませんか」
「はい。元気です」
私は茶碗を両手で包み、残りを飲み干した。三人の顔が同時に歪んだ。
「ごちそうさまでした。あの、次のお仕事は何でしょう」
劉芳蘭が椅子から立ち上がった。膝が卓の角にぶつかり、茶器が甲高い音を立てた。この人がこんな粗相をするところを、おそらく誰も見たことがないのだろう。春桃と秋蘭が息を呑む気配がした。
「少し——待っていなさい」
侍女長は足早に部屋を出ていった。
残された私と二人の侍女。気まずい沈黙。
「あの」
春桃に声をかけると、彼女は椅子ごと後ずさった。
「お茶のおかわり、いただけますか。喉が渇いてしまって」
春桃は秋蘭と顔を見合わせた。秋蘭が小さく首を横に振る。
「……少々お待ちください」
春桃が震える手で茶を淹れ直してくれた。今度の茶からは、あの不自然な苦味はしなかった。素直に美味しい。
「あ、このお茶は美味しいです。さっきのとは茶葉が違いますか?」
春桃の顔が蒼白になった。
*
半刻ほど待たされた。
その間、春桃も秋蘭も一言も口を利かなかった。私が話しかけるたびに、二人は肩を竦めて目を逸らした。
仕方がないので、部屋の中を眺めて過ごした。
毒見役の部屋は、後宮の東の端にあった。六畳ほどの狭い部屋で、卓と椅子が四脚、壁際に寝台が一つ。窓は高い位置に一つだけで、そこから午前の光が斜めに差し込んでいる。壁は白い漆喰で、染み一つない。しかし漆喰の匂いが新しい。最近塗り直したのだろう。
前任者の痕跡を消すために。
毒見役の平均寿命は短い、と聞いている。
窓の外から、鳥の声が聞こえた。鶯だろうか。後宮の庭には梅が植えられていると聞く。
春桃がそわそわと膝の上で手を組み替えている。秋蘭は目を閉じて微動だにしない。
足音が近づいてきた。複数の足音。
扉が開き、劉芳蘭が戻ってきた。その後ろに、見知らぬ男が二人。一人は文官の装束、もう一人は太医院の医官と思しき白い袍を纏っている。
「翠玲」
劉芳蘭の声は、先ほどより落ち着いていた。しかし目の奥の光は、むしろ鋭さを増している。
「先ほどの茶について、もう一度詳しく聞かせなさい」
文官が卓の上に筆と紙を広げた。医官は私の正面に座り、脈を取ろうと手を伸ばしてきた。
私は素直に手首を差し出した。
「苦味がありました。茶葉の渋みとは違います。舌の根元に残る感じで、後味に微かに痺れるような——」
「痺れる」と医官が遮った。瞳孔が開いている。「痺れは今もありますか」
「いえ、もう消えました。飲んですぐに感じただけです」
医官は私の脈を取りながら、眉間に深い皺を刻んだ。指先が私の手首を何度も位置を変えて押さえる。
「……脈に異常はない」
信じられない、という声だった。
文官が筆を走らせている。劉芳蘭が医官に目配せした。
「周先生、この娘にあの茶を」
医官——周先生は頷き、懐から小さな陶器の瓶を取り出した。先ほどの茶碗に残っていた茶を移したものだろう。蓋を開け、匂いを嗅ぎ、一滴を指先に取って舌に触れた。
その顔が、劇的に変わった。
「紫河豚の毒だ」
部屋の空気が凍った。
紫河豚。名前だけは知っている。南方の河に棲む魚で、その内臓に含まれる毒は、致死量がほんの一匙だという。解毒剤はない。摂取して半刻で手足が痺れ、一刻で呼吸が止まる。
私がこの茶を飲んでから、すでに一刻以上が経っている。
「確かですか」と劉芳蘭。
「間違いない。この苦味、この微かな甘み。紫河豚の肝の煎じ汁だ。致死量の——」
周先生は私を見た。
「致死量の、おそらく三倍は入っている」
文官の筆が止まった。
春桃が小さな悲鳴を上げた。秋蘭の目が見開かれている。
私は自分の両手を見下ろした。震えていない。指先の色も普通だ。腹も痛くないし、息苦しくもない。
「三倍」と私は繰り返した。「道理で苦かったんですね」
誰も笑わなかった。
*
事態は、私が想像していたよりもずっと大きく動いた。
紫河豚の毒は高価で、入手経路が限られる。後宮の中でこれを手に入れられる人間は多くない。文官——禁衛府の査問官だと後で知った——は、茶の準備に関わった者全員を拘束するよう命じた。
私はしばらく部屋で待つように言われた。
今度は一人だった。春桃も秋蘭も、査問のために連れていかれた。
一人になると、急に静かになった。
窓の外の鶯が、相変わらず鳴いている。
寝台に腰を下ろした。硬い。枕元に、前任者の物と思しき簪が一本、壁と寝台の隙間に落ちていた。銀製で、先端に小さな翡翠が嵌め込まれている。安物ではない。
前任者はどうなったのだろう。辞めたのか。それとも——。
簪を棚の上に置いた。
昼餉の時刻を過ぎても、誰も来なかった。腹が減った。
午後の光が窓から消え始めた頃、ようやく足音が聞こえた。今度は一人分。軽い足取り。
扉を叩く音。
「入ってもいい?」
若い女の声だった。侍女長とは違う、柔らかい声。
「どうぞ」
入ってきたのは、私と同じくらいの年頃の娘だった。丸い顔に大きな目。髪を高く結い上げ、桃色の袍を着ている。侍女の装束だが、布地の質が良い。
「あなたが新しい毒見役? 私、玉鈴っていうの。麗妃様の侍女」
玉鈴は勝手に椅子を引いて座った。卓の上の空の茶碗を見て、目を丸くした。
「もしかして、お昼も食べてないの?」
「はい」
「信じられない。ちょっと待ってて」
玉鈴は部屋を飛び出し、しばらくして戻ってきた。盆の上に、饅頭が三つと、湯気の立つ碗が載っている。
「厨房から持ってきた。食べて食べて」
私は遠慮なくいただいた。饅頭の皮が薄く、中の餡は肉と香菜。碗の中身は鶏の粥だった。温かい食べ物が胃に沁みる。
玉鈴は頬杖をついて、私が食べるのを眺めていた。
「ねえ、本当に毒を飲んで平気だったの?」
「はい」
「紫河豚の毒を?」
「そうらしいです。苦かったです」
「苦かった」玉鈴は目を瞬いた。「紫河豚の毒を飲んで、感想が『苦かった』」
「他に言いようがなくて」
玉鈴が吹き出した。声を殺して、肩を震わせて笑っている。
「あなた、面白い。ここ最近で一番面白い」
何が面白いのかは分からない。でも、笑い声を聞くと肩の力が抜けた。ここに来てから、向けられるのは怯えた顔か険しい顔ばかりだった。
「ねえ、翠玲って言うんでしょ。これから仲良くしよ」
「こちらこそ」
玉鈴は饅頭の最後の一つを私に押しやりながら、声をひそめた。
「でもね、気をつけて。今日の毒、あれは偶然じゃないから」
「偶然じゃない?」
「毒見役の初日に毒を盛るなんて、普通はしない。あれは試したのよ。新しい毒見役がどの程度の人間か」
「誰が」
「それが分かったら苦労しないでしょ」
玉鈴は立ち上がり、袍の裾を払った。
「後宮には四人の妃がいるの。麗妃様、淑妃様、賢妃様、徳妃様。それぞれが派閥を持っていて、侍女も宦官も厨房の者も、みんなどこかの派閥に属してる。毒見役は——どこにも属さない、はずなんだけど」
「はず?」
「前の毒見役は淑妃派だった。だから殺された」
私の手が、饅頭を持ったまま止まった。
「殺された?」
「公式には病死。でもみんな知ってる。あの子は毒見の際に、淑妃様に都合の悪い毒だけ見逃していた。それがバレて——」
玉鈴は首の前で手を横に引いた。
「だからあなたも、どこかの派閥に取り込まれないようにね。取り込まれたら最後、用済みになった時に消される」
玉鈴は手を振って部屋を出ていった。桃色の裾が扉の向こうに消える。
一人になった部屋で、私は残りの饅頭を食べた。
冷めかけた粥を啜りながら、考えた。
派閥争い。暗殺。毒を盛る者と盛られる者。
私がこの後宮で生き延びるために必要なのは、どの派閥にも属さないこと。そして——毒が効かないことを、あまり知られすぎないこと。
いや、もう遅いかもしれない。紫河豚の毒を飲んで生きている人間の噂は、おそらく後宮中に広まっているだろう。
窓の外で、鶯が鳴くのをやめた。代わりに、夕暮れの鐘が遠くから聞こえてきた。
*
翌朝から、毒見役としての仕事が始まった。
朝餉の前に厨房へ行き、皇帝に供される全ての料理を一口ずつ味見する。昼餉も同じ。夕餉も同じ。茶も菓子も果物も、全て私の舌を通してから御前に出される。
劉芳蘭が付き添った。昨日の動揺は完全に消え、いつもの厳格な表情に戻っている。しかし私を見る目が変わった。昨日までは「新入りの小娘」を見る目だった。今は——何と言えばいいのか。珍獣を見るような目だ。
「翠玲。味に少しでも違和感があれば、すぐに報告しなさい。どんな些細なことでも」
「はい」
朝餉の毒見を終えた。異常なし。鯛の蒸し物は美味しかった。翡翠の色をした菜の花の和え物も良い。皇帝は良いものを食べている。
昼餉の毒見も異常なし。
仕事自体は単純だった。食べて、味を確かめて、異常がなければ報告する。それだけ。
問題は、食べる以外の時間だった。
後宮の中を歩くと、視線を感じる。侍女たち、宦官たち、庭の手入れをする下働きの者たち。すれ違うたびに、ひそひそと囁き合う声が聞こえる。
「あれが——」
「紫河豚を——」
「死ななかった——」
予想通りだった。噂は一晩で後宮中に広まっていた。
午後、洗濯場の横を通りかかった時、呼び止められた。
「ちょっと、あなた」
振り向くと、三十がらみの侍女が二人、洗い物の手を止めてこちらを見ていた。
「新しい毒見役でしょ。本当に毒が効かないの?」
「さあ。たまたまだったのかもしれません」
嘘をついた。たまたまではない。生まれてから一度も毒に当たったことはない。でも、玉鈴の忠告が頭にあった。知られすぎないこと。
「たまたま紫河豚の毒が効かないなんてことある?」
「分かりません。私、毒のことは詳しくなくて」
これは本当だった。効かないだけで、詳しくはない。
侍女たちは納得していない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。
部屋に戻ると、卓の上に包みが置いてあった。開けると、干し柿が五つ。誰が置いたのか分からない。添え書きもない。
匂いを嗅いだ。干し柿の甘い香りの下に、微かに——青酸の匂い。杏仁に似た、鼻の奥を刺す匂い。
毒だ。
二日連続。
私は干し柿を包み直し、劉芳蘭のところへ持っていった。
「これを部屋に?」
劉芳蘭は包みを見て、眉一つ動かさなかった。しかし、卓の下で拳を握りしめているのが見えた。
「はい。戻ったら置いてありました」
「食べていないでしょうね」
「食べていません。匂いで分かりましたので」
「匂いで」
「杏仁のような匂いがします。かすかにですが」
劉芳蘭は干し柿を布で包み、再び周先生を呼んだ。
周先生の鑑定は早かった。
「苦扁桃の煎じ汁だ。干し柿に染み込ませてある。これも致死量を超えている」
劉芳蘭の目が細くなった。
「翠玲、あなたの部屋に鍵は」
「ありません」
「今日中に取り付けさせます。それと——」
劉芳蘭は少し考えてから、続けた。
「今後、出所不明の食べ物には一切手をつけないこと。私が渡したもの以外は」
「はい」
従うつもりだった。ただし、理由は劉芳蘭が思っているものとは少し違う。私は毒では死なない。でも、毒入りの食べ物を平然と食べてしまえば、毒を盛った側が分からなくなる。食べずに報告したほうが、犯人を追える。
それに——食べ物を粗末にしたくなかった。毒さえなければ美味しそうな干し柿だったのに。もったいない。
*
三日目。
朝の毒見を終え、部屋に戻ると、玉鈴が待っていた。
「大変なことになってるわよ」
玉鈴は興奮した様子で、椅子の上で正座していた。
「何がですか」
「昨日の干し柿の件。犯人が捕まったの。賢妃様の侍女よ。彼女が厨房から苦扁桃の実を持ち出していたのが、記録と合わなかったんですって」
「賢妃様の侍女が、なぜ私に」
「あなたに、じゃないと思う。あなたの前任者——淑妃派の毒見役を使って、皇帝の食事に毒を紛れ込ませる計画だったんじゃないかって。でもその毒見役が消されて、代わりにあなたが来た。計画が狂ったのよ」
玉鈴は指を折りながら説明した。
「つまりね、賢妃派はまず新しい毒見役——あなたを排除しようとした。排除して、次に自分たちの息のかかった毒見役を入れるつもりだったんでしょう。ところがあなたが死ななかった。それで慌てて二度目を仕掛けた。でもそれも失敗して、足がついた」
「初日の紫河豚も賢妃派?」
「それはまだ分からない。初日のは劉芳蘭様が直接淹れた茶だったでしょ? 劉芳蘭様はどの派閥にも属さないことで有名だから、茶葉に毒を仕込んだのは厨房の段階か、茶葉の保管庫に手を回したか——」
「詳しいですね」
「麗妃様の侍女ですもの。情報は命綱よ」
玉鈴は声をひそめた。
「それでね、問題はここから。賢妃派の侍女が捕まったことで、賢妃様の立場が悪くなった。当然よね、自分の侍女が毒見役を毒殺しようとしたんだから。でも賢妃様は『知らぬ存ぜぬ』で通してる。侍女の独断だと」
「信じる人がいるんですか」
「いないわよ。でも証拠がなければ、妃を罰することはできない。侍女一人が処罰されて終わり。表向きはね」
玉鈴は窓の外に目をやった。
「でも裏では、力関係が動いてる。賢妃派が弱ったことで、淑妃派と麗妃派が勢いづいてる。特に麗妃様は——」
「玉鈴」
私は遮った。
「私にそれを話して、大丈夫なんですか。麗妃様の侍女として」
玉鈴は一瞬きょとんとした顔をして、それから笑った。
「大丈夫。麗妃様はね、あなたを味方につけたいの。だから私を寄越したのよ。友達になれって」
あけすけな物言いに、私は呆れるより先に感心した。少なくとも、裏で手を回すよりはずっと分かりやすい。
「味方になるかどうかは別として、友達にはなれます」
「上等」玉鈴は手を叩いた。「あ、でもこれ、麗妃様には『味方になるとは言ってません』って伝えるからね。正直に」
「お願いします」
玉鈴は立ち上がりかけて、思い出したように振り返った。
「そうだ。もう一つ大事なこと。今日の午後、徳妃様があなたに会いたいって」
「徳妃様が?」
「四人の妃の中で一番古株。一番静かで、一番怖い人。断れないと思うけど、気をつけてね」
玉鈴は去っていった。
*
午後。
徳妃の居室は、後宮の北の奥にあった。
他の妃の居室が華やかな装飾で彩られているのに対し、徳妃の部屋は簡素だった。調度品は最低限。壁には一幅の山水画。卓の上に筆と硯。書物が几帳面に積まれている。
徳妃は、四十を過ぎているはずだが、それよりずっと若く見えた。痩身で、肌が白い。髪は黒々として、白髪が一本もない。
目が印象的だった。深い色をした瞳。感情を映さない、凪いだ湖面のような目。
「座りなさい」
声も静かだった。命令なのに、命令に聞こえない。
私は徳妃の向かいに座った。侍女が茶を運んでくる。
徳妃は私の前に茶碗を置いた。自分の分も。
「飲みなさい」
私は茶碗を手に取り、香りを確かめた。菊花茶。苦味も異臭もない。毒は入っていない。一口飲んだ。美味しい。上等な菊の花を使っている。
「異常は?」と徳妃。
「ありません。とても美味しいです」
「そう」
徳妃は自分の茶碗を持ち上げ、一口含んだ。そしてしばらく私を見つめた。値踏みするような、しかし敵意のない視線だった。
「紫河豚の毒を飲んで生きている人間を、私は初めて見た」
「私も初めてです。飲んだのが」
嘘だった。子供の頃、川で捕まえた河豚を焼いて食べたことがある。あのときも何ともなかった。ただ、紫河豚の毒は桁違いに強いと聞くので、同じとは言い切れない。
「毒が効かない体質——生まれつきか」
「はい。物心ついた頃から」
「便利だな」
皮肉の響きはない。声の温度がそのまま言葉になっている。
「翠玲。後宮に入った理由は」
「給金が良いからです」
徳妃の眉が微かに動いた。
「正直だな」
「家族に仕送りをしたいんです。田舎に祖母と弟妹がいて」
「なるほど。忠義でも野心でもなく、家族か」
徳妃は茶碗を置いた。
「一つ、助言をしよう。お前が毒に強い体質であることは、すでに後宮中が知っている。これは諸刃の剣だ」
「はい。分かっています」
「分かっていない」徳妃の声が、初めて鋭さを帯びた。「毒が効かないということは、お前を毒見役として使えば、どんな毒も検出できるということだ。それはつまり——お前がいる限り、毒による暗殺は不可能になる」
私は息を詰めた。その意味を、咀嚼した。
「暗殺を企てる者にとって、お前は最大の障害になる。殺そうとするだろう。毒以外の方法で」
背筋に冷たいものが走った。
毒以外の方法——刃物。絞殺。転落。火事に見せかけた放火。毒が効かないことに安住していた自分の甘さを、徳妃の言葉が抉った。
「では、どうすればいいのでしょう」
「味方を作れ。ただし、派閥には入るな」
「矛盾していませんか」
「していない。派閥に属さず、しかし全ての派閥から必要とされる存在になれ。お前の体質はそれを可能にする。どの妃にとっても、有能な毒見役は喉から手が出るほど欲しい。しかしお前が特定の妃に偏れば、他の妃はお前を敵とみなす」
徳妃は立ち上がった。
「全ての妃の食事の毒見を引き受けろ。皇帝だけでなく。そうすれば、お前を害することは後宮全体の損失になる。誰もお前に手を出せなくなる」
会見は、それで終わった。
徳妃の部屋を出ると、廊下の冷たい空気が頬に当たった。
足が震えていた。寒さのせいではない。
今更になって、自分がどれほど危険な場所に足を踏み入れたのか、実感が湧いてきた。毒が効かないという体質は、この後宮では盾にもなるが、的にもなる。
*
夕餉の毒見を終え、部屋に戻った。
鍵が取り付けられていた。劉芳蘭の約束通りだ。真新しい鉄の鍵を回して、部屋に入った。
寝台に座り、今日一日を振り返った。
賢妃派の侍女が捕まった。玉鈴を通じて麗妃が接触してきた。徳妃が助言をくれた。
三日目にして、後宮の四大派閥のうち二つと接触した。残りは淑妃派と——賢妃派は当分こちらに近づけないだろう。
棚の上に置いた前任者の簪が、夕暮れの残光を受けて微かに光っていた。翡翠の緑が、暗がりの中で沈んでいく。
この簪の持ち主は、派閥に取り込まれて死んだ。私はそうならない。
ならない、ではなく——なるわけにはいかない。祖母が待っている。弟の学費がいる。妹はまだ十二だ。
鐘が鳴った。夜の帳が、後宮に降りる。
鍵をかけて、灯りを消そうとした時——扉を叩く音がした。
三度。等間隔。強すぎず、弱すぎず。
「誰ですか」
「開けろ」
低い声。男の声だった。後宮に男——皇帝か、宦官か。
宦官なら名乗るはずだ。名乗らず、命令の口調。
鍵を回した。扉を開けた。
廊下に立っていたのは、若い男だった。二十代半ば。長身で、肩幅が広い。黒い髪を高く結い上げ、金糸の刺繍が入った深紅の袍を纏っている。その袍の胸元に、五爪の龍が金糸で縫い取られていた。
五爪の龍。
それを身につけることを許されるのは、この国にただ一人。
「陛下——」
膝をつこうとした私を、手で制した。
「立て。狭い部屋で礼は要らん」
皇帝が毒見役の部屋に来る。異例中の異例だろう。背後に護衛の気配もない。一人で来たのか。
皇帝は部屋に入り、狭い室内を見回した。卓。椅子。寝台。壁の漆喰。何もない部屋を、しかし興味深そうに見ている。
「お前が、紫河豚の毒を飲んで生きていた毒見役か」
「はい」
「名は」
「翠玲と申します」
「翠玲。いい名だ」
皇帝は椅子に座った。当然のように、上座に。私は向かいに立ったまま、どうしていいか分からなかった。
「座れ」
座った。
皇帝の顔を、正面から見た。整った顔立ちだが、目の下に隈がある。頬がこけている。若いのに、疲れた顔をしている。この人は夜、眠れていない。
「翠玲。お前が毒見をした茶を、私にも淹れてくれ」
「——は?」
間の抜けた声が出た。皇帝相手に「は?」と言ってしまった。不敬罪で首が飛ぶかもしれない。
しかし皇帝は気にした様子もなく、続けた。
「お前の舌を通った茶が飲みたい。毒がないと、お前が証明した茶を」
その目は——疲れていた。底の見えない疲労が、若い瞳の奥に淀んでいた。
この人は、自分の食事を信用していない。
当然だ。後宮で毒を盛られる筆頭は、皇帝自身なのだから。
「お待ちください。お淹れします」
私は棚から茶葉を取り出した。劉芳蘭が「これは安全だ」と自ら封をしてくれた茶葉だ。湯を沸かす道具は部屋にある。小さな炉に火を入れ、鉄瓶に水を張った。
湯が沸く間、皇帝は黙っていた。私も黙っていた。
鉄瓶の湯が沸き始める。最初は小さな泡が底から立ち昇り、やがて大きな泡に変わる。
茶碗を温め、茶葉を入れ、湯を注いだ。茶葉が開いていく。碧色の液体が、茶碗の白い肌に映る。
一口、飲んだ。
甘みと渋みの均整が取れた、良い茶だった。毒の気配はない。
「異常ありません」
茶碗を皇帝の前に置いた。新しい茶碗に、同じ茶を注いで。
皇帝は茶碗を持ち上げ、香りを嗅いだ。
一口、含んだ。
長い沈黙。
「美味いな」
「はい。良い茶葉です」
皇帝は茶碗を両手で包み、二口目を飲んだ。その仕草は、帝王というよりも、温かいものに飢えた一人の青年に見えた。
「翠玲」
「はい」
「明日から、朝の茶は必ずお前が淹れろ。私の分を」
「承知しました」
皇帝は茶を飲み干し、立ち上がった。扉に向かい、しかし敷居のところで足を止めた。振り返らずに言った。
「死ぬなよ」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
私は空になった二つの茶碗を見つめた。
片方は私のもの。片方は皇帝のもの。同じ茶葉で、同じ湯で淹れた茶。それを共に飲むことが、この後宮ではどれほど重い意味を持つのか——私にはまだ分からなかった。
分からなかったが、一つだけ確かなことがある。
皇帝のあの目。あれは、信頼ではなかった。試験でもなかった。
懇願だ。
誰かを信じたいという、切実な——。
窓の外で、夜鳥が一声鳴いた。
後宮の夜は、深い。
私は鍵をかけ、灯りを消した。
明日もまた、誰かが毒を盛るだろう。
それでも私は死なない。死ねない。
帰る場所があるから。待っている人がいるから。
それから——今夜初めて、もう一つ理由が増えた。
あの茶碗を、明日も温かいまま差し出す理由が。
寝台の硬さが、少しだけ気にならなくなっていた。




