1話 要するに、見崎渚の日常は美少女三人に侵略された(1)
よくわからないけど、とりあえず目覚ましが鳴らなかった。つまり俺は完全に終わった。
「ヤベェっ……遅刻だ遅刻!」
ベッドから跳ね起きて、昨晩の俺が今日の俺のために用意しておいた服を片手で引っつかみながら、もう片方の手で洗面所のドアを開ける。
歯磨きしながらズボン履くとかいう人間の尊厳もへったくれもない状態で、時間との死闘を繰り広げる俺。
普段、電車なんてまず乗らない。正確に言うなら、電車が嫌いだ。揺れるし、知らん人と近いし、あとなんか匂いとか混ざるし。
だからいつもは自転車で学校に行く。ちょっと早めに家を出ればいいだけだし、学校は隣の地区にあるとはいえギリギリ地区境だから、距離的にはそこまででもない。
が、今日は寝坊した。完全にアウト。電車以外の選択肢なんて残されてない。
タクシー?ないない。家から学校までの距離を考えたら、料金聞いた瞬間に心臓止まるわ。
自転車も論外。ここから学校まで四十分はかかるし、今から漕いだら逆に途中で力尽きる。
よって、電車が最速。ALCATRAZ地区から出てDEATH地区との境界を通る路線が一本あって、本数も多いからたぶん乗れるはず。
たぶん……
洗面所から飛び出しながら鞄を肩にかけ、一気に玄関を蹴り開ける。今の俺に必要なのは冷静さでも計画性でもなく、ウルトラマンの飛行速度だ。
ウルトラマンってマッハで飛ぶんだよな。
例えばウルトラセブンはマッハ7で飛ぶ!マッハ1が時速1224キロ。もし俺もそれくらいで飛べたら、学校まで一秒もかからないじゃん。ていうか、それなら毎日ギリギリまで寝てられるんじゃね?
今の家には誰もいない。
俺の妹、海夏はもう学校に行ってしまった。そういや今日は学校のイベントか何かがあるとかで、いつもより早く出て行ったんだった。
普段なら、海夏は俺と一緒に家を出る。というのも、俺と海夏の通学ルートはほぼ同じで、通る道の途中に海夏の学校があるから、毎朝の送りは完全に俺担当だ。
紹介しよう。俺の妹、見崎海夏。15歳、中学三年生。そして——ここ二年でデビューしたアイドル様。DARK市じゃ知らない人はいないレベルで有名だ。
……と聞けば、誰だって「うわっ羨ましい!」って言うだろうけど、兄としての本音を言わせてもらうなら、俺は妹がアイドルじゃなくて、ただの普通の女の子でいてくれたほうがいい。
だって、有名になるってのは、それだけ面倒事も増えるってことだ。たったひと言、たったひとつの仕草が、あっという間に世間の目に晒される。
好きって言ってくれる人がいるなら、嫌いって言う奴だって必ずいる。
アイドルってのは、そういう理不尽な世の中の圧を受け止めなきゃならない職業だ。まだ十五歳の海夏に、そんな重圧を背負わせたくない。
だから俺は、妹に「普通」でいてほしかった。でも、それが妹の夢だというのなら、兄として俺にできることはただ一つ。
黙って背中を守り続けるだけだ。アイドル海夏の、目に見えない盾になること。
そんな俺の名前は見崎渚。17歳。一ヶ月前に隣のALCATRAZ地区にある琉璃光影高等学校に転入してきたばかりの、ごく普通の男子高校生。
「渚」って名前のせいで、初対面の人間にはほぼ確実に女子と勘違いされるんだけどな。
断じて言っておく、俺は正真正銘の男だ!変な期待するなよ!?ていうか何で親は俺にこんな名前つけたんだ。未だに問い詰めたい。
なんてどうでもいい自虐を脳内再生してる今この瞬間も、俺は家から四百メートル先の駅に向かって全力疾走中である。
息なんか整えてる暇は一ミリもない。なぜなら、遅刻したときのペナルティが、シャレにならないほど重いからだ。
あの女の恐ろしさを思い出しただけで、背筋がゾッとして汗が吹き出す!
駅に着いた瞬間、ちょうど電車がホームに滑り込んできた。満員電車を覚悟していたんだが、いざ乗ってみると、意外にもそこまで混んでいなかった。
ちょっと詰めれば座れるくらいの余裕はある。
おいおい、今日の俺、もしかして運勢MAXじゃね?
とは思ったものの、俺は座らない。
ああいう微妙にスペースのないところに無理やり座って、ちょっと体を動かすたびに「すみません」って気を遣いまくるあの感じが大の苦手なんだ。
それが俺が電車嫌いな理由でもある。というわけで、潔く立つ!
適当に横の手すりを掴んで、スマホを取り出し、愛用のマンガアプリを立ち上げた、けどその瞬間。
「あ、見崎くん」
ふいに名前を呼ばれた。
……ん?今の声、聞き覚えあるような、ないような。でも少なくとも一度は聞いたことがある声だ。
反射的に顔を上げ、声のした方を見る。
ああ、やっぱりな、恒川紅葉。
電車の座席に腰掛け、静かに雑誌を読んでいる長い黒髪の少女。そしてその両隣には、同じく美少女二名。
一人は恒川の隣でスマホを弄っている中野桜花。もう一人は、恒川の肩に頭を預けて、完全に寝落ちしている里浜彩奈
「……つ、恒川?」
なんで俺の名前呼んだ?俺たち、まともに会話したことなんて一度もないはずだぞ。まさか昨日の、アレか?
「これ、ずっと探してたヘアピンでしょ?さっき階段のところに落ちてたよ」
「あっ、ありがと!」
そう、ただそれだけの話だ。昨日たまたま校舎の階段で落ちてたヘアピンを見つけて、持ち主が恒川だと気付いたから返しただけ。
少し紹介してやるよ、恒川紅葉、中野桜花、里浜彩奈、この三人は俺の学校で知らない奴はいない美少女トリオだ。
しかもその中でも恒川紅葉は同じクラス。この三人、転校したばかりで学校の噂話とか全然興味ない俺ですら知ってるレベルの有名人なんだから。
「こんなところで会うなんて、偶然だね」
「俺もまさかここで会うとは思わなかったよ」
「紅葉ちゃん、こちらは?」
隣で会話の様子を見ていた中野が、不思議そうに首を傾げながら俺と恒川を交互に見つめる。
「この人ね、最近うちのクラスに転入してきた見崎くん。昨日、君のヘアピン拾ってくれたの」
え?あのヘアピンって中野のだったのか!てっきり恒川の物だと思ってたぞ?
「そうだったんだ!ありがとね、見崎くん!初めまして、あたし、中野桜花です!」
「ど、どうも。見崎渚です」
「ねぇ見崎くん。立ってるの疲れるでしょ?ほら、ここ詰めたら一人くらい座れるよ」
そう言って中野は少しだけ体を紅葉のほうへ寄せ、空いたスペースをポンポンと手で叩いてみせた。
お、おいおいおい、何この展開!?
現実には恋愛ラブコメなんて存在しないと信じて疑わない俺が、まさか今まさにその導入シーンに突入してるんじゃないのかこれ!?
いやいやいや!落ち着け俺!これはただの「親切」だから。都合よくラブコメ補正かかるわけないから!
とはいえ、目の前にいるのは学校でも有名な美少女トリオ。
その真ん中に俺が座ったら、もし誰かに見られた日には、確実に余計な誤解を招く。下手したら命の危険すらある。
でもって、改めて至近距離で見て気づいたんだが……中野、めちゃくちゃスタイル良くないか?
こんな窮屈な制服着せられてるのに、まったく隠しきれてない曲線美。制服が体のラインをむしろ際立たせてるという事実。
ってちがぁぁぁう!!何考えてんだ俺は!冷静になれ!それは心の中で見るだけにしとけ!
漫画やラノベにありがちなラブコメ展開。
それは、思春期男子なら一度は夢見る理想郷だ。タイプの違う美少女たちと出会い、わちゃわちゃしながらゆるくて楽しい学園生活を送る……そんなもの、天国以外の何物でもない。
だが、あれは幻想だ。ラブコメは現実には存在しない。
現実と幻想は、決して交わらない世界。現実は残酷で、不公平で、理不尽に満ちている。
そこで苦しむ人間は、ただ耐えるしかない。ラブコメとは真逆の世界だ。
だから俺にとってラブコメとは、残酷な現実に突き落とされる直前の、一瞬だけ見せられる儚い夢。その程度のものなのだ。
生粋のオタクである俺は、自分の人生にラブコメなんて起こるはずがないと思ってるし、この世界のどこかにラブコメが実在するとも思ってない。
だから、俺は座らない!その甘い誘惑に乗るつもりは一切ない!
たとえ目の前の子のスタイルがめちゃくちゃ良かったとしてもな!!
「見崎くん?」
俺がその場で固まったまま動かないもんだから、中野がもう一度名前を呼んでくる。それにつられて、恒川と里浜までもがこっちに視線を向けてきた。
やばい。さっきから完全に思考が飛んでた。べ、別に中野のスタイルに見惚れてたとかじゃないからな!?たまたまだ!偶然見えただけだ!!
「いや、大丈夫。俺は立ってるほうが好きなんだ。みんなは座ってていいよ」
「でも、ずっと立ってたら疲れるでしょ?」
「平気平気。気遣ってくれてありがとう」
どうせすぐ着くんだ。少しくらい立っていても疲れやしない。
それに、もし座るとしても、俺は一人で静かに座りたいタイプだ。
横に誰かがいるだけで妙に落ち着かなくなる。だからこそ毎日自転車で登校してるわけで。
「一緒に座ったほうが楽だと思うけど……?」
今度は中野ではなく、隣の恒川が静かに声をかけてくる。
「いや、ほんとに大丈夫」
俺はきっぱりと断った。
女子と密着して座れるなんて、世の男どもからすれば喉から手が出るほど羨ましいシチュエーションなんだろう。
しかも相手は学校でも有名な美少女。中野なんてスタイルもいいし、顔も可愛い。
だが、俺は嫌だ。
狭いところでぎゅうぎゅうになるのがまず苦手だし、誰かに見られたら絶対にややこしいことになる。余計なトラブルは御免だ。
そして何よりも、ラブコメなんてものは、罠に決まってる!




