桜と無詠唱
声を持たない少女・ねむが、家族や仲間と共に笑い合いながら日常を生き抜き、妄想と現実の狭間で自分の居場所を見つけていく物語
窓から見える校庭の桜並木が、風に揺れて花びらを散らせている。薄いピンクの絨毯が地面を覆って、まるで絵本の中の世界みたい。
……
みたいな事言っちゃったりして。。
気がつけばもう5年生か。
私は机に頬杖をしながら窓の外を眺める。
風が気持ちいい。開け放たれた窓から流れ込む空気は、桜の甘い香りを運んでくる。
うん。詩の才能あるかも。
……ラノベの読みすぎかもしれんけど。
小学生でこれ?厨二病、発症早すぎでは?
まぁいいや。
語る相手。
居ないし。
ここは富山県の山間部に位置する自然豊かな場所だ。でも市街地に入るとまあまあ都会。だと思う。そりゃ、東京なるものや、大阪なるものを比べると田舎かもしれない。行った事ないけど。
でも、不自由なんてない。朝はママが学校まで送ってくれるし、ご飯も美味しい。お兄ちゃんも優しくて、パパはすごく真面目でママ一筋。幸せなんだろうな、私。
多分だけれど。
するとガタンと私の隣の席から机と椅子が強めに当たる音がする。それと同時に。
「うあああああぶぁああああ、あ!ば!!」
ガタン!ガタン!
机を激しく揺らす音が響いた。岸田くんが椅子から立ち上がって、机に両手をついて唸っている。
首には力が入り、何本もの筋が浮きでいて、口元の両端には泡が溜まっている。
岸田くん、私の同級生。
普段は大人しいんだけれど、今日は機嫌が悪いみたい。何かが気に入らない時、彼はこうやって声を出す。言葉ではなく、感情をそのまま音にして表現する。
まぁ。いつも通りと言っておこうか。
「ううううぁああああ!」
岸田くんが消しゴムを手に取って、口に運ぼうとする。
私は落ち着いて立ち上がり、そっとその消しゴムを取って自分の机の中に隠した。
岸田くんは私の方を向いたが、何も言わない。少し困ったような表情をしているけれど、怒ってはいない。彼なりに、私がなぜそうしたのか理解してくれているみたい?
しばらくすると、また「んんん!あああ!」と声を出している。
まだ機嫌が直らないようだ。でも、もう危険なものに手を伸ばそうとはしない。
私は自分の席に戻って、また窓の外の桜を見る。
ふぅ。
今日も平和だ。
まあ、暇とも言うけれど。
こういったいつもと変わらない光景は私の心に平穏を与える。
廊下から足音が聞こえて、先生が教室に戻ってきた。
「ねむちゃん、ごめんね!岸田くんのこと見ててくれて!」
私は無言で消しゴムを取り出して先生に渡した。
私はクールに無表情で、声には出さず、宙に描くように手を動かし、【食べる。だから。隠す。】と手話で伝える。まるで空間に陣式魔術を描き出すかのように。
「ええー!そうなの!ありがとう!頼りになるねえ、ねむちゃん!」
ふっ。今の動きはどうだったのだろうか。
最近鏡を見ながらどうクールに手話をするかを練習している。
セマティック・コンポーネントってみんなわかる?いわゆる“印”だ。
なんか無詠唱魔法してるようでカッコいいんだよね。
……いや、本気で言ってるわけじゃないけどさ。
あ、ちなみにこの学校の先生たちは全員手話できる。
当然といえば当然?なのかも。
さて。何故手話をしたかというと。
私は声が出せない。
生まれつき、声帯がない。
……まあ、そのせいで小学校一年のときは詰んでたんだけど。
でも耳は聞こえる。みんなの声も、音楽も、鳥のさえずりも、全部聞こえる。ただ、自分だけが音を出せない。
一年生の時は普通の学校に数ヶ月いた。
でも、話についていけずに、わからない事はすぐに質問が出来ず。
グループ活動みたいな事はほぼ仲間外れだった。友達なんか一人もできない。
そんな記憶。
遠い……そう、昔の記憶。
◇
2時間目が終わりちょっとした休憩時間。
私は看護師さんの前に立っている。
「はーい。ねむちゃん。あーんしてー?」
私は指示通りに口を開けて、拳に力を入れる。
看護師さんはチューブを喉に入れて痰を吸い出してくれた。
「はーい。ありがと。ねむちゃん。」
私は無言で涙を溜めながらその場を立ち去る。
っぷぅはー。
随分痰も減ってきたな。
もういいんじゃない?自分でできるし。
それより歯がグラグラして痰の事忘れてたワイ。
私は鏡を取り出して奥歯の揺らついている歯を人差し指で何度も触れる。
そんな遊びをしていると、
「ぶぁーーー!!ばばばぁ!」
教室中にいつもの悲鳴というのか、感情が鳴り響く。
深沢さんか。
深沢さんの身体を必死に抑えている先生の腕をつねっている。泣き喚きながら、彼女は必死に抵抗していた。
私は慣れたけど、吸引って人によっては本当にストレスが強い。こりゃ仕方なし。
2人とも。
がんばれ!
この学校には、岸田くんや深沢さんのような子たちがたくさん通っている。
車椅子で移動している子もいれば、義足をつけている子もいる。
手のない子。生まれつきの子もいれば、事故で失った子もいる。でもみんな、器用に足や口を使って字を書いたり絵を描いたりしている。
顔の形が少し特殊な子。でも彼女はいつも笑顔で、どんな状況であろうと自分が悲しくても、痛い時も、苦しい時も。笑顔だ。
耳の聞こえない子が複数。私と同じように手話でコミュニケーションを取っている。でも仲が良いって訳ではない。今月から入ってきた新入生と、高校生くらいの子も数人
そして、声の出せないだけの子が1人。
私だ。
おっと。そうだそうだ。自己紹介。
私の名前は香椎ねむ。
声帯未形成症の無詠唱魔術師。
得意なことは、タイピングと手話という陣式魔法。
あとは活字中毒で丁度今禁断症状が出ている。
掲示板の活字を読みながら落ち着いている所。
あと最近は異世界転生、悪役令嬢、魔術学校のハイブリッドが好み。
いいよなぁ…悪役令嬢…
目標?特にない。
こんな私が一体何をできるというのか。
なんかの部品でも組み立てる事くらいしかできんだろう。
趣味?音楽が大好き。
こんな厨二病の小学生が好きな音楽なんてたかが知れてると思ったお前。
チッチッチ。
なんとクラシックやジャズというオールドミュージック推しなのだよ。
もちろんアニソン、ポップス、ヒップホップも大好き。
この世では私の心を満たしてくれる唯一のものは音楽なんだ。
◇
ちょんちょんと私の肩を叩く感触
【ねむちゃん。教室。戻ろ?】
中学一年生の柊木さんが私に手話で伝えた。
【うん。次は自立活動?】
私達の静かな会話は音がなく、手の動きと顔を表情で伝え合う。
でも柊木さんの声帯は正常なので、こもった可愛い声が少しだけ漏れる時がある。
好きなんだよね……聴覚障害者の声……
こんなの絶対言えないけど。
あ。声無いけどね。テヘペロ。
【次は。ICTだよ。一緒。】
ほほー。
次はICTコミュニケーション機器練習。
ふふ。iPadだ。ご褒美授業。
私は最近iPadで絵を描いてる。我ながら下手くそ過ぎて草を越えて森状態。
今日は何して自分の才能を見つけようかうずうずしている。
【わかった。行こ?】
私は手話をしたついでに佳苗さんに手を伸ばし、手を繋ぎながら教室へ戻った。
柊木佳苗さん。中等部一年生の先輩だ。
聴覚障害で生まれて音を聞いたことが無いらしい。
こんなふうに手を繋いでいるけど、学校で会話するのは3日に一回くらい。
友達いるの?
愚問である。
いるわけないだろ。
喋れない小学五年生の厨二病で、無詠唱魔術と悪役令嬢に憧れる隠キャラに、誰が好んで話かけるのだ。
そんな事を思ってると佳苗さんが急に止まった。
【ねぇ。これ。みて?ねむちゃん。】
佳苗さんは掲示板を指差した。
〔交流授業のお知らせ。今年は冰覌小学で自然との触れ合いを体験。4月末予定〕
えぇ。。私達が行くのぉ……だるぅ。
【ねむちゃんはこれ行くの?】
佳苗ちゃんはくりっとした目をパチパチと開き首を傾げる。
【私は行かない。自然とか別に好きじゃない。】
表情を変えずに私は淡々腕を動かした。
【私。去年。行ってみたかったんだ。これ。】
佳苗さんは何故か寂しそうな表情をして掲示板を見つめた。
まるで、過去に切ない過去があったかのような。そんな空気が流れた。
【なんで?】
私は勇気を振り絞り……聞いてみた
ゴクリと唾を飲む音が私の中に響く。
【多分だけど。凄く。カッコいい。男の子が。いる。】
……
そっちかいっ!!
その儚げな表情やめろっ!
【そうなんだ。私も。一応。検討しておく】
はぁ。恋する少女のお年頃なのねぇ。
あれ?なんで検討するなんて言っちゃった?
まぁいいか。やっぱり辞めたって言えば。
◇
放課後私は帰宅待合室でママの帰りを待っていた。
ママは仕事で少しトラブルがあったらしく、遅れるようだ。
その間私は図工の時間で途中まで作っていた、粘土ペンギンのディティール調整中。
まぁ“ディティール”なんて言葉を使ってはいるが、実際は悲惨な光景だ。
先生も、佳苗ちゃんも他の生徒の表情も苦笑いをして誰も評価はしてくれない。
いつもここまでに至ったプロセス。どんな事を思って作るかの思考を褒める。
ペンギンって足。何本だっけ…あれ…足と翼で六本……昆虫じゃん…これじゃ…
私は至って真剣だ。
でも音楽、図工、運動、に関してはお兄ちゃんに神の領域だと馬鹿にされる。
でも芸術家でありアスリート級の妄想はしてある。
身体がいう事聞かないだけよ。
やがて、背後から駆け寄る声。
「ねむー! ごめんね、遅れちゃった! 帰ろ!」
母の声は、待合室の静けさをやわらかく破った。
ポニーテールからこぼれ落ちた髪が、急いで来た証のように揺れている。
私は手を止め、粘土をそっとロッカーの上に置き、ビニールを被せた。
そして、言葉を使わず母の手を掴み、外へ出る。
車に乗り込む。今日は仕事用の車で、後部座席には車椅子が畳まれていた。
走り出すと、段差を越えるたびに金属が小さく鳴り、静寂にかすかなリズムを刻む。
信号待ちの時、ママにちょんちょんと合図。
【ママ。髪の毛乱れてるよ?後ろゆえてない。】
そう伝えるとママはバックミラーをみてまた焦る。
「嘘!?うわ!本当だ!恥ずかしいー。」
ママはシュシュをとり、ゴムを取り髪の毛をフワッと靡かせた。
ママは凄く美人な方だと思う。
目も大きくて、身体も細い。お兄ちゃんはママの血を濃く受け継いでるからカッコいい。
逆に私はパパの血が濃いのか、地味な顔だ。
いいな。ママみたいになりたいのに。
「そうだ!ねむ!明日冰覌に行ってみない?みかん狩り。甘夏って種類なんだよね!」
私はお昼に佳苗ちゃんが言っていた事を思い出す。
冰覌か。あのイケメンのいる街?
んー。まぁいいか。検討してみるって言ったし。甘夏が食べられるなら言ってもいいか。
【いいよ!甘夏食べたい!!】
静かな車内に、母の笑みが広がる。
窓の外では、街が淡く暮れていった。
◇
家に帰ると、ようやく癒しの時間が訪れる。
タイトルは「数学好き女子高生が悪役令嬢に!?」。サンプルを読んだら面白すぎて、今月のお小遣いを全部つぎ込んで最新刊まで大人買いしてしまった。もちろんアカウントは家族と共有だから、全員にバレている。第一巻には見知らぬしおりが二つもマークされている。ママかお兄ちゃんが読んだのは確実だ。
内容は、数学の知識を魔術のプログラミングに応用し、誰でも使える新しい魔法を生み出していく物語。辺境伯の長女としてわがままに生きていたお嬢様に、ある日突然、数学好きの女子高生が転生してしまうというストーリーだ。
──たぎる。
時計を見ると午後四時半。晩ご飯は七時くらいだから、全部読み切れるかもしれない。でも一巻を何度も読み返して浸るのもいい。私は勉強机に腰を下ろし、戦闘モードに入った。
よし、読むか。
物語に没頭していると、下の階から足音が響く。どんどん上がってきて、隣の部屋でバッグを投げるような音。お兄ちゃんだ。すぐに私の部屋をノックしてくる。
トントン。
本を閉じてドアを開けると、開口一番。
「おお!ねむ!どこまで読んだ?全部?」
──ただいまもない。主語もない。でも言いたいことはわかる。
【全部は読んでない。一巻を三回目読んでるとこ。】と手話で伝える。
「なんだよ。早く続き行けよ。お前が先に読まないと俺たちも進めねぇんだよ。頼むわ。」
言いたいことだけ言って、扉を閉める。その雑さ、ある意味で安心する。
名前は香椎葵。私のお兄ちゃん。
中学2年生で頭もよくて、スポーツ万能。将来の夢は自衛隊か政治家。模範解答すぎて逆にスキがない。性格はさっぱりしていて、思いやりがあって、私にはすごく優しい。自慢の兄だ。
趣味も合わせてくれる。少女漫画だろうと百合ものだろうと関係ない。私と一緒に笑って、感想を語り合ってくれる。……多分そのせいで友達ができないのかもしれない。
内緒だけど。
◇
深夜、胸が苦しくて目が覚めた。
痰が絡んで、喉の奥でガラガラと音がする。
私は二階の洗面所を行き来して痰を吐き出し、水を含んだ。
静まり返った家の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。
私は慣れた手つきで吸引機を操作するが、なかなか痰が取れない。ガラガラと音を立てるだけで時間だけが過ぎて行く。
──せっかく良くなってきてたのに。
めんどくさ。
明日は甘夏食べたいのに。
そんなことを考えていると、開けっぱなしのドアの向こうに兄の姿が立っていた。
「ねむ。カッピングしてやるから、ベッド座りな?」
無言で頷き、姿勢を変えてベッドに腰を下ろす。
背中にリズムよくパンパンと響く衝撃。
痰が少しずつ上へ押し上げられていく感覚がある。
そのあと、うつ伏せになると、兄の手のひらがゆっくりと背中をさすった。
言葉はない。ただ作業の音もない。
あるのは、淡々と繰り返される動作と、私の呼吸だけ。
やがて、痰が外に出てくれた。
時計を見ると午前2時を回っていた。
「ねむ。どお?楽になった?」
兄は微笑みながら私の頭を撫でる。
【うん。ありがとう。すごく楽になった。】
そう伝えると、常温のポカリを差し出してくれた。
「水分ちゃんと取れよ?また苦しくなったら呼べ。ドア開けてるから。」
真剣な眼差し。私は頷く。
そのあと、兄は私の額を二本の指で軽く叩いた。
アニメ『NARUTO』のイタチの真似。
……
私が昔せがんだせいで、いまだに続いている儀式。
ドアの前で一度だけ振り返る兄。
「明日、俺も甘夏食うから。一緒に行こうな。……本読まないで寝ろよ?」
そう言い残して部屋に戻っていった。
──お兄ちゃんも来てくれるんだ。やった。
◇
朝目を覚ますと、昨日の苦しさなんて嘘みたいに消えていて、空気がやけにうまい。
窓から差し込む日差しの先には、私の机に腰掛けてiPadを読んでいる兄の姿。
起き上がって兄の肩をちょんちょんと叩き、朝の挨拶を手話で送る。
【おはよう。昨日はありがとう。すごく楽になった。今は元気だよ。】
少し大きめに手を動かす。
「おう。……あのさ、このしおりって、ねむ? もしかして母さんが二巻まで読んでない?」
兄は眉を寄せ、iPadをじっと睨んでいる。
私の感謝、ちゃんと届いてる?
iPadを覗き込むと、確かに二巻の後半にしおりマークがある。
……これは確実にママだ。くそっ、私より進んでる。私が買ったのに!
【お兄ちゃんは? どこまで読んだ?】
「俺はまだ、ねむと同じとこ。今二周目。……早く読めよ。いつもは速いくせに、なんでこれは遅いんだよ。」
不満そうな顔。
【うん。今日読む。】
そう伝えると、兄は私の頭を軽く撫でて「あっそ」とだけ言い、自分の部屋へ戻っていった。
少しだけ眠そうだ。多分、私のことが気になって寝てなかったんだろうな。
兄の背中を見送ってから服を脱ぎ、甘夏狩りのための服を吟味する。
長袖のほうがいいかな。……ところでみかんってどうやって木になってるんだ? 地面に転がってる? それともいちごみたいにポツポツ?
「ぐぐれカス」という言葉が頭をよぎる。
今は死語らしいけど、昔のラノベだとよく出てきたな。語呂がいいから普段でも使いたい。まぁ、使う機会なんてないけど。
服を選んでいると、ママが部屋に入ってきた。
「ねむ? 昨日苦しくなっちゃったんだって?」
私はこくりと頷く。
「今日は甘夏どうする?」
心配そうに覗き込んでくる。
【大丈夫。お兄ちゃんがいてくれたから。甘夏食べに行く。】
そう伝えると、ママは優しく微笑んで私を抱きしめた。
「わかったよ。朝ごはん少なめにして、食べたらお兄ちゃんと行こっか。」
頷いた瞬間、ふとひらめく。
【ママ! 数学令嬢、二巻まで読んだでしょ!?】
腰に手を当て、じろりと睨みつける。
「へ? なにそれ! 面白そう! でも私、読んでないよ?」
……ありゃ? じゃあ誰だ。
そこにパパが入ってきた。
「ねむ、大丈夫か? ゼェゼェしたんだって?」
眉を八の字にして心配そうに覗き込む。
「また葵がカッピングしてくれたの。本当にあの子には頭が上がらないよ。」
ママはそう言いながらお兄ちゃんの部屋を見つめる。
「そうか。よかった……」
パパも同じ。お兄ちゃんの部屋を見つめる。
私は会話そっちのけで、パパを睨む。
「ねむ? どうした?」
【パパ。読んだでしょ、数学令嬢。】
「あー! 今お屋敷が火事になってるとこだよ!」
悪気ゼロの満面の笑み。
――うわっ。ネタバレしやがった、この親!!