2. 翼の秘密 ~The crow has three legs~
妖広辞苑
古事記では高木大神(=高御産巣日神)の使神、日本書紀では天照大御神の使神、古語拾遺では賀茂氏の氏神とされている。
一般には熊野三山の神使として知られ、三本足の烏の姿をしているとされる。天照大御神の使神であることから太陽を背に描かれることも多い。熊野三山で出されている「熊野牛王宝印」と呼ばれる護符は複数の八咫烏を使って梵字を模った絵が刷られているものだが、絶対破ってはいけない約束事などを書く誓紙として利用され「熊野誓紙」と呼ばれた。この熊野誓紙に書いた約束を破る度に熊野の烏が一匹死ぬなどと言われた。また現在では日本サッカー協会(JFA)のシンボルとして使用されていることからサッカーの守護神としても信仰されている。
『神魔精妖名辞典』より
嫌な予感はあった。でもそれが現実になるとは思ってもいなかった。凄惨な事件が起これば、人々は口を揃えてこう言う。
「まさかこんなことが起こるなんて」
今の段階で、未来の自分が言うことになるだろうな、といとも簡単に予想がついた。
悲鳴に続いて窓の割れる音、硬い物同士がぶつかる音が聞こえた。ふと下を見ると俺と優人、二人の足がピタリと止まっていた。
明らかに恐怖の色をはらんだ声で優人が呟く。
「オレらの手に負えんのかこれ……」
「無理だと思う」
「でも先生の安否と翼ちゃんのことだけは確認しておきてぇ。断じてあいつはこんなことする奴じゃあない」
「なら行く?」
少し黙った後、行こう、と頬を二三度軽く叩いてから意を決したように短く返事をする優人。そんなきっぱり言われたら俺も行くしかないじゃないか。
「確か職員玄関なら開いてるよな」
恐る恐る校門をくぐり、中庭を横切り、職員玄関までたどり着いた。ちょうど上の階の職員室にあたる教室だけ照明が着いていた。しかし、一部窓が破壊されている。何かでたたき壊したかの印象。その間、絶え間なく響く戦闘音にビビりながらもゆっくりと玄関のガラス戸に手を掛ける。実際、心の中に早く逃げ出したいと叫ぶ自分がいた。しかしそんな自分を抑えつける。あの内心怖がりの優人が本音を堪えて、俺を先導するように行動しているのだ。負けてはいられないという男としてのプライドが足を動かしてくれた。
ここまでくれば後戻りはできない。
案の定、腕に力を込めて扉を押すと簡単に開いた。そこから青色の蛍光灯と非常口を示す案内標識だけが照らす廊下へと侵入する。どことなく雰囲気も昼間とは異なり、夜の世界の独特の不気味さを醸し出している。いや、裏の世界と表現した方が的を得ているかもしれない。表に対しての裏。見たことのない世界。不思議の国のアリスの如く、知らない世界へ踏み込んでしまったような。とにかく俺達の知っている夜ではないことは全身で感じた。
「職員室から回ってみようか」
「ああ。そうだな」
始めに誤っておくが俺たちは土足だ。わざわざ上履きに履き替えるために生徒用の昇降口に行く時間が惜しいのが理由の一つ。もう一つはガラスなどの破片があった場合、靴下では怪我をする恐れがあるからだ。このようなイレギュラーに対しては用心に用心を重ねても足りないと思う小心者たち。
足音を殺して、かつスピーディーに二階へと上がり、職員室の様子を伺う。引き戸は開けっぱなしであった。そこから中を覗くと酷い有様としか言えない。綺麗に並んだ机の列は無残にも乱れている。横になって転がっているものがあるほどだ。プリントも散らばっており、まるで台風が過ぎたような跡だった。だが、凄まじいほどに荒らされているものの誰もいない。
「……音源を探らざるを得ねぇな。頼むから二人とも無事でいてくれ」
祈るような思いで俺達は職員室を後にする。音のする方向へ走る。そして渡り廊下から西棟に行こうと角をまがった瞬間、俺達は見つけた。
横たわった浦上先生を。
「先生!」
「畜生! 遅かったか。き、救急車呼んで!」
慌てて心音と呼吸を確認する。気絶はしているものの、辛うじて息はあった。
「えーっと何番だ? 一一〇? 九一一?」
「一一九! 落ち着いて」
「ああ、さんきゅ」
指が震えて何度も番号を打ち間違える優人。恐らく俺がやってもそうなってしまうだろう。それほどこの状況が怖かった。心臓が耳元にあるかのようにバクバク鳴っている。意図せず呼吸が早くなる。そして気になることがもう一つ。
今も続く戦いの音は一体何なんだ。てっきり俺は先生が犯人相手に苦闘しているものと思っていた。
「優人、先生のこと看ててくれないか? 俺は音源を見てくるから」
「はぁ!? 危ねぇよ。止めとけ」
「すぐ戻るから」
「待てよ、職員室見ただろ。オレらの力じゃどうしようもねぇって。っておい! 聞いてんのか!」
優人の静止も無視して走った。走りながら気付いた点がある。いつの間にか怖いというよりも好奇心が先だっていたのだ。体がどことなくうずうずしている。感情が高ぶっているのだろう。
追って行くうちに音源は移動していることが分かった。やはり戦いの音である可能性が高い。しかし誰が戦っている?
生々しい校舎の傷跡を辿ると、四階の美術室に行き着いた。ベランダを迂回し、割れた窓からゆっくり内部に目を向ける。そこで信じられない物を見た。
大柄な毛むくじゃらの化け物と睨みあう黒谷翼がそこにいた。
「っ……!!」
化け物の右手が弧を描き、翼ちゃんを殴りつける。それをしゃがんで回避し懐にタックルをかます。そこでガキッと硬い物同士がぶつかる音がした。タックルによって石工で作ったヴィーナスのレプリカに化け物が背中から衝突する。無論、レプリカは大破。隙を逃さず攻撃をしかける翼ちゃんに対し、化け物はすぐさま体勢を立て直す。あろうことか隣ののレプリカを片手で持ちあげ、それを投げつけた。思わず目を疑った。あれひとつ持ち上げるのに男手三人は必要だぞ。直撃は避けたものの、端が当たってしまったのであろう。翼ちゃんは右肩を抑え歯を食いしばっている。再び沈黙と共に睨みあう両者。
どうにかして翼ちゃんを助けたいのだが、どうすればいい?
ただ向かって行ってもあれほどの怪力に勝ち目は無い。考えろ。考えろ。ふと、視界の隅に彫刻刀の箱が映る。武器さえあれば。幸い、化け物はまだ俺に気付いていない。が、
カシャン
睨みあっていた両者の目がこちらを捉える。足元にはガラスの破片。馬鹿だ。俺はそれを踏みつけ、自分の存在を知らせてしまったのだ。
「えーっと、その、こんばんは。何やって」
「仁にい逃げて!」
翼ちゃんによって言葉が遮られる。理由は言わずもがな。化け物が俺に突っ込んできた。
とっさに体を引っ込めてうずくまる。その真上すれすれを化け物が通過する。化け物は勢い余って空中に飛び出していった。助かったか? 一拍置いて翼ちゃんが駆け寄ってくる。
「仁にいは何でここにいるの!? 危ないから帰って!」
「危ないのはお前もだろ。先生だって襲われてんだ。優人も来てるから一緒に帰るよ」
「それは無理。私、あいつを倒さなくちゃいけないから」
そう言って翼ちゃんはベランダに身を乗り出した。
「来るよ」
直後、落下したはずの化け物がベランダに戻って来た。ジャンプ力だけで這い上がって来た。月明かりに照らされて、ようやく化け物の全貌が確認できた。見かけは人間サイズのニホンザルだが、牙だけは肉食獣のようだ。姿が見えるや否や、お互いに向かって行くかのように見えた。化け物は翼ちゃんの体当たりをかわし、その延長線上、つまりは俺の方に突進しながら大あごを開く。
やべぇ終わった。
しかし、化け物の口は比喩ではなく、俺の目と鼻の先で閉じた。風圧が顔にかかる。そのまま化け物は前のめりに倒れ込んだ。思わず何歩か後ろに下がったところで原因を把握する。翼ちゃんが怪物の左足をすんでの所で掴んでいた。加えて、その部分が石と化している。無理やりに化け物が逃れようと尻尾で何度も何度も翼ちゃんを殴りつける。そのたびに石化が上へと進行していく。と、そのとき、前触れもなく石となった部分がボロボロと崩れた。
「ああぁぁぁぁあぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
言葉にならない叫び声を上げて化け物は悶える。
「この小娘が! あああ痛い! 痛い!」
化け物はそれだけ吐き捨てて、俺のことは目もくれずに四階から飛び降りる。両手と右足を器用に使ってどこかへ逃げていった。
あとに残ったのは尻尾で何度も殴られて、顔を始め至る所が腫れた翼ちゃんと、何もできずに足を引っ張ったチキン野郎だけだった。
「逃げられちゃった。でも足を潰せたのは収穫だったな。これで次は止めを刺せる」
寝転がったまま翼ちゃんが独り言のように呟く。
「あれは何? お前は、いつから何故こんなことをしてるの?」
「サルノフッタチ。正真正銘、本物の妖怪。いつからかと訊かれたら神社の本殿が壊されたときから。封印が解けたばかりでお腹空いてるから人間を襲ってるんだって。だけど、私はこの町が好きだし、被害に遭う人を見たくないから妨害してる。裏切り者って言われちゃったけどね」
あれがサルノフッタチ。人間を襲う妖怪。
「ん? ちょっと待て。裏切り者ってどういう意味だよ?」
「妖怪相手に普通の人が素手で立ち向かえるわけないでしょ。私も妖怪。妖怪ヤタガラスなの。……仁にいには知られたくなかったな」
完全な変化はまだできないんだけど。あははっと乾いた声で笑う翼ちゃん。
「帰ろっか。疲れちゃった」
「そうだね。サルノフッタチは今日の所は放っておけそうだし」
「うん。神社に帰って傷を癒そうとするから大丈夫」
え、神社に帰るだって? 不味い。しかも手負いとか危険すぎる。
「そっちに尚人がいる。早く知らせないと」
くそっ完璧に役割分担が裏目に出た。
「なんで尚にいが神社にいるのっ?」
「噂の出所が神社って聞いてたから張り込みに行ってたんだよ」
「馬鹿っ馬鹿ぁっ! せっかく関わらないようにしてたのに。台無しじゃん。早く尚にいを神社から引き離さないと」
「待てよ。あいつのターゲットは若い女性だろ? 尚人は外れてるじゃないか」
「若い女の人は美味しいってだけ。今は手負いだから誰これ構わずに襲っちゃうの」
翼ちゃんは傷だらけの体に鞭打ち立ち上がる。骨が折れているのか、両腕とも変な方向に曲がったままだらんとぶら下がっていた。。
「やめろよ。傷だらけじゃないか。俺が電話しとくからお前は安静にしてろ」
「平気。すぐ治るから。第一、電話したところで無駄だと思うよ。妖怪は意図せずして周囲の力場うを歪める。この場合は磁場かな。通じたとしても、人間の足じゃ怪我を負った妖怪にさえ敵わない。それに、お兄ちゃん達は私にとって大切な人だから」
そう言って、ベランダの手すりに足を掛ける。と次の瞬間、翼の背中からカラスのような真っ黒な羽が生えた。そして俺が止める間もないまま、翼をはばたかせて夜の空へと消えていった。
無駄だと言われても動かずにはいられなかった。せめてサルノフッタチが迫ってることくらいは知らせた方がいいだろう。危険は知っていると知らないとで大きな差がある。ポケットの携帯電話を取り出し、尚人に掛ける。意外にも三回目の呼び出し音で繋がった。
「良かった。繋がった」
「どうした。動きがあったのか? ちゃんと祠の近くに隠れてるしこっちは万全だぜ」
「そっちにサルノフ」
しかし、突然電話が切れてしまった。急いでもう一度かけ直すも、電波が届かない場所にいるようです、と機械の音声が聞こえるだけであった。そこでさっきの翼ちゃんとの言葉を思い出す。妖怪は意図せずして力場を歪める。
徐々に遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。そうか、今の今まで妖怪が二体いたから電話が繋がらなかったのか。優人は先生の付き添いというやることを持っている。俺にできることは、
「何か。何かできることはないのか!!」
叫んだ。自分が役に立たないのが悔しかった。尚人が親友が命の危機に立たされている。翼からの遠回しの戦力外通告。翼は妖怪で俺は人間だから。種族が違うから。だから何もできないのか? 大切な人のために何もできないのか?
そんなわけないよな。
「行こう」
さっき取り損ねた彫刻刀を持って学校を飛び出した。元来た道を戻る。途中で救急車とすれ違った。優人には直接的には何も言わなかった。ただメールに尚人と翼ちゃんの様子を見てくると入れておいたが、恐らくあいつは気付かない。今目の前のことで頭がいっぱいだろうから。先生のことでいっぱいいっぱいだろうから。
俺は一人で向かう。瀕死のヤタガラスと狙われた親友の二人を助けに。
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