#020: 揺れる境界線
復帰配信の翌朝、カレンはいつもよりゆっくりと目を覚ました。
枕元には、夜中まで点けっぱなしだったスマホが置かれ、画面には数えきれないほどの通知。ファンからのメッセージ、Fでの感想ポスト、切り抜き動画のリンク――全部が、昨日の自分の声と笑顔に繋がっている。
「……ふふ、やっぱりやってよかったな」
小さく呟くと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
机の上には、昨夜の配信で飲みかけたままの紅茶が冷めて残っていた。カメラとマイクはまだセッティングされたままで、ほんの少し、あの画面の向こうから聞こえる笑い声が耳に残っている気がする。
カレンは簡単に身支度を整え、午前中の大学の授業へ向かった。
真夏の朝は、歩くだけで肌にまとわりつくような湿気を感じる。蝉の声が響き、アスファルトの匂いが強くなっていく。昨日の緊張と興奮がまだ抜け切らないのか、足取りは軽く、それでいて心は浮ついていた。
教室に入ると、数人の友人たちが既に席についていた。いつもの雑談が飛び交う中、カレンは自分の席に腰を下ろし、ノートを開く。
授業が始まると、教授の声を聞きながらも、ふと昨日のコメント欄が脳裏に浮かんでしまう。
――あの時、もう少し面白く返せたな。
――あの笑い声、久しぶりに聞けたなって言われたっけ。
そんな考えが止まらない。
チャイムが鳴り、授業が終わった瞬間。
背後から聞き慣れた声がした。
「カレン、今日このあと空いてる?」
振り返ると、そこに立っていたのは美咲だった。
長い黒髪を低い位置で束ね、白いシャツに細身のデニム。派手さはないのに、どこかモデルのような雰囲気がある。切れ長の瞳は涼しげで、声も落ち着いて低め。いつ見ても「可愛い」より「カッコいい」と形容したくなる。
「うん、午後は予定ないけど……なんで?」
「久しぶりにカレンの家行こうかなって。最近あんまり行ってなかったし」
「……急だなあ。まあ、いいけど」
美咲は中学時代からの親友で、大学でも同じ学部。遠慮という言葉を知らないのか、昔から当然のようにカレンの家に入り浸っていた。
ただひとつ、彼女が踏み入れたことのない場所がある――配信部屋だ。
廊下を歩きながら、美咲が何気なく言う。
「そういえばさ、あの部屋ってまだ“物置”なの?」
「……うん、まあ。色々詰め込んでるから」
「ふーん……」
美咲の返事は短い。でも、横顔のほんのわずかな笑みを、カレンは見逃さなかった。
昼過ぎ、二人はカレンの部屋へ戻った。
リビングで紅茶を淹れると、美咲はソファに座り、何気ない動作で視線を配信部屋の扉に向ける。その目は、探るようでもあり、ただの好奇心にも見えた。
「この前さ」
紅茶を一口飲んだ美咲が、何気ない調子で口を開く。
「Fで面白い切り抜き見つけたんだ。『ローズバイト』っていう配信者。癒し系なんだけど、時々毒舌混じってて……声がね、カレンにすごく似てた」
「……へ、へえ……そうなんだ」
カレンは笑って返そうとしたが、心臓が跳ね上がり、うまく呼吸が整わない。
「まあ、偶然かもね」
美咲はそう言って、何事もなかったかのようにカップを置いた。その仕草も表情も、嘘か本当か読み取れない。
――気づいてる?
――それとも、ただの勘?
カレンは視線を逸らし、紅茶の表面を見つめた。波紋が揺れるたび、胸の奥のざわつきも揺れ動く。
夕方、美咲が帰ったあと、カレンは配信部屋へ入り、椅子に腰を下ろした。
モニターには、昨日の復帰配信のアーカイブ。笑っている自分。コメントで溢れる画面。
けれど、その笑顔の裏側に、もうひとつの現実が忍び寄っている。
――「なんか声が、カレンに似てたんだよね」
日常と配信の境界線が、ゆっくりと、けれど確実に揺らぎ始めている。
その予感が、心の奥にじわりと広がっていった。
読んでくれてありがとうございます




