28 風の精霊サーラ・レンダルセン~ミハエルの目覚め
自分がまだ遠いどこかにいるような気がする。窓から入る朝陽が、力を与えてくれるような気がした。
自身を覆う強い眠気の中で、若い騎士は意識をとどめる努力をしていた。
そよ風と共に部屋の中にかすかな香りが漂い、微かな鈴の音のような響きが耳に届いた。戸口が音もなく開かれ、柔らかい風が吹き込む。
「気分はどうですか? もう二週間あまり眠り続けていたのですよ」
歌声のような、空気に溶け込む風の流れのような声だった。
首を動かした視線の先には、異世界の住人かと思える美しさをもった人型の風の精霊・シルフの姿があった。
銀色に輝く長い髪は透明に輝き、透き通る青い瞳は広大な空の一部を切り取ったかのよう。肌は輝くように白く、緑色を基調とした薄い衣は風を纏ったかのように流麗に揺れている。
(マシロ? マシロ・レグナードか?)
いや、姿形はそっくりだが違う。何より目が違う。
「あなたは……あなたが助けてくれたのか? それに、俺はそんなに眠っていたのか」
二週間という時間の長さがの胸を打つ。
レヴァントは無事なのか?
ダーククリスタルはどうなったというのか?
第二騎士団の皆はきっと心配しているだろう。
風の精霊は微笑みをうかべ、そっとミハエルに近づいた。
「私は【サーラ・レンダルセン】風の精霊であるシルフの一族です。あなたがこの家の前に倒れているのを見つけたのです。」
「俺はミハエル・サンブレイド。グランデリア王国第二騎士団長だ。
サーラ、助けてくれて感謝する」
風の精霊は微笑みをうかべ、そっとミハエルに近づいた。
サーラは起き上がろうとするミハエルを制止すると、ベッドに静かに腰を下ろし額に優しく手を当てた。その手は川岸にながれる朝霧のように心地よい癒しをもたらした。
「ミハエル、貴方は……」
サーラは額に当てた手に流れ込んできたものから、ミハエルの全てを一瞬にして理解した。
「体は大丈夫みたいです。でも、心は癒えきっていませんね……夢の中で見たことが、あなたを深く苦しめているのでしょう」
ミハエルは再び思い出す。
堕天使ルシルフィルと風の聖霊セラフィニアの悲恋。女性格の大天使センデルフェン、彼女の狂気。
「夢……あれはただの夢ではない。大天使センデルフェンの姿と、あの瞳……マシロの瞳が……」
サーラはミハエルの言葉に静かに頷いた。触れた額から読み取ったミハエルの宿命を告げる。
「ミハエル……夢は現実の一部、そしてあなたが背負った運命の欠片です。
大天使センデルフェンと堕天使ルシルフィル。
そして風の聖霊セラフィニア……私たちの偉大なる先祖にあたる方……、その因縁が、あなたの中で渦巻いています。
『墓所の障壁となり果てたセンデルフェンの魂を開放し、セラフィニアとの邂逅が果たされ無い限りルシルフィルの怨嗟は永遠にこの世界から消えません』
その悲しい因縁は血の呪いとなって、今の貴方たちに繋がっているのです。
【レヴァント・ソードブレイカー】は、堕天使に落ちる以前のルシルフィル
【マシロ・レグナード】は、大天使センデルフェン
彼女たちは、それぞれの血を継ぐ者達なのです。
そして貴方はルシルフィルの兄である大天使ミケルフェルゼンの血を……」
すぐに理解できない別の世界のような話に、ミハエルは困惑するしかなかった。
そのミハエルの額に触れるサーラの指先から、癒しの歌声を秘めた風が彼の頭に吹き込でゆく。それは彼の思考を澄み渡らせ、静かなで穏やかな納得を促すものだった。
ミハエルが話のひとつひとつを飲み込み、自身の心を落ち着けてゆくのをサーラはゆっくりと待ちながら腰をおろしていた。
部屋に吹き込む柔らかい風も速度をおとす。ゆったりと心地の良いものとなってゆく。
「ミハエル、貴方は『救いの存在』として選ばれたのです。運命はただ自身の復讐に生きるだけのものではありません。
貴方は、天使と人間の狭間に立つ者です。その力を用い、光と闇、そのふたつを受け入れることができる。ただ、あなたの運命は厳しい道……と言えましょうが」
ミハエルは静かに彼女の言葉を噛み締めた。自分が運命を背負っていることは何となく感じていたが、それがここまで深いものだとは思いもしなかった。
―――― 傭兵団の仇を討つ
それだけでも大きな暗黒の宿命と思って生きて来たというのに。
「だからと言って、何をどうすればいいのか。今の俺にはわからない。
俺は……せいぜい剣の腕が生まれつき凄いだけの……復讐を果たしたら、静かにレヴァントと過ごしたい、ただの男だ。
どうすればいいか、分からない」
ミハエルは問いかけたが、サーラはその瞳に包み込むような優しさを浮かべる。
そっと青く透明な宝石を差し出すと、その光が部屋をやわらかく包み込む。
宝石はまるで風が封じ込められたかのように、繊細な輝きを放っていた。
「ミハエル、受け取ってください。これは倒れていたあなたが手にしていたものです」
「俺が、手にしていた?」
彼女は宝石を手のひらに乗せ、ミハエルに近づけた。彼の心の奥底にある何かが静かに震える。それを慎重に受け取り、まじまじと見つめた。
「これは『セラフィス・ティア』――聖霊界に伝わる宝石ではないかと」
サーラは柔らかく語り始める。
「かつて風の聖霊セラフィニアが、深い悲しみと絶望の中で涙を流したとき、その涙がこの宝石となったと言われていますね、私も見たのは初めてです」
悲しみを癒す力を感じる。
強い悲しみを宿した石は、ともに風を求めるとでもいうのか。
彼の先祖、大天使ミケルフェルゼンが夢の中で託したものかもしれない。
重いものではある、しかし同時に心強いものだった。
「これが、センデルフェン達を救う力になると?」
問いかけにサーラは優しく、ゆっくりと首を振った。
「力は与えられるのではありません、ミハエル。貴方は信じるだけです。最終的に、大天使センデルフェンを救うのは、貴方ではなく『世界』の選択と行動です。」
宝石『セラフィス・ティア』は美しい輝きを放ち続け、彼の手の中でまるで生命を持つかのように脈打っている。
「ありがとう、サーラ……この『セラフィス・ティア』を信じてみよう。
どうなるかわからない。ただ、俺はグランデリア王国第二騎士団長だ。まずは皆のもとに帰らねばならない」
ミハエルは宝石を慎重にポケットにしまうとベッドから起き上がる。
脚が力無くふらつく。二週間も寝ていたのだ。
「扉を出ると、大陸の北東部の森へとつながるはずです。私の力が必要ならば『セラフィス・ティア』に祈りを捧げて下さい」
銀髪を風に揺らし、穏やかな微笑みと共にサーラ・レンダルセンはミハエルを見送った。