優雅なる赤カブト
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
みんなは婚姻色というものを知っているだろうか。
一部の生き物は繁殖期を迎えたとき、身体の色を変えたり、斑点を表面に出してきたりして、その時の色合いを婚姻色と呼ぶんだ。
この色と見た目は種によって、異性の識別やアピールに大いに役立ち、特にオスが相手を積極的に誘うにあたって力を入れないわけにはいかない。自らの種の存続がかかっているわけだからな。
一念岩をも通す。
生涯における乾坤一擲の勝負どころだからこそ、力を入れる生き物たちの周りでは、奇妙なことも起こるやもしれない。
先生の昔の話なんだが、聞いてみないか?
先生が子供だったころ、カブトムシやクワガタムシが高価で売れると、話が広まった時期があった。
子供ゆえか、販売にどれほどの手間がかかるか、などということは考えなかったな。ただ結果的に「高く売れる」という一点が一人歩きして、子供たちを熱中へ駆り立てていたのだろう。
あとで知ったのだけど、日本で採集されるクワガタは50近い種類がいるのに対し、カブトムシはヤマトカブトムシの一種類のみ。個人的な研究などで需要はあるものの、目ん玉飛び出るほどの高額は期待しづらい。
けれども当時は、そのようなことをつゆしらず。身近にクワガタよりカブトムシが姿を見せやすいのも手伝って、先生は珍しいカブトムシを探し、夏休みをほぼ採集に費やしていたんだ。
そんなある日のことだ。
ローテーションで周っていたいくつかのポイントのひとつに、カブトムシが群れとなって集まっていたんだ。
特に先生が仕込みを行ったわけじゃない。ナチュラルに身を寄せ合う姿に、もしや樹液でも大量に漏れ出たかと、先生は興味しんしんに近づいていった。
彼らにとって、まさに巨木のごとき大きさの先生が現れても、彼らは動じず。全体で帯のように連なって、幹の一部を占拠し続けていたんだ。
ふと、先生は右頬に強い熱を感じる。
日差しの熱なら、今朝から浴びていて慣れっこだ。そこへ更に、急激に暖まる塊がそばを通り過ぎていったのが原因だった。
ほどなく、熱源は目の前に姿をあらわす。見慣れたカブトムシのものだが、先生はすぐその一匹に目を奪われる。
明るい茶色に近いカブトムシたちの甲殻。いまひしめいている連中も、光の当たり方の差異さえあっても、本来の色合いにたいした違いはない。
が、新しくやってきたそいつは、ひと目で分かる赤いカブトを持っていた。
飴細工を思わす湾曲ぶり。そのねじ上がる角が、陽の光を受けると赤く光を放つんだ。
しかも、角の赤さは伊達じゃない。そいつが幹へ足をつくや、角がかすかに表皮に触れる。その先があっという間に焦げ付き、黒くなってしまったんだ。
――角が熱を持っている!
先ほど顔に感じた熱さはこれかと、先生が感心している間に、赤カブトはずんずん歩を進めていった。
帯状に固まったカブトムシたちに向かって、だ。
たちまち群衆は蹴散らされた。
そいつが寄っていっただけで、場所をのく者もいた。角がふれあい、危うさを感じたらしく、飛び去る者もいた。それでも譲らぬとばかりに、赤カブトへケンカを売ろうとした者もいた。
最後のヤツは、なんとも悲惨だった。果敢に角をせりかけていくも、いずれも赤カブトがぐっと腹へ角を滑り込ませるや、たちまち幹から引きはがされて、先生の足元へ落ちていく。
仰向けに足をばたつかせていたそいつは、ほどなく動かなくなってしまう。落下のダメージだけじゃなく、丸見えの腹の脇に、角で開けられたと思しき小さい穴が空いている。
そのふちもまた黒ずんでいて、突かれるのと焼かれるのと、同時の痛手を受けたことをうかがわせたよ。その苦痛はたまったものじゃなかったろう。
無人もとい無虫の地と化した幹を、赤カブトがただ一匹闊歩する。他のカブトが群れていたのは、先生の予想通りに樹液が川のごとく、あの地点を流れ落ちていたから。
ありあまるごちそうを、勝者の特権とばかりに占拠する赤カブト。しかしその角の熱は、敵味方を差別しない。角の触れた端から樹液は小さく煙をあげて、みるみる干上がってしまうありさまだったんだ。
――こいつはレアなカブト、間違いなし!
恐れより欲に目がくらむ先生は、担いでいた虫アミを身構えると、間合いを調節。一気にアミをカブトめがけて振り下ろしたんだ。
その開いたアミの口は、すっぽりカブトをとらえた。他のカブトたちならあわてふためくところを、赤カブトはいささかの反応も見せず、樹液をゆっくりすすっている。
これが人間なら、さぞエレガントな所作だったに違いない。そして先生も、うすうすこの後の結果が見えていた。
存分に樹液を味わい、おもむろに動き出した赤カブト。その角が触れたとたん、アミにはあっけなく穴が空いてしまったんだ。
他のカブトを蹴散らし、いや頭散らしたときと同じ。燃え上がらないまま、穴は焦げ付きつつカブトが通れる大口を開けてしまう。樹液を味わいつくしたカブトは、そのまま悠然と穴を通り抜けにかかった。
邪魔をするなら、いくらでもできる。
だがそのあまりに堂々とした振る舞いに、先生はそれ以上の妨害をする気が失せた。
粋というか武士の情けというか、この姿をいたずらに汚すべきでないと直感した先生は、アミをすっかり通り抜けた赤カブトを見送ってしまう。
腹が膨れただろう赤カブトが、どこへ向かうのか。先生はその末を見届けようとした。
赤カブトは飛ぶ気配を見せないまま、のしのしと表皮の上を歩く。やがて木に開いたうろの近くまで這い、てっきり中へ潜り込むのかと先生は思ったんだ。
しかし、実際は少し違う。赤カブトはうろの端に足をかけるところまでいったものの、そこから先へ進もうとはしなかった。
あいつは角を下げ、ぐっとうろの中へ押し込んでは、引き上げる。そうして完全にのけぞるより前に、また頭と一緒に角を下げ、うろの中へ突きこみ……という動作を繰り返していたんだ。
見守る先生には、それが投網を引き上げる漁師のように思えたよ。ひたすら獲物を求め、引っかけて、手繰り寄せる。寄せては返す波に合わせるようにして、延々と赤カブトの上下動は続いた。
その何度目だっただろうか。
赤カブトがうろへ角を突き入れるや、中からぬっと、同じ赤色をした角が飛び出てきたんだ。
「おっ」と先生が漏らす間に、赤カブトの角と中から出てきた角がかち合った。見た目通りの同質なものらしく、焦げや煙を発する様子はない。
うろをのぞく側の赤カブトの動きが、ぴたりと止まる。そこへ合わせるようにして、うろからのぞいてきた角は、ずいっとせり出すや、のぞく側の角を引っかけ、内へ引っ張った。
まるで柔道で足を刈ったかのよう。絡められた赤カブトは、あっという間に幹から足を離してしまい、うろの中へ引き込まれてしまったんだ。
つられてうろの内部をのぞき込む先生は、真っ暗と思っていたうろの中に、小さな裂け目を見たんだよ。
闇を服の生地に見立てて、指が入ってしまいそうな縦長で細い亀裂。そこへ消えていく赤カブトの背中を見届けるや、裂け目は立ちどころに消えてしまった。網などを中へ突っ込んでも、もはやそこにはただの木の内部があるだけだったよ。
尋常ならざる力を持った赤カブトだ。そのつがいの求め方、つがいのいる場所も尋常ではなかったのだろう。