003.はじまりは獣害事件
それは暑季に入ってから半月ほど経った、ある日のことだった。アンドレが麾下の小隊を率いての定期巡回中、脇街道から本街道に合流したちょうどその時に、それは聞こえてきた。
本街道の西方向から遠く聞こえてくる複数の獣の咆哮、それも片方は脚竜のものだ。それに続いて脚竜車の車輪の音、何かが横倒しになる音、さらには木が裂けるような耳触りな音。
長い騎士団勤務の経験からすぐ分かった。ちょうど今いる街道のやや先で、脚竜車が獣か魔獣に襲われたのだろう。護衛と思しき怒声や悲鳴も聞こえてきたから、おそらく隊商か何かで複数人で移動しているところを襲われたのだと思われた。
「隊長」
「聞こえたか。行くぞ」
小隊の副隊長のアランが厳しい眼差しとともに指示を仰いでくる。それにやはり一言で応えて、アンドレは返事も待たずに騎っている脚竜の首を巡らした。6名の小隊員たちが次々とそれに倣う。
しばらく駆けると、すぐにそれは見えてきた。ちょうど本街道がエールスの森を突っ切る半ばあたりで、左右の視界も逃げ場もない隘路だ。
横倒しになった黒塗りの、いかにも高級車と思しき小型の箱車。見えている車底部は車軸が無残に折れていて、車輪は外れ、砕けているものもある。
周囲には護衛を務めていたのだろう、騎士鎧姿の男たちが何人も倒れているのが見えるが、遠目からではまだ息があるのかどうか分からなかった。脚竜車のほど近くには馭者と思しき姿もあるが、上半身が真っ赤に染まっていて、これはもう手遅れだろう。
車体の前方にはまだ繋がれたままの脚竜が倒れていて、それを押さえつけている巨大な獣の姿があった。
尻尾を振り、首を捩らせて何とか逃げようとする脚竜の頭を前脚で器用に押さえ込み、獣は脚竜の首に噛み付いた。脚竜は大きく痙攣して、そのまま動かなくなった。
「うわ」
「なんてこった」
「マジか」
隊員たちから小さく悲鳴が漏れる。
無理もない。脚竜に齧りついていたのは“灰熊”だったのだから。
灰熊は名の通り、灰色の毛並みの大きな熊だ。魔獣ですらないただの獣だが、この西方世界で出くわす獣としては最強最悪の存在である。体高は平均しておよそ100デジ、立ち上がれば150デジに届こうかという巨体で、強靭な前脚に備えた大きく鋭い爪と大きな口に生え揃った牙で獲物を引き裂き食い散らかす肉食獣だ。それも人間や脚竜でさえも恐れずに襲うため、毎年世界中で多くの被害をもたらしている。
救いなのは群れずに単独で行動することだが、単独でも騎士団の一個小隊程度では手に余る難敵だ。しかも襲っている個体は平均より明らかに大型で、体長2ニフはあるはずの脚竜よりも一回り大きく見える。
「隊長、これ応援呼びましょう」
隊員のひとり、若手のドナルドが進言してくる。剣の腕に自信のない男だから、灰熊の相手をするのが怖いのだろう。
「こっちの人数を減らして、倒せると思うか?」
だがそれは、残りの小隊員を危険に晒すのと同義だ。確かに相手するにはもう一個小隊が欲しいのは事実だが。
「それによく見てみろ。乗員の姿が見当たらんだろう?」
そう、脚竜車に乗っていたはずの人の姿が見当たらないのだ。であれば、横倒しの車内に閉じ込められている可能性が高い。しかもひと目見て分かるほど仕立ての良い高級車である。5、6人見えている護衛の数からしても、脚竜車は明らかに貴人の所有と見て取れた。
であるならば、一刻も早く安否を確認して救出せねばならない。応援を呼びに戻る暇はないとアンドレは判断した。
「ブリスとドナルドは周囲の哨戒と安全確保、リュカとマチューは車内を確認して、生存者がいたなら救出を。アランとコランタンは俺に続け。灰熊をまずは車体から引き離す!」
言うが早いか、アンドレは脚竜の腹を蹴って襲歩に移る。すかさずアランが追随し、一瞬遅れたもののコランタンがそれに続く。
アランは小隊でアンドレに次ぐ剣の腕があり、コランタンは体格が良く小隊で唯一槍斧を操る。この三名が普段は小隊の前衛を務める。ブリス、ドナルド、リュカは身のこなしが素早く目も耳もよいため、周囲の哨戒や新手への牽制、弓矢を用いての遠隔支援などを担当する。マチューは今年配属されたばかりの見習いで、まだ戦わせるには技量が足らない。
小隊の中ではリュカが唯一伯爵家の出だ。脚竜車の乗員がもし高位貴族だった場合、相手をするのはリュカ以外には無理だろう。それでアンドレは彼にマチューを付けて車内の確認に回したわけだ。
最初の一撃をお見舞いしたのはコランタンだ。彼は愛用の槍斧でひと突きして灰熊の気を引いたあと、無理せずにすぐに離脱した。それを追いかけようとした灰熊の後背から愛剣で斬りつけたのはアラン。彼もやはり無理せずに即座に離脱する。
ふたりを追って灰熊が脚竜車と脚竜から離れた隙を見計らって、騎竜から飛び降りたアンドレが灰熊と脚竜車の間に割り込む。こうして三方から灰熊を取り囲んで、上手いことひとりに攻撃を集中させないようにしながら、彼らは狙い通りにじわじわと灰熊を車体から引き離す。
さすがに統率の取れた正規騎士の小隊である。灰熊に優位を与えないまま、彼らはじわじわと手傷を負わせてゆく。
その隙にリュカが脚竜車に取り付いた。運のいいことに箱型の小型脚竜車は入口扉を上にして横転していたので、彼はよじ登ってその扉を開けた。