002.騎士アンドレ・ブザンソン(2)
入隊4年目にして、アンドレは小隊長に昇進した。街は平和でこれといった事件もなかったが、近隣の森や湖沼にたまに出る獣や魔物の討伐で地道に実績を挙げたことが認められたのだ。
西方騎士団ノルマンド分団セー支部所属、騎士アンドレ。小隊長に昇進した時、彼は20歳になっていた。
そんなアンドレも一応は子爵家の子息である。嫡男でもなく、ほとんど平民と変わらぬ暮らしではあったが、貴族に生まれた者の務めとして他家のご令嬢と婚約を結んでいたのだ。
婚約者の名はロラ。ブザンソン子爵家に計吏として仕える男爵のひとり娘で、アンドレたち兄弟にとっては幼馴染と言ってよい娘だ。
そのロラが亡くなったと故郷から報せが届いたのが、アンドレが小隊長に昇進したまさにその日のことだった。
ロラは子供の頃から愛らしい娘だったが生まれつき病弱だった。アブロリカの厳しい気候でたびたび体調を崩すことがあり、そのたびにブザンソン家の兄弟たちが甲斐甲斐しく世話を焼き、面倒を見た。ロラは幼馴染でアンドレのふたつ歳下だったから、みんな妹のように可愛がっていたのだ。
彼女はルテティア国立学園には進まず、地元の圏都ウェソンティオの圏立学園に進学した。気候は厳しくとも空気が澄んでいて自然豊かな地元の方が、人口が多くて雑踏も人の悪意も多い首都よりもまだマシだろう、という周囲の大人たちの判断だ。彼女はそれに文句も言わず従い、手間をかけさせなかった。
その彼女も学園の3年生、15歳の成人の儀を迎えて婚約者を決めることになった。無封爵(領地を与えられない爵位、貴族のこと)とはいえ世襲貴族の男爵家、彼女とて家門の繁栄のために婚姻せねばならないのだ。
近隣でも評判の美少女になっていた彼女には多くの釣書が寄せられていた。だが彼女が選んだのは、釣書も出していなかったアンドレだった。一応は主家であるのだから選ばれても不思議はなかったが、密かに自分こそと思っていたアンドレの兄たちの落胆は激しかった。
何故アンドレなのか、と問われて彼女は答えた。
「だって、アンドレったらあの見た目でみんなから怖がられるでしょう?私がお嫁に行かないと、彼きっと結婚できないわ」
男爵家も子爵家も、一同揃って爆笑したものである。笑えなかったのはひとり遠く離れた地で、手紙で顛末を知らされたアンドレだけだ。
どうせ選ばれないと思って釣書も書かなかったけれど、選んでくれて嬉しかったのに。結婚出来そうにないというのは自分でも思っていたけれどそんな理由かよ、と彼は同期の親友ジャックにひとしきり愚痴ったものである。もちろんジャックにも大笑いされた。
ロラの御披露目にはアンドレも里帰りして、婚約者として拙いながらもファーストダンスを踊った。お互い照れくさかったが、それでも気心の知れた幼馴染で婚約者だからと、胸を張ってしっかりとエスコートすることができた。
ロラの方も実はアンドレのことが幼い頃から好きで、あの“理由”は単なる照れ隠しだった、と告白されてからは、ふたりは睦まじいカップルだった。まめに手紙のやり取りをし、長旅のできないロラのためにアンドレは折に触れて彼女の元へ顔見せに戻った。
いつか功績を挙げて男爵位を賜って、彼女に不自由ない生活を保証できるようになったら改めて婚姻を申し込もう。そう心に決めて、アンドレはそれまでより一層職務に励むようになった。
だというのに。
ロラは雨季の長雨のあとの暑季の猛暑で急激に体調を崩し、いともあっさりと儚くなってしまったのだ。
婚約から4年目、彼女はまだ18歳の若さだった。
以来、アンドレには婚約者はいない。もちろん結婚もしておらず、当然子供も儲けていない。父も兄たちも、彼の悲嘆を推し量って次の婚約を無理強いすることはなかった。
彼の胸には小さなロケットがひとつだけついた、飾り気のないロケットペンダントが下がっている。中には婚約式の際に奮発して描いてもらった、アンドレとロラの寄り添った姿の小さな肖像画が収められている。メダイヨンも肖像画も、アンドレとロラがお揃いでふたりともに持っていた、いわば形見の品である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
西方騎士団入隊からはや10年。
フェル暦664年、アンドレは25歳になっていた。
とはいえ、彼の階級は小隊長のままである。仇敵ブロイスと睨み合う北方騎士団や、約150年前に大戦争をしたイヴェリアスを警戒する南方騎士団と違って、西方騎士団はとかく暇なのだ。東方騎士団でさえ竜央山地からたまに降りてくる魔物の相手をするというのに、西方騎士団が備えるのは長年の同盟国である、海の向こうのアルヴァイオン大公国なのだ。
もちろん、はるか昔にはアルヴァイオンとも戦争した事実はある。だがそれは〈西方十王国〉の盟約がなされる以前の話であり、少なくともフェル暦に入ってからは戦端が開かれたこともない。攻められた史実があるから守っている。ただそれだけの事だ。
まあ、それを言うならガリオンからもアルヴァイオンを攻めたことがあるので、正直なところお互い様ではあるのだが。
もちろん、平和なガリオン西部とて獣や魔獣の被害はある。数こそ多くはないが、そうした脅威から国民や都市を守る大事な仕事があるため騎士団は不要にはならない。というかそれでアンドレも小隊長に昇進したのだから、全く仕事がないわけではないのだ。
だけれど結局、他の地方騎士団と違って西方騎士団は昇進がしづらいのは確かである。「お前も、北方や南方にいればもっと上にあがれただろうに」とは上司の中隊長や大隊長からよく言われたセリフである。
だがアンドレとしては昇進が遅くともいっこうに構わなかった。だってもう、焦って昇進を目指す必要も、無理に叙爵を狙う理由もないのだから。残りの人生はもう、のんびり過ごしながら大好きになったセーの街を守って暮らせれば、それで良かったのだ。
彼だってひとりの人間なのだから生きていくために稼がなくてはならず、独りきりで生きていくのは寂しく辛いと感じることももちろんある。だが騎士団で得られる俸禄には満足できていたし、気の置けない友人たちもそれなりにいる。今のままでは兄が爵位を継げば平民に落ちてしまうが、これまでだって平民とさして変わらぬ暮らしだったのだから何も問題はない。
だからもう、アンドレはそれで良かった。