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035.脱兎

「あの湖の向こうを探検致しませんか?」


 またレティシアがとんでもないことを言い出した。

 この湖で憩う人々の多くは、森に入る小径に近いこちら側で思い思いに寛ぐのが一般的で、湖の奥の方まで行く者はあまりいない。とはいえ釣りを趣味とする住民が奥の崖の辺りで釣りをすることが時々あって、だから一応、湖の周囲はぐるっと歩けるようにはなっている。

 でも、だからといって公女であるレティシアを行かせられるかと言えば話は別だ。奥に行けば藪も茂っているし虫や動物を見かけることもそれなりに多い。時には獣が出ることもあり、それで実際、数年前に夜釣りをしていた男性が湖の奥側で獣に襲われて命を落としたことがある。


「いえその、それは⸺」


 いけません、と言いかけたアンドレの口が半開きのまま止まる。

 だってレティシアの金の瞳がいつにも増してキラキラと煌めいているのだ。それはもう、楽しみで仕方ないといった様子で。


 ああ、そうだった。

 この方は言い出したら(・・・・・・)聞かない子(・・・・・)だった。


「ね、いいでしょうアンドレさま。わたくしをエスコートしてくださらない?」


 スッと席を立ち、まだ座ったままのアンドレの目の前まで来て、レティシアが胸の前で指を組んで手を合わせた。少しだけ頬を赤らめて小首をわずかに傾げて、軽くおねだりするだけで破壊的に可愛いとか反則か!

 そしてそんなことを思う一方で、曲がりなりにもこの少女と7年の付き合いがあるアンドレには分かってしまっている。彼女がこんなふうにワガママを言うのは、相手がアンドレだから(・・・・・・・)だということが。


 とりあえず口を閉じ、目線を彷徨わせてどうにか諦めさせられないかと脳内で瞬間的に考えに考えを巡らせて、彼は結論を出した。

 うん、無理。


 アンドレは立ち上がり、そのままだとレティシアと目線が合わないので跪く。


「レティシア様」

「はい」

「約束して下さい」

「何をですか?」


「護衛の者たちから決して離れないように。彼らの言うことをしっかり守って従えるなら、お連れ致します」


「えっ」


 まず絶句して、そしてみるみるこの世の終わりみたいに顔を青ざめさせるレティシア。うん、そういう顔すら可愛いんだけど公女としては駄目(ニュル)である。


「あ、アンドレさまは……」

「はい」

「わたくしとふたりっきりにはなりたくないのですか………!?」

「いやそれ絶対に駄目なやつじゃないですか」


 何を言い出してるのかこの小さな天使(プチトンジュ)は。


「だってわたくしはアンドレさまとふたりっきりになりたいのに!」


 さすがにギョッとしたが、ふと見るとジョアンナも護衛たちも馭者までもが、手で両耳を塞いで目を閉じたり顔をあらぬ方へ背けたりしていた。全員が公女にあるまじき今の発言を全力でオフレコ(なかったこと)にする強い意思で統一されている。

 いやそういう要らんとこで息合わせないで下さいマジで。


「あのですね」


 仕方がないのでアンドレがツッコむしかない。


「私とレティシア様はまだ(・・)婚約しておりません」

「そうですね。それが?」

「普通、婚約していない男女がふたりきりにはなってはいけません」

「では婚約致しましょう!」

「そういう問題ではありません」


 貴族の婚約とは家門同士の契約であり、本人同士の口約束など何の意味もなさない。というかそれ以前に、軽々しい言動は醜聞に、それもこの場合ノルマンド公爵家の瑕疵になりかねないのだから、いくらレティシアの願いだからといっても聞いてはやれない。


「というか、その話し合いもまだですよね?」


 レティシアがスッと視線を逸らす。

 勢いで押し切ろうとして失敗して、それを隠す意図が見え見えである。


 アンドレは内心でため息をひとつ吐く。

 これはちょっとお仕置きしなくてはダメそうだ。


「分かりました。では“探検”には行きません」


「………えっ」

「あと私がレティシア様にお会いするのももう止めます」

「えっ!?」

「当然、婚約の話もなかったことに」


「な、なぜですの!?どうしてアンドレさまはそのような意地悪を仰るのですか!?」


 またしても顔を青ざめさせてこの世の終わりみたいな顔になり、目尻に涙を浮かべつつ抗議してくるレティシアを、アンドレは悲しげに見つめ返す。それに気付いた彼女がハッとして動きを止めた。なんなら息まで止まってしまったかのようだ。


「いいですか、貴女は『ノルマンド公女』なのです」


 アンドレは努めて穏やかに言葉を紡ぐ。


「それは私と会っている時でも変わりません」


 当たり前のことだ。レティシアとてそのくらいはもちろん分かっている。


「私になら何をどう甘えてもいい、と思っておられるのならそれは間違いです」


 でも、だって。

 いつもいつも公女(・・)として(・・・)求められる(・・・・・)のだから、少しくらい息抜きさせて欲しい。

 アンドレさまになら、彼の前でなら、それが許されるはず。許されて欲しい。


「いついかなる時でも、貴女はノルマンド公女で、リュクサンブールの姫なのです」


 分かっているわ。

 分かっているけれど。


「ですから、私の前でもそうあって(・・・・・)頂かなくてはなりません」


「………………ひどい」


 その一言は、おそらく無意識に出たものだったのだろう。

 だがそう呟いたレティシアは、その大きな金の瞳に涙をいっぱいに溜めていた。


「アンドレさまだけは、貴方だけはわたくしを地位や肩書ではなくひとりの(・・・・)()と見て下さっていると信じておりましたのに…………!」

「そんな訳はないでしょう?」


 即座に否定されて、レティシアの中で何かが弾け(・・)()


「もうっ、バカッ!アンドレさまなんて、大っ嫌い⸺!」

「えっ、ちょっ!?」


 言うが早いかレティシアはアンドレから顔を背けて、身体ごと反転して脱兎のごとく駆け出した。

 そう、湖の奥に向かって。

 それはあまりに一瞬のことで、アンドレはもちろん護衛たちもジョアンナも呆気にとられて反応が遅れた。


「レティシア様!?」

「お嬢様!?」

「まずい、追え⸺!」


 驚いたアンドレや護衛たちが大慌てで後を追って駆け出したが、12歳の少女とも思えぬ足の速さであっという間に彼女は森の木々の間に紛れて姿が見えなくなった。


「う、嘘だろ………!」


 アンドレ一生の不覚。

 彼は多少キツい言葉で窘めても、彼女ならばちゃんと理解して言うことを聞いてくれると思っていた。それがまさか、こんなことになるなんて。


 一刻も早く追いついて保護しなければ、彼女の身に何か起こったらきっと自分の首だけでは済まなくなる。そこまで考えが至って、アンドレの全身から血の気が引いた。







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