しあわせをさがしに
わたしの作品は基本的にフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありませんが、魂の叫びを書き綴りました。つたない文章ですがどこかの誰かに何かが伝わってくれるといいなと思います。
私は「母親」というものをよく知らずに育ってきた。愛とは何か。ありすとてれすというえらい人は「悲しみや喜びを分かち合える人」を大切にすることを愛することだと考えたらしい。私にはそんなひとはいない。自分のことでせいいっぱいなのにそんなたいそうなことができるわけがないと思った。ヒトを好きになるってどんな感じなんだろう。好きと愛するというのは似て非なる勘定である?とにかく人の気持ちがわからない僕には難しいことばかりだ。
「誠一、調子はどうだ。父さんと散歩にでも行かないか。」扉の向こう側から聞こえてくる父の声はなんだか頼りなさげでものかなしさを孕んでいた。「ごめんねお父さん。今日はちょっと体調が悪いんだ。」と言おうとしたが声がのどに詰まってしまう。沈黙を受け入れることしかできない私は自分を責め、そしてこの世界に生まれてきたことを憂いた。
私が若くして哲学というものに興味を抱いたのは自分が何にもなれないむりょくなそんざいであることを実感していたからだ。実際私は小学3年の時から学校へ行くことをやめたし、そこからは何も生み出さずいけるしかばねとしてこの7年間を送ってきた。わたしがもしふつうの人生を送っていたとするならば友情に恋にうつつをぬかしている頃だったろう。そんな彼らを見下して自分が上に立ったでもないのに満足してしまう僕は最低の人間だ。ヒトを憎しむことで得られる快感は決して幸せというものではないことは私は痛いほど知っている。だがそうしなくては生きることができなかったのだ。そんなあるとき、私は近所の古本屋でニーチェという哲学者の本を手に取ったのだ。無学であった私はその本に書いてあることがよくわからなかったのだが調べていくうちに「どうやら私の心を渦巻く絶望という感情は大昔から考えられていたのだ」という事に気が付いた。自分を矮小な存在だと認識したうえで確固たる自己をもって人生を切り開く、そういう存在を超人というらしい。自分がちっぽけな存在であることは十分に理解していたが、そんな自分にできることは何だろうか。ちっぽけで矮小なこの私はこの世界のためにいったい何ができるのだろう。ぼくのなかでふさぎかけたこころがすこしづつ開いているようなそんな感じがした。
この世界に価値はあるのか、生きている意味はあるのか。生きるとは何なのか?わたしにはなにひとつわからないのです。私はそれを教えてもらうために学校へ行くことにしました。
キジバトのさえずりと共に目を覚ました僕は今までの僕とは少し違っているように感じました(勘違いかなぁ)。学校へ行ったら真っ先に先生のもとへいって生きている意味を聞こうと思いました。なぜなら先生は物知りだからなんでもしっていると思ったからです。私の期待とは裏腹に学校へ行くことができるのは1週間後だという事がわかりました。何やら手続きというものをしなくてはいけないらしく、しぶしぶお父さんと市役所へ行くことになりました。しゅーがくつうちしょというものを発行するらしいのですがお父さんはどの窓口で手続きをしたらいいのかがわかんなくて通路をずっとうろうろしています。僕はそれを見て情けないと思いましたがそれと同時に助けてあげたいと思いました。お父さんは僕のことをどう思っているのだろう。父親をおもう私はわたしにとってあいする人なのだろうか。
結局手続きが終わったのはそれから3時間が立った昼過ぎのことでした。お父さんが私に「少し遅くなったね。なんか食べて帰ろうか」という。思えばこうして二人で食事をするのはいつ以来だろう。昔の思い出をさかのぼるとなんだか胸がチクチクして気分が悪くなりました。近くのファミレスによって僕はハンバーグを頼みました。食べている間お父さんは何も言いませんでしたが、これから学生として頑張っていく僕を想像してとてもうれしそうなでも少しだけ不安そうな顔をしていました。僕にはそのときはなぜ父親が不安そうな顔をしているのかわかりませんでしたが、ひさしぶりに二人で食べるご飯はいつもよりもおいしくて涙が出そうになりました。
黒い感情が私を渦巻く。
「お前は人間じゃないんだよ」「うるさい!お前に僕の何がわかるっていうんだ」
「わかるさ、お前は俺自身なんだから。お前のことを一番理解しているのも俺さ。そしてお前は俺に助けを求めることになる。時期にわかるさーー」
今日は火曜日です。今日も元気な幼子の声が聞こえてきます。これから始まる新たな人生に胸を膨らませて未熟な少年は希望のカーテンを開きます。「早くしないと置いてくぞー」「待ってお父さん今行く!」ようやく私はふつうのじんせいをおくることができそうです。