20.幸せを追求する日
お金があれば出来ないことなど無い。最近それを自覚してきたと思う。お金は手段であっても、そのものが目的であることはないだろうと思う。
お金そのものが目的であるのならば、その人はお金稼ぎはただの手段となる。そして、お金は愛でるものとなる。
僕の場合は前者である。目的のための手段がお金である。それを稼ぐのは手段ではなくただの過程だ。その過程の段階で労働というものが付属するのは副次的なものだと言える。
一部、不労所得等というものも存在するが、真に働かずしてお金を手にする人は居ない。極論を言ってしまえば、詐欺師だって、他人からお金をむしり取るために苦労はしているのだろう。そういう点では働かずしてお金を手に入れている人は居ないのだと僕は確信できる。
遥か昔、人間がまだ生まれたばかりの頃だって、生きるために働いていたのだから、ある意味人間にとっては労働というものは生きていくのに欠かせないものなのかもしれない。
生活保護などはそれに反するところだろう。というか、日本の法律がそうしているのだ。世界を見てもそんな法律がある国は日本くらいなものなのだろうか?
僕は知らないけどね。
先日考えたロシア旅行だってそうだ。金にモノをいわせて何から何まで用意させた。休暇だって今の地位に依るものだ。権力にはやはり金はつきものだし、現代で生きていくには金がなくてはならない。
だからこそ、金を多く持つ人は強者で、金がないものは弱者という社会構造が成り立っているのだ。かつて、ソ連はあらゆる面で平等を押し付けた。そこには賃金然りだ。
どれだけ働いても、もしくは働かなくても同じ賃金ならば、人の労働意欲は失われる。そして、人々は働かなくなる。それは歴史が証明したことだ。真に共産主義が達成されるのならば、それはお金という概念が無くなり、ありとあらゆるモノが平等に無料で万人に手に入り、ありとあらゆる面で平等になれば真に共産主義が達成されるのだろう。誰もが働かなくていい世界。
果たして、人間から労働という行動を取り除いたらどうなるのだろうか······?僕には分からないが、何だかろくなことにならないのは容易に想像が着く。
まあ、僕の考えは良いだろう。で、結局何が言いたいのかといえば、金の力で出来ないことはないということだ。
全ての欲求を金を対価に支払えば必ず満たせると言うわけではないが、それでも大半のことはお金でどうにかできることもまた事実。
まあ、そのお金が動く過程でどれだけの人も同時に動いているのかは、お金を使う側には分からないだろうけども。
あなたは幸せですか?と尋ねられれば、僕は迷わず「とても幸せです」と答えるだろう。
今の僕には金も、地位も、権力も、人脈も。そして何よりこの世界で一番に愛すべき、愛しき妻が居るのにどうしてそれを不幸せだと言うことが出来るだろうか。僕には出来ない。今、これ以上無い幸福を享受しているのだから、幸せ以外の何物でもないだろう。
幸せの定義も人それぞれだろう。例えば、貧乏でも家族が居て支え合って生きているから幸せだと言う人も居れば、逆に、お金はあるのに孤独で不幸だと嘆く人も居るだろう。
その他にも、自分が幸せだとも思わないようなことでも、自らが幸せだと感じられる人も居るだろう。
つまりは、幸せとは千差万別。この世界に生きている人の数だけ幸せも不幸せも存在するのだろう。
もしも、僕が不幸だと思うときが来たらそれは愛する妻を失ったときだと確信をもって言える。
隣で寝ている夏希の寝顔を見ると、見ている僕まで幸せな気持ちにさせられる。それだけ夏希の寝顔が可愛くて、それでいて美しくて、何よりもとても幸せそうだ。
僕はそんな夏希の頬にそっと口付けすると、そのまま夏希の手を握って寝るのだ。




