ニッポンロックヒストリーその2『インディーレーベルの先駆け「URC」』
URCは日本のインディーズレーベルの先駆けであり、母体は「高石友也事務所(後の音楽舎)」である。
URCは歌詞の内容が過激な故、メジャーで発売できないアーティストを数多く発掘し、その影響力から現在の音楽シーンを語る上で欠かせない存在である。
URCは会員組織で、当時評判であった寺山修司などの「アンダーグランド演劇」に引っ掛けて「アングラ・レコード・クラブ(URC)」と名乗る。
彼らの活動は主に、各地の労働組合や学校のイベント、反戦集会、フォーク・キャンプなどに出演し、
そこで自ら製作したレコードを販売した。
その数、当時で5万枚のレコードが売りさばけたそうな…。
URCを語る上で高石友也の話をしなければならない。
立教大学文学部、応援団所属、プロテスタント(新教)のクリスチャンであった高石友也が1960年代、ピート・シーガーやボブ・ディランの曲に日本歌詞をのせ、フォークソング活動をしていた当時、後の高石事務所の社長となる秦政明に見出された事がURCの始まりとされる。
秦は高石を自宅に居候させ、マネジメントとプロモーションを始める。
70年の日米安全保障条約延長を控えた60年代後半、日本では左翼系の学生を中心とした政治闘争が激しくなる。
そんな時代の中で「既成のフォークなど本物のフォークではない!」と政治的・社会的メッセージをこめたオリジナルフォークソングを1966年12月20日、シングル「かごの鳥ブルース」で高石はレコードデビュー。
高石は各、政治集会などに引っ張り凧となる。
こうして高石のネームバリューが上がると共に、フォークが俄然盛り上がりを見せて来た。
1967年9月、秦は高石事務所を開設。
より本格的に高石のマネジメントを行う。
また、イベントやコンサートの企画や開催、新たなアーティストの発掘を始める。
その後、この高石事務所には、高石に強く傾倒された岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎ら、「関西フォーク」と呼ばれるシンガー達や、東京で活動していた高田渡、遠藤賢司、らも所属し、
その中心であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖と呼ばれる。
さて、URCとして活動を開始した69~70年は、フォークの神様と呼ばれた「岡林信康」の時代となる。
岡林は同志社大学神学部、ボクシング部に在籍していたが中退。
その後、高石と出会った岡林は自らも歌い始め、68年3月、高石事務所主催の「アンダーグランド音楽会」へ飛び入り出演し人気を博す。
68年10月に発売した「山谷ブルース」もヒットし、岡林は「フォークの神様」としての道を歩みだす。
69年アルバム「わたしを断罪せよ」を発表する頃には、岡林のオリジナル「友よ」は、政治集会で合唱され不可欠の闘争歌となっていた。
そんな中、岡林は次第に自分自身を見失い、失踪事件を起こす。
その後、岡林は70年に入ると、当時URCの看板アーティストに成長した「はっぴえんど(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)」をバックに「見えるまえに跳べ」でロック歌手として復活する。
この時、新しいファン層を獲得する事も出来たが、コアなファン層は離反していき、岡林のカリスマも次第に薄れていく。
また高石友也も69年の渡米を期に「反社会派」というイメージを捨て、URCから去っていった。
URCはその後、所属アーティストらと出演ギャラの件で不信感を抱かれ、また所属アーティスト「中川五郎」が「フォークリポート」で発表した恋愛小説が猥褻とされて、事務所へ強制捜査が入った。
これにより、販売ルートは大打撃を受け、主力アーティストが続々メジャーレーベルへと移籍していく事となった。
CBSソニーへ岡林、友部正人が、ビクターへは三上寛が、ベルウッドへは、はっぴえんどを始めとしたURCのほとんどのアーティストが移籍。
時代の寵児URCは、77年を最後にその幕を降ろした。