21話 本当に追い詰められたときの底力
「ヤバい」
何がヤバいって、せっかく延長して貰った締め切りがすぐそこまで迫ってる。
ボクもけっして時間を無為に過ごしていたわけではない。
ただ、前回ほどの極度の集中でできあがった作品を超えようと思うと、どうしても何度も手直しをする必要があった。
ところが手を加えれば加えるほど、納得できない部分が増えていくという悪循環。
結局、満足しきれずに消してしまうこともしばしばだ。
良くない傾向だというのは分かっていた。
作品というのは一気呵成に勢いで書いてしまった方が、結局は良い作品に仕上がることが多い。
もちろん細かい部分では修正を加えるのだけれど、書く前の心構え、精神状態や脳の働きといった部分で作品の品質が決定してしまうのだ。
小説は書く前に八割できている、なんて言われるぐらいだ。
あとは、勢いよく書き上がるときは、自己反省が弱まっていることも多いかもしれない。
とにかく、締め切り前で時間がなかった。
「ヤバい、これは本当にヤバいぞ。一度猶予を貰った手前、絶対に締め切りは破れない。田口さんが怖いと言うよりも、ボク自身の信用問題として、自分が許せない」
ボクは頭を抱えて、ノートパソコンを前にブツブツと呟いた。
一人暮らしをして長年創作活動をしていると、時々こうして独り言を言ってしまうことがある。
良くない癖だとは思うのだけれど、思考を整理するのに意外と役立つのだ。
人には見せられないし、人前では出ないように気をつけていた。
修正を無視して、仮原稿の残り日数はわずか二日。
時刻は夜の1時だ。
組では深夜番の人たちがまだ起きていて、今日も多分麻雀に精を出しているだろう。
出前でも頼もうか、と思っていた時だ。
なにやらザワザワ、ガヤガヤとした騒がしい音が聞こえてきた。
こんな深夜になんだろうか?
この部屋は防音がしっかりしていて、よほどのことがない限り音なんて聞こえてこない。
それを上回る喧騒というのは、普通のことではない。
ボクは嫌な予感がして扉を開いた。
とたん、思わず飛び上がりそうになるほどの大音声が耳を襲った。
ガガガガガ! ダン、ダン、ダン!
……銃声だった。
日本人がドラマやあるいはFPSゲームでしか接点のない銃撃音が絶え間なく聞こえてくる。
本物は迫力が違う。
銃声だけではなく周りのものが破壊される生音。
ビリビリと震える建物。
しばらくボクは呆然としていて、それからようやくここが暴力団の事務所であることを思い出していた。
「嘘だろ……。襲撃? まさか、本当に?」
そんな想像はしたことがないとは言わない。
だが、まさか。
実際にそんなことになるとは、思ってもみなかった。
勘違いという線はまずない。
いまどき動画やゲームで銃撃音はいくらでも聞くことができる。
そして音や衝撃は、間違いなくそれらが作品ではなく現実だと告げていた。
ボクは震え上がった。
今すぐここから逃げ出したいと言うのに、足が動かない。
もしかしたら、逃げ出した先で襲撃者とかち合うかもしれない。
そう思うと、とてもではないがここから動き出せなかった。
焦りとともに頭が真っ白になっていたボクの前に、
「先生、いましたか。良かった」
「竜さん! 一体何がどうなってるんですか!?」
「落ち着いて。深呼吸しましょう。良いですね?」
「わ、分かりました」
泰然自若。
両手を上げて竜さんがボクを制する。
微塵も揺るぎない竜さんの態度に、落ち着きを取り戻す。
いや、まだ焦ってはいる。
思考はぐちゃぐちゃで、何を話したら良いのか、考えたら良いのかわからない。
けれど、取り乱さない程度の、表面を取り繕うことができるぐらいの平静は戻った。
だが、そんな竜さんの額は割れ、血が流れているのだ。
「血が! 大丈夫なんですか?」
「問題ありません。ちょっと破片が当たっただけで、出血量が多く見えますが大した傷じゃありません」
竜さんは本当に落ち着いていた。
覚悟の据わり方が違う。
これが本職なのか、と思い知らされた。
「まず最初に。ここが一番安全な場所です。出ないように。ここの壁は防弾仕様ですし、扉は内部からも鍵をかけることができます。事態が落ち着けば誰かが直接案内するので、それまでは絶対に出ないでください」
「何があったんですか?」
「……対抗勢力のカチコミです。暴対法で取締の厳しいこの時代に、バカがバカをやりました」
カチコミ。
任侠ものの小説を書いていたけれど、まさか実際に体験する日が来るとは思ってもみなかった。
いまやそんな時代ではない。
取締は厳しく、最悪事務所が壊滅してしまうリスクもあるのだ。
だからこそ、田口組の人たちは古き良き時代に思いを馳せて、小説を読んでくれていた。
それがまさかこんなことになるとは。
「先生、あとひとつお願いがあります」
「なんでしょうか?」
「サクラのお嬢を預かっていて欲しいんですわ。あの娘は組とは関係ないですからね。一番安全な場所でいて欲しいんです。お願いです」
「分かりました! どこにいるんですか?」
「すぐそこに。お嬢。どうぞ」
竜さんの後ろから姿を現すサクラちゃんは、顔を真っ青にしていた。
あたり前のことかもしれないけれど、自分と同じような反応の人間がいることでホッとする。
「先生!」
「ケガはない?」
「大丈夫。怖い、怖いよ、先生」
サクラちゃんは竜さんの後ろにいたが、ボクの隣に立つと慌てて袖を握った。
体が小刻みに震えていた。
ふっと触れた手の、氷のような冷たいこと。
そんなサクラちゃんを優しい目つきで見つめながら、竜さんがボクに頭を下げる。
「先生、どうかお嬢をよろしくお願いします」
「竜さんは?」
「応援に駆けつけます。まったくこのご時世にパンパンと花火を上げて、気楽なやつ共です」
竜さんが廊下を眺め見る。
ダンダンダン!
相変わらず銃声は鳴り続けている。
先程よりも心なしか音が大きくなっている気がした。
時折男たちの怒声も響き渡っていて、鉄火場が冗談のたぐいではないのだと分かった。
「竜! いかないで!」
「そういうわけにも行きませんよ、お嬢。それではお達者で。また会いましょう」
「気を付けて、絶対に元気な顔を見せてくださいよ!」
「ええ。先生の新刊を読むまでは死ぬに死ねませんわ」
「竜……!」
言葉にならない声で、サクラちゃんが呼び止めようとする。
「お嬢、お元気で」
そう言って竜さんが笑った。
どこまでもかっこいい笑みだった。
ゆっくりと扉が閉まると、一気に音が小さくなった。
言われたとおり、しっかりと施錠をして、万が一にも開かないか確認する。
初めて入ったときは監禁されるかと恐れた分厚い扉に、今は安心感があった。
「パパもママも、大丈夫かな」
「きっと大丈夫だよ。それよりも今は自分のことを考えて」
「先生、怖い。私怖いよ……。どうしてヤクザなんてやってるの!? パパもママも、とっても優しいのに……どうして!?」
「落ち着いて。ほら、震えてるじゃないか」
自分の怖さもたいがいなものだったが、それ以上にすぐ隣に怖がっているサクラを見ることで、しっかりしないと、と気を張ることができた。
そでにしがみつくサクラをゆっくりと移動させる。
幸いなことに水も食べ物もたっぷりある。
きっとここは本当に安全だろう。
騒ぎが収まるまで待つしかない。
「ここは安全みたいだからね」
「先生、ゴメンね。こんなことに巻き込んじゃって」
「しかたないよ。運が悪かったんだ。こうして匿ってくれているだけでも助かるし。むしろ組の人にしたら、匿える人が減って困ってるんじゃないかな」
ボクはヒーローじゃない。
誰かを助けるなんて無茶はできない。
すごい力に目覚めて、戦いを仲裁することもできない。
そういう意味では、ボクは無力だ。
震えるサクラを抱きしめて、背中を撫で落ち着かせる。
ブルブルと全身を震わせながら嗚咽を上げるサクラの姿を見下ろしながら、ボクは興奮よりも、頭の中で物事がどのように動いているのか、つい想像してしまった。
身近な人が命の危機に瀕しているのに、度し難い職業病だ。
「先生……?」
「ボクには書くことしかできないから」
「……こんなときに、嘘でしょう?」
「いや、本当だとも。いまの体験はぜったいに作品に活かせる。詰まっていたシーンを確実に越えることができる」
「ひどい……。先生がそんな人だったなんて思わなかった」
「ボクはしがない小説家だよ。他でもない彼らが、ボクの作品を心から楽しみに待ってる。戦いが終わって心を休めるときに、ボクの原稿が少しでも助けになるならそれが一番だ」
ハッと息を呑んだサクラは、それ以上なにも言ってこなかった。
たしかに普通ではないのかもしれない。
でも今は、書くべきことで頭がいっぱいだ。
目の前で非日常の空間が起きている。
これを前にしてぼうっと震えているだけだなんて、作家の名折れだ。
そして、本当にこの組の人は新作を喜んでくれるだろう。
ボクはテキストエディタに向き合うと、キーボードを叩き始めた。
もう、怖さはなかった。
銃声すらかき消すほどの集中力が、ボクを包んでいた。




