20話 とっても危険な、締切延長のお願い
世界でもっとも寒い一日を知っているだろうか。
南極大陸のある場所で観測されたその日は、氷点下八十九.二度を記録したらしい。
当然ありとあらゆる生物は生きてはいられない。
北極熊もペンギンも毛布を着て逃げ出すような寒さだ。
細菌すらも生きられないから、風邪にもならないという。
組長のおっさんがボクを見下ろすその目。
その目が、そんな絶対零度の色合いをしていた。
ボクは胃痛と戦いながら、おっさんに謝罪していた。
隣はニコニコと笑って座るサクラちゃんがいた。
データ破損による、締め切りの延長のお願いを聞いてもらうためだ。
おっさんとの約束で一番のネックは、最高傑作を届けるというところだ。
これがただ締め切りに間に合わせるだけならば、まだ抜け道はあっただろうと思う。
やっつけ仕事でつじつまを合わせて、石川さんに泣きついて編集スタッフを導入して校正すれば間に合った可能性は高い。
だが、最高傑作という条件が付いたからには、これは一筋縄では行かない。
再度、深い集中が訪れる時を待つ必要があった。
ボクは下げた頭を、よりいっそう低くして、おっさん、いや、組長に許しを乞う。
人は極度の緊張に覆われたとき、頭が貧血状態になるんだそうだ。
頭がぼうっとして、手足が冷たくって、どことなく現実感がない。
びっしゃりと汗をかいて、もうすでに生きているのか死んでいるのか、それすらも分からないような、遠い夢を見ているような感覚。
「ほ、ほ、……本当に申し訳ないです。ややや、約束していいた期日に……どどうしてもももも、間に合いそうにありません」
「これがその、破損したというデータですか。私もまあ、すこうしばかりコンピューターにはかじっておりますが、たしかにこれではもう、どうしようもないでしょうなぁ」
「サルベージや修復も出来ないかといろいろ調べたんですけど、やっぱりどうしても絶望的です……」
「ここに最高傑作があったわけですか」
「は、はい。もう一度、最高のものを書くために、時間を……時間をください」
沈黙が返ってきた。
これは、何を考えての沈黙だろうか。
許されるのか、許されないのか。
許すのならば、組長の……いや、田口さんはいつもならばすぐに声をかけてくれそうなものだ。
となると、かなり不機嫌なのではないだろうか。
それもそうだろう。
最高の環境を整えるために、田口さんは場所を提供し、美味しい食事を食べさせてくれ、十分なお金までくれた。
その唯一の対価が作品だったのだ。
それをボクは間に合わないという。
……どうなるんだろうか。
やっぱり指を落とされるんだろうか。
いや、それどころか海に沈められるんだろうか。
それとも山の冷たい地面の下で眠ることになるんだろうか。
時間が経つに連れて、どんどんと悪い想像ばかりが浮かんでくる。
絶望に墜ちきったボクの隣で、サクラちゃんが言った。
「壊れたものは仕方ないじゃない。パパ、時間をあげてよ」
「サクラ、今私は先生と話をしている」
「どうせパパのことだから、もったいなかったなぁ、どうにかして読めないかなぁ、とかそんなこと考えてるんでしょう」
「……………………。先生との約束をどうするか考えていたのだ」
サクラちゃんが助けを出してくれた。
パパこと、田口のおっさんはしばらく押し黙ったが、表情には苦みきったものが浮かんでいた。
もしかして、助かりそうなんだろうか。
「先生も頑張るって言ってるんだし、イイじゃん」
「期日は守れなかった。約束は守られるべきだ」
「でも不可抗力じゃん。先生頑張ってた」
「頑張ったからと言って、言い訳にはならないのだよ」
「ふーん、そっかぁ……。じ ゃ あ、パパがお仕事で私の授業参観とか、旅行とかの約束を破ったのって、所詮その程度だったってことだよね?」
「…………それは、すまなかった」
ああ、結構恨みを買ってる。
そうだよね。
仕事だ、大切なことだって分かってても、学校の行事で自分の親だけいてなかったら、寂しいもんね。
サクラちゃんの攻勢で、おっさんの勢いが弱まってる。
頑張れサクラちゃん。
「先生、必死に書いてたの、私見たもん」
「いつのまに……?」
ぜんぜん気付かなかった。
相談に乗ったことはあるし、仕事風景を見せたこともある。
でもそれもちょっと前のことだ。
最近は仕事部屋に来た覚えはなかった。
サクラちゃんはいったいいつ、ボクの仕事を見たんだろう。
ボクの質問に、サクラちゃんはとたんに慌てだした。目が泳いでいる。
「ほ、ほら。締め切りも近いし、頑張ってるかなって思って、部屋に行ったの。そしたらセンセ、私がノックしてるのも気付かないぐらい集中して執筆してたじゃん? だからそのまま黙って帰ったの」
「そうだったんだ。ゴメンね」
「サクラ、おまえ相手が先生とはいえ男の部屋に入るのは……」
「何もないんだから心配しないの! なに? パパは締め切りとかより、実はそっちの方が心配だとか?」
「むむぅ……」
明確な答えこそなかったが、反応を見ていればおっさんの考えていることはすぐに分かった。
まあ、どんなに面白い小説だって、愛娘には代えられないよね。
どうやらヤクザの組長の切れる頭も、娘の前には役に立たないらしい。
「ほらほら、許してあげなよ。もう一度ぐらいチャンスがあってもイイじゃん」
「……分かった分かった。先生、それでは、後どれぐらい時間が必要そうですか?」
「二週間あれば……」
「じゃあ三週間ね」
「な、サクラちゃん?」
「どうせセンセのことだから、今のこの場を切り抜けようと思って、短めに宣言したんでしょ。ダメだよ、ちゃんと本当の納期を言わなきゃ」
ぐぐぐ……。
この子すごい。めちゃくちゃ人の悪い癖を見抜いてる。
いや、そうなのだ。
頭の中に三週間は欲しいなと思ったのだけれど、一度締め切りを破った手前、申し訳ないなとか、これ以上気分を害したらとか遠慮してしまったらどうなるだろうかとか、色々考えてしまった。
それを、ボクよりもはるかに年下の女の子に見破られてしまった。
「はぁ、三週間か。分かりました。お待ちしましょう。しかし二度目はありませんぞ」
「……ありがとうございます、チャンスをいただいて」
「うんうん、良かったねえ、センセ」
「ありがとう、サクラちゃん」
にっこりと笑って慰めてくれるサクラちゃんに、なんだか涙が出てきた。
本当に良い子だ。助けてくれて本当に良かった。
ボク一人だったら、今頃沈んでいたかもしれない。
「じゃ、センセ、後で今日助けてあげたお礼してね?」
「分かったよ。このお返しは必ず」
「約束したよ。さー、何してもらおっかなあ~」
本当になんだってしてあげたい気分だった。
この子のおかげで、ボクは九死に一生を得た。
スキップしそうな勢いでサクラちゃんが部屋を後にする。
彼女はボクの守護天使か、女神かもしれない。
ありがたやありがたや。
心の中で拝むボクの肩に、がっしりとした男の手が押さえられた。
「ところで先生、少し娘のことで話があるのですが」
鬼か般若の顔が、そこにあった。
前回のデータ破損は、つい先日の私に起こった実体験を元に記述しています。
本当に助けてほしかったよ……。




