【8日目-4】一難去って
男の首へと剣が吸い込まれる。
けれど男は無事だった。男が防いだわけでも、私が剣を止めたわけでもない。
「邪魔をしてすまない。だが大切な部下を、目の前でみすみす死なせるわけにはいかないのでね」
いつの間にか女の魔族が男の隣に現れ、剣の腹を指で掴んでいた。刃先は首に触れるかどうか…あと少しだったのに。
私は首を切り飛ばす勢いで振るったはずだ。それをこの女はあの離れた位置からここまで移動し、そして剣の勢いを指先だけで完全に殺してみせた。化物か。
「…それは残念」
私は警戒を解かないまま、ゆっくりと剣を下ろした。その際、女の指はすぐに離れ、男に対しては構えを解くよう促していた。
「しかし、私が邪魔しなければ貴女の勝ちだった。だからという訳ではないが、今回はここで手を引こう」
「なっ、シアラ様!?」
女の――シアラ様と呼ばれた魔族は、男へと視線を向ける。
「落ち着け。そもそも門についてはお前に管理を任せたはずだ。本来私はここに居らず、お前とその部下が来ていたはず。その場合、どうなっていたと思う?」
「それ、は…」
「最悪の場合、部下諸共ここで死んでいてもおかしくなかっただろうな。まぁお前は情報源として生かされたかもしれないが」
「……だからこの場は引く、と仰るのですか」
男は納得できていない様子だが、シアラという魔族の方が立場が上なのだろう。その決定に異を唱える事は無かった。
女はそんな男に苦笑を零して、私へと視線を戻した。
「見苦しい所を見せてしまったかな。そういう訳で私達は立ち去るが、いいだろう?」
「勿論。――でも、本当に私達を見逃していいわけ?」
「おい、ティアナ!?何言ってるんだ!?」
聞かなくてもいい事を聞いた私へクラウスから非難が飛んできた。その一言で心変わりしてしまったらどうするんだって気持ちは分からないでもない。でも、このくらいなら大丈夫だと思ってる。だって、この女は部下を殺そうとした相手が目の前にいても、その視線や雰囲気に一切揺らぎがないのだから。あるのは、冷たい光に浮かぶ好奇の色。
「そうだな。その問いへ答えるなら、私は見逃してもいいと思っている」
「何故?」
「その方が私の目的に近づくからだよ『《それに貴女はこちら側の存在だろう?》』」
「目的?『《……何のこと?》』」
「話すと思うのか?『《分からないならいい。まぁそこの精霊なら分かるかもしれないな?》』」
それ以上、語るつもりはないのだろう。けれど、ヒントを寄越したのは女の言う“こちら側”だから? 元々、精霊には話を聞くつもりだったけど、聞くことが増えたね。
「……そうね。引き止めて悪かったね」
「いいさ」
そう言って、女は徐に何もない空間へと手を振るう。すると、腕を振るった跡をなぞるように裂け目が生じ、人が通れる大きさまで開いた。裂け目の内側からは光が一切感じられない闇が覗いている。
それに反応を示したのは精霊とクラウスとライラの二人。目の前の現象が信じられないのだろう。それも当然かもしれない。空間が裂けるなんて事象、それは一個人が為せる範疇を超えているのだから。ただ私は、この女なら出来てもおかしくないだろうなとは思う。それでも無詠唱どころかワンモーションで空間に干渉? この女、一人だけ住んでる世界が違うんじゃない?
そんな私達とは違い、魔族の二人はさも当然のように裂け目へと進んでいく。
男が裂け目へと入る直前に私を睨んできたけど、それも一瞬のこと。次の瞬間には裂け目へと姿が消えていった。
「やれやれ。――では、さらばだ」
男の様子に嘆息していた女だったが、私達に向かって別れを告げ裂け目の向こうへと消えていった。そして裂け目は端から閉じていき、最後には裂け目があった痕跡はその空間には残されていなかった。
「ふぅ…。本当に帰ったみたいね」
彼らが消えてからもしばらくは警戒していたけど、どうやら本当に帰ったらしい。それが分かって、思わず疲れた声が出た。
《大変だったのう。しばらく休むといい。その間は我等がそばにいよう》
《ありがとう》
精霊がそう言うのなら大丈夫だろう。この場において感知力なら精霊達のほうが上なのだから。それは先ほどの魔族が現れるのを直前とはいえ、感じていた事からも分かる。
「ほら、二人もいつまでも気を張ってたら疲れるよ?」
私が声をかけるとクラウスとライラは、はっとしたような反応を示してから私へと顔を向けた。
「……ティアナ?」
「何?」
「……」
私を呼んだライラは、何か信じられないものを見たとでもいうような表情で私を見つめ黙ってしまった。さっきまで色々あって処理が追いついていないのだろうか?でも、私を見ながらそんな顔するのが分からない。
隣のクラウスはライラと私に視線を交互に向けてからは、周囲を少し見渡している。たぶん、誰か一人は警戒するものがいないとって思っての事だろう。精霊の事を先に説明しないとかな。
「クラウス、離れててもしょうがないからライラを連れてこっち来なよ」
「あぁ、そうだな。ライラ行くぞ――ライラ?」
クラウスの呼びかけに反応がない。私も改めてライラに視線を向けてみれば、変わらず私を見つめたまま。だけど、唇が動いている事から何か呟いてるのだろう。クラウスもそれには気づいていて、すぐ口元に耳を寄せることでその呟きを聞き取っていた。
《あの様子…殻を破ってしまったかのう?》
何だろうかと眺めていた私の耳に、精霊の言葉が入ってきた。その言葉の意味はわからなくとも、また何か起ころうとしているのは――いや、既に起こってしまっているのを感じずにはいられなかった。