プロローグ「朝の風景」
プロローグ「朝の風景」
「ほら、お兄ちゃん、シャキっとして。朝練は遅刻してもいい、なあんてことないんだからね」
「おう」
萬田のスーパーホームランに勝った翌日。
俺はいつも通り桜に背を押されて、桜花寮の玄関へと向かっていた。
一晩寝て疲れは抜けたが、まだどこか、有馬選手と戦った感触が残っている。
あっさりと決着が付いた本番はともかく、その手前にあった第一機動特機中隊や有馬選手との特訓は恐ろしく密度が高かった。
萬田は試合会場となった第一訓練場からメガフロート中央病院に搬送されていたが、しばらく入院するらしい。幸い、救出が素速かったので、軽度の火傷だけで済んだそうだ。
「あ、後藤さんだ!」
「おはようございまーす!」
寮の玄関口は、揃いのジャージを着た生徒でいつもより込み合っていた。
「おはようございます、先輩方!」
「昨日の試合、最高でした!」
「次はいつですか?」
この朝練は強制ではないが、アイ校の生徒として、体力向上の重要性は皆、理解していた。
体調に合わせて夕方に走る組も含めれば、全校生徒の殆どは何らかの自主トレをするという話である。
風邪を引いた、あるいは生理などの理由で休むことは、むしろ推奨されている。置いて行かれたくないという心理で無理をしては、元も子もない。
俺のように落ちた体力を回復するのではなく、彼女達は成長中だ。なるべくなら、情けないところは見せたくないものである。
「おはようございます、後藤さん」
「おはよう、八重野宮さん」
いつもの二年生、三年生に加え、今日からは、寮生活にも慣れてきた一年生も混じっている。
新派や久坂など、うちのクラスのメンバーも半分ぐらいはいた。
八重野宮は……うん、いつも通りだ。
綺麗な長い黒髪に、美しい顔立ち。
ジャージの生地をぐいっと持ち上げている、有馬選手の公称八九センチのバストより一センチ大きいというそれに……なるべく視線を向けず顔を上げれば、今度は薄桃色のリップが引かれた唇が俺の目に映り、慌てて空を見上げる。
昨日、あの唇が『お守り、です』と俺の頬に触れ、『片思いと片思いで、両片思いです』と俺の心を刺したのだ。そう思うと、なかなか心穏やかではいられない。
「どうかしたんですか?」
「ん。……今日もいい天気だなって」
「ふふ。はいっ!」
片思いの切なさはないが、不安もない。
そして……何かが足りないと同時に、どこか充実している。
うん、両片思いも、いいもんじゃないか。
これこそ、青春だ。
「はい、一年生は注目!」
ぱんぱんと手を打ったのは、三年の麻生華子会長だ。
実は……萬田が『無事』に自主退学して心の荷が降りたからだろう、昨日の夜、部屋を訪ねてきた彼女に、泣きながらお礼を言われた。
生徒会長として、常に気を張っている彼女にも、休息場所は必要らしい。
それはそれとして……桜が同席して居なければ、部屋まで送っていく最中に廊下ですれ違った八重野宮に、どう言い訳していいか四苦八苦していたと思う。
一夜明けて、すっきりとした表情の我らが会長に、幸多かれ。
「中学の時、運動部をやっていた人以外は、今日は一周だけにしておいてね。もちろん、身体が慣れない内は、無理をしないように。最初は早起きして柔軟と体操をするだけでも、きちんと効果があるのよ」
出発の合図はないからねと、麻生会長はそのまま座り込み、柔軟を始めた。
慣れた二、三年生が思い思いに準備体操を行い、あるいは身体をほぐし終えた者は走り出し、一年生が見よう見真似で一拍遅れてついていく。
クラスメート達に、よくわからないなら体育の授業の最初にやるのと同じ運動でいいぞと声を掛け、俺自身も柔軟をとっとと終わらせる。
「桜ちゃん達は二周目、ゆっくり目でお願いね」
「遅れた一年生を拾っていけばいいんですね?」
「去年のあたしらみたいな?」
「ええ、そうよ。お願いね」
桜達『アイ校四天王』は、生徒会の手伝いをしている。
他の役員は知らないが、副会長は夕方組の面倒を見ると聞いた。
「会長は?」
「……三周目はダッシュのつもり」
「おおぅ……」
「じゃあ、俺が会長に着いていきます」
「はい、お願いします!」
俺は入校式前から桜の朝練に付き合わされているし、一人暮らしも四年目で生活のペース配分が崩れているということもない。そろそろ周回を増やしてもいいかと、軽く請け負った。
「じゃあ、行きましょうか、後藤さん」
「はい。……みんな、初日から無理すると一日サボるより酷いことになるから、まずは自分のペースをつかむようにな!」
「はーい!」
「いってらっしゃーい!」
駆け出しながらタオルを鉢巻きにした麻生会長が、俺を振り返った。
負けじとダッシュし、並んで走る。
「どうです、今年は?」
「初日なのに、去年より多いかもしれません」
後藤さん効果でしょうねと、麻生会長はくすりと笑ってペースを上げた。
八重野宮と一緒に走るのも心惹かれるが、このアイ校――国立特殊歩行重機操縦士訓練校高等部はそんなに甘くない。
日本最高峰のアイアン・アームズ操縦士教育機関という看板は、伊達ではなかった。
うちの担任と副担任を見ていると、息抜きさえもコントロールされているんじゃないかという気がしてくる。
八重野宮の言う『両片思い』には、自分に甘くすると、途端にこれまでの努力全てが崩れそうな不安も込められているのだろう。……と、俺は勝手に解釈している。
俺の包容力と自信が足りていない部分も、なくはないと思う。
まあ、あれだ。
女の子は大体の場合、男よりも心の成長が早いという説は、当たってるんだろう。
……技術バカを真剣に目指していたせいで、精神年齢が抜かれている可能性も否定できなかった。
まあ、何かと忙しい日常は、変わらないかもしれないが。
萬田の件はもう解決したのだから、今日からは心機一転、俺も自分に目を向け、目標を明確に定めたいところである。