プロローグ「出会い」
プロローグ「出会い」
二〇八六年、桜咲く四月の初旬。
その日は、俺が彼女と初めて出会った日になった。
俺は同じ学校の桜に手伝って貰いながら引っ越しを終え、あまりにも人気のない寮内に、若干堅苦しく歓迎されていないような雰囲気を感じつつ、食堂へと向かっていた。
「しかし、静かだな……」
「入寮解禁の初日だし、今日いきなり来るって子は少ないんじゃないかな? 里帰りしてる上級生が戻るのは入学式前日だろうし」
「桜は実家、帰んなかったのか?」
「うちって、お父さんの任地が去年北海道に変わったばかりでしょ。戻っても友達いないもん。それにお父さん達、四月にはこっちに来るって言ってたからね」
「あー、うん、そうだった」
両親がこちらに――東京にやって来るのは、主に俺のせいである。
「あれ?」
「ん? どうした、桜?」
妹の視線の先、廊下の向こうにぽつんと生徒が佇んでいた。
足元に大荷物があるから、たぶん新入生だろう。
近づけば、長い黒髪をふわっと揺らし、彼女はこちらを振り返った。
「あ……」
……目鼻立ちのすっきりとした、綺麗な子だった。
今時テレビでも滅多に見ないような、如何にもお嬢様然とした佇まいと凛とした雰囲気に、息を呑む。
無駄に緊張しつつも……つい、見惚れてしまった。
うちの制服は、明るい緑地のブレザーにブラウスと学年で色の異なるリボンタイ、スカートは膝までのタイトで、自衛隊の各種学校で使われている制服を今風にアレンジ――この学校の運営には防衛省も大きく関わっているが、主導は文部科学省だった――したものだが、その適度な緊張感は、彼女にとてもよく似合っている。
俺が躊躇っていると、桜が声を掛けた。
「あの、もしかして、困ってる?」
「いえ、大丈夫です。えっと……先輩と、先生でいらっしゃいますか?」
「へ?」
今の俺はスーツ姿で、若い先生に見えても不思議じゃない。
制服は注文しているが、急な入学決定のお陰で、仕上がりの予定は入学式よりも後だった。
「あ、わたしは二年の後藤桜ね。こっちは先生じゃなくて、わたしのお兄ちゃん。安心して、お兄ちゃんもここの生徒だから」
「同じく、新入生の後藤竜一です」
「えっと、八重野宮、規子です」
お辞儀と一緒にまた、黒髪が静かに揺れた。
名前までお嬢様っぽいなあといらない感想を抱くが、それは横に置いておこう。
「あの……え、先生、じゃなくて、新入生ですか? お兄ちゃん!?」
「あ、双子じゃないよ。わたしが二年生で、お兄ちゃんが一年生なの」
「……はい!?」
「桜、その説明だと八重野宮さんがますます混乱すると思うぞ」
何故、兄の俺が新入生なのか簡単に説明して、取り敢えず納得して貰う。
気持ちの上では……色々ありすぎて、俺の方が納得出来ていないかもしれないが、新入学という事実はもう動かせない。
「はあ、今日からは桜の方が先輩なんだよな……」
「努力してお兄ちゃんの先輩になったわけじゃないけどね。でも、お兄ちゃんだけの先輩じゃないから、ほんとに頑張るよ」
「先輩風でも吹かせるか? 似合わないような気がするけど、頑張れ、先輩」
「もう! そのうちびゅーびゅー吹かせてやるんだから!」
「おう、がんばれー、ごとーせんぱーい」
「ふふっ、仲、およろしいんですね」
「……あ」
「……ごめん」
くすくすと笑ったお嬢様は、ますます輝いて見えた。
▽▽▽
「もう、八重野宮さんに変な先輩だって思われてたら、お兄ちゃんのせいだよ!」
「桜もノってたように思ったけどな」
二階の部屋だという八重野宮とは今後ともよろしくと別れ、食堂を目指す。
それにしても、本当に綺麗な、そして、物腰の丁寧な子だった。
一目惚れしてもいいんじゃないかと、思ってしまいそうになる。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「八重野宮さん、さ」
「うん」
「綺麗だったよねえ、お兄ちゃん?」
「……」
「見とれちゃったよねえ、お兄ちゃん?」
「……」
俺はにやにやとした表情で棒読み台詞を繰り出す桜から、視線を外した。
「ばればれだったよ。……八重野宮さんって、ど真ん中ストレートにお兄ちゃんの好みのタイプだよね」
「……なんで、分かるんだ?」
「そりゃあ、お兄ちゃんの妹何年やってると思ってんの」
「……」
それもそうだと、妙に納得させられてしまった。……俺だって、桜の好みは知っている。
だが、まあ。
望まない新生活にほんの少し、別の楽しみが出来たことも間違いなかった。
▽▽▽
先生じゃなくて、同級生だったんだね、後藤……竜一さん。
妹さんの後藤先輩も優しくて楽しそうな人だったし、入学して最初に話した二人に、幸先のよいスタートを感じる。
私は楽しい気分で、あれもこれもとぎゅうぎゅうに荷物を詰め込んだスーツケースを持ち上げた。
部屋は二階で、この寮のエレベーターは業務用しかない。
さあ頑張ろうと、階段に足を向けた時だった。
静かすぎる廊下の奥から、後藤兄妹の声が小さく届いた。
『八重野宮さんって、ど真ん中ストレートにお兄ちゃんの好みのタイプだよね』
『……なんで、分かるんだ?』
『そりゃあ、お兄ちゃんの妹何年やってると思ってんの』
……。
ボーイ・ミーツ・ガールなんて、どうしようもなく陳腐で、手垢にまみれた古い言葉かもしれないけれど。
「ふふ……。よいしょっ、と」
こんなに嬉しい気持ちになってしまうのだから、悪いものじゃないらしい。
私も……背が高くて頼りになりそうで、無愛想かと思ったら笑顔が素敵で、ちょっと格好いい人だなと見とれてしまったものだから、妹さんにからかわれる竜一さんのことを笑えないのだ。
でも残念なことに、この学校は日本国内ではある種の最高峰……それこそ、竜一さんがわざわざ入学してくるぐらい、特別な学校だった。
中学では学年上位の成績を通してきた私にも、余裕のある学校生活を送れるかどうか、自信はない。
だから、恋にまでは至らなくても。
贅沢は言わないから、廊下ですれ違った時に目が合ったり、たまに話をしたり……少しぐらいの楽しみがあってもいいんじゃないかなと、その時は思っていた。