剣鬼去る
佐賀の草摩流道場で、かつて二人の門人による果し合いがあった。
一人の窪井新左衛門は、師範草摩左近の遠縁にあたる、長身で鼻筋の通った美丈夫。
もう一人の笹倉久蔵は、師事歴は新左衛門よりながく、浅黒く険のある顔の偉丈夫。
若き両雄、元は高く実力伯仲していたが、その頃には新左衛門の成長が著しく、差が開くにつれ久蔵の焦燥は激しくなっていた。
「立ち合え、真剣ならば決して負けぬ」
事が起きたのは仲春の夕暮。道場宿舎庭へよびだした新左衛門へ刀を渡し、久蔵は白刃を抜いた。
同日午前には御前試合の代表選抜があり、これに新座衛門の選ばれたことが久蔵の暗い思いに火をつけたとみえる。
だがこの勝負も、やむをえぬと新左衛門が構えるや影が交差し――久蔵の鋭い突きを、かわしざまの横薙ぎが迎え撃ち、あっけなく決してしまった。
刀を落とし、久蔵が鮮血滴る左腕をおさえ顔をあげるや、新左衛門はハッとした。
「新左よ、忘れるなよ俺の……俺のこの眼を。きっとおまえを打ち破りに戻ってくるぞ」
嫉妬と憎悪の物凄まじい双眸。
他の門生がかけつけた時には、新左衛門だけが茫と立ち竦んでおり、久蔵はこの日より姿を消した。
それから三年が過ぎ、城下より離れた太良峠に二人の旅人が訪れた。
ここは福田と鹿島をつなぐ唯一の道だったが、土地の者は暮れにはここを通らない。
「今日はもう峠を越さんほうがええ」と麓の茶屋で主も止める。
人斬りが、いつの頃からかでるようになったのだ。
だが紙漉きの老人は明日には鹿島をぬけ、佐賀藩へ特別な紙を献上する約束にあった。
「何こちらは男二人、曲者もそうは出てこないでしょう。それにいざとなれば手前が先生をお守りします」
と、供の男は護身刀をみせるが、店主は首をふる。
これまでも腕の立つ者が夜に向かったが、そうした者ほどむごい姿にされてきたという。
結局、月のでる頃にはふたつの灯りが峠を登っていた。
杉の林道を慎重に進み、やがて頂上へさしかかるころ……前方の闇より飛び出す影。
老人が腰をぬかすと、影は抜身の刀を手に殺気を放ち、
「抜け」と低く言う。
男が灯りを置き刀をとると、刹那に刃音がした。
賊の上段の剛剣をうけるや体勢を崩し、二刀目もかろうじて防いだものの地に腰が落ちる。
供の男は死を覚悟したが、置いた提灯が賊の顔を照らすや驚愕し、
「まさか……新左衛門かッ? おれだ、久蔵だ!」言うと、賊の動きがとまった。
面貌やつれて眼光も炯々と獣じみているが、新左衛門の面影がたしかにある。
だが賊は久蔵の眼をジッと覗きこむと、
「誰だ……おまえは」
つぶやき、途端気が失せたようになる。
そしてふらり背を向けると、元の闇へと去っていった。
数日後、かの草摩の家に来客があったが、師でさえ一見では久蔵と気づかなかった。
覚えにある憑かれたような険しさと、眼前の柔らいだ人相とが結びつかなかったのである。
詫びいるかつての弟子を草摩は温かく迎え、出奔後の事を訊く。
「やはり、決着はあの日についていたのです」
久蔵は左腕の傷痕をみせた。三年前の夜にうけたものだが、治った後も握りにはゆるみが生じるようになっていた。
「わずかな障りではありますが、これであの天稟の新左衛門との差は決定的に……悔しさで狂う思いがし、またこの時は急な山籠もりで情けなくも熱病に侵されておりました。正に精根尽き果てていた所を、今の主に救われたのです」
諫早の山中に倒れていたのを家で養生させてもらったという。生き甲斐を失った久蔵だが、回復後せめて恩義には報いようと手伝いを申し出た。
恩人は藩から直に声がかかる程の紙漉きだった。その雑用を倦まずに務めていると、次第に紙に触れさせてもらえるようになり、元来のひたむきさがその技を頗る上達させていったらしい。
「奇妙な縁ですが、今では仕事も任されるようになり、この道を極めたいという一心が剣術へのこだわりも消してくれました」
草摩は不思議な感動に打たれ、久蔵の変わり様を喜ぶ。が、新左衛門のことを訊ねられると表情を曇らせた。
あの夜から新左衛門は落ちつかぬことが多くなり、夜半に目覚めては稽古を始める等の奇態をみせるようになったという。
ひと月が過ぎる頃、町に現われ始めた辻斬りの件で役人がきた。草摩は門下一同関わりなしと帰したが、その日の内に新左衛門もまた行方をくらましたのだった。
(では、峠でみた者はやはり……)
久蔵の膝で拳が震えた。平生から毒気を向け、そしてあの夜に自身の吐いた言葉が、眼が、いかに朋輩を追いつめたのか――。
草摩はまぶたを伏せ、久蔵の頬には涙が下った。
以来、件の峠に賊はみられなくなったが、新左衛門の行方はその後も知れぬままであった。