俺と泉と幽霊と
カタカタとフィルムを回している音が聞こえるような気がする。
古いフィルム独特のノイズ混じりの光景だ。
なにもない、ただ白い灰が降り積もり、それはどこまでもどこまでも続いている。
突然映像が乱れ、ノイズが一層ひどくなった。
お世辞にもあまり上手いとは言えない編集だ。
切り替わった映像が映し出したのは、奇妙とも言えるような取り合わせだった。
歩いている猫がクローズアップされている。
四足の先だけが白い、あとは真っ黒の猫だ。
カメラは横滑り(パン)し、次にその後ろを歩いている少女を映し出した。
長い黒髪が印象的な少女だ、しかしその顔の造作は映像が乱れて伺う事が出来なかった。
猫と少女は一列になり、白い灰に覆われた大地をひたすら歩いていた。
やがてのばした手の先すら見えない濃い霧が、あたりに立ちこめる。
しかし猫と少女の足取りはその霧に臆した風でもなく、まるで道が見えているかのように確かだった。
猫の歩みが止まった。
「まったく、つくづく君はトラブルを呼び込む」
呆れたような、それでいてどこか楽しげに『猫』が言った。
「私のせいではないぞ」
猫が人の言葉を喋るというのに少女は全く驚く様子も見せず、そう応えた。
「いいや」
猫は少女へ向き直った。
「君のせいだね」
「…………」
少女は応えない、そのかわり右腕を胸の前に掲げた。
どんな魔法を使ったのか、すらりと美しい白刃が少女の手の甲から伸びる。
「大体俺の体が使い物にならなくなったのも君のせいだ。人々の苦痛をまともに受けてしまったし、再生にはあと百年はかかるよ……」
猫の恨み言を聞いた少女の口元が、ひどくいびつに歪んだ。
「私が頼んだ訳ではない、貴様が勝手にした事だ」
言い終えるか終えないか、刹那少女と猫が跳躍した。
「さっさと『死神』に昇格してしまえ。その方がボディの心配なぞしなくて済むし、私も風通しが良くなる」
少女は淡々と猫に言う。
先ほどまで少女と猫のいた場所は、まるで鰐がばくんと飲み込んだかのような牙が突き立っていた。
「俺が死神になったらなったで、後任者は必ずやってくるぞ。その後任者が俺以上に口うるさい奴だったらどうするつもりだい?」
猫は空中でくるりと身をひねり、既に着地の体勢になっている。
「ふむ」
少女は言った。
「アカデミーのじじぃ共のやりそうな嫌がらせだ」
猫と少女は同時に地面に降り立った。
「ほら、迷い魂だよ。君に惹かれてこんなにたくさん。これはちょっと手間だねえ」
あちらこちらで無数に炎の柱が立った。
その炎の中に異形の姿が生まれようとしている。
「いい加減手放してしまいなよ」
猫は言った。
「その方が安寧に暮らせる、君は一度願ったじゃないか」
「……これは私と『あいつ』を繋いでいる……これを手放しては『あいつ』の魂は二度と見つからない」
何度もした問答に猫はふう、とため息をついた。
炎が消えた。
まず目についたのは、突きだした腕だった。
団子状に丸められた黒い塊から、二本の腕が垂れ下がっていた。
よくよく見れば、手だけではない、表面に浮かぶのは体幹、足、顔、内臓……それは一体分の人体で構成されているのが見て取れた。
人体を荒くミキサーにかけて、丸めたようなでたらめの構造だった。
どこから発するのかキィキィと、声にならない声が聞こえている。
『かえせ』
わたしたちをかえせ。
いのちをかえせ。
すべてをかえせ。
「出来ない相談だな」
少女は言った。
「だが、私はおまえたちに負い目がない訳ではない……せめて綺麗に送ってやる」
無数の黒団子が少女目掛け飛び付いた。
少女の体に団子からそよいだ『鞭』が巻き付く。
ざらざらの表面のそれは少女の衣服に潜り込み肉を削り取る。
大量の赤い血が飛沫き、衣服を朱に染めていく。
少女は瞬く間に全身の肉という肉を奪われた。
軋む音を立て、白い骨を剥き出しにした少女の体が地面に沈む。
黒団子たちがキイキイとまた耳障りな音を立てた。
その音はどこか歓喜に震えるような色を滲み出している。
「まったく」
猫は呆れたように言う。
「一度やられてやる事になにか意味があるのかい?」
「そう言うな、ソウルソウド」
声は倒れた少女の残骸から聞こえた。
その声を震わす声帯など無いというのに、声はハッキリと聞こえていた。
「心残りは少ない方がいいだろう?」
猫は心底呆れかえっているようであった。
「絶望を深める、の間違いじゃないか」
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAA
少女の残骸が震えた。
長く短く、高く低く、声が長く尾を引いている。
人が発する事が出来るのは、一つの音節だけである。
しかし少女から聞こえるのは、ダビングしたかのような和音だった。
「癒しのアコルテか。基本の基だね」
猫が言った。
声と同時にじわりと染みだしてくるものがある。
少女の体から闇が染み、あたりを浸食しているのだ。
黒団子たちが、その闇に怯えたように後退る。
闇を本能的に恐れる人であった頃の記憶が、原始の魂の記憶が、異質な闇を怯えさせるのである。
……だが、それだけだろうか?
迷い魂を怯えさせるのは、本能が恐れる闇だけなのだろうか?
少女は闇を纏った……彼女の剥き出しの骨に筋肉の繊維が巻き付き、皮膚がはる。
本来のアコルテには、肉体を再生させる程の威力はない。
約束したのだ、その為に今自分は生きているのだから。
『それ』は途方も無い『狂気』であった。
少女は狂気をもって自身の『個』を瓦解することなく持ち続け、その狂気の片鱗が迷い魂を怯えさせているのだった。
『イノチヨ』
突然アコルテが変調した。
音律であったアコルテが、音言に変わったのだ。
『命よ(イノチヨ)、その限りある命よ、日は落ち、そしてまた昇り、命の連鎖は悠遠に続いていく……』
この少女程命を軽んじている存在など無いというのに、少女はその可憐な唇で癒しを、祈りを捧ぐ。
少女がその繊手を遠くへと差し出した。
ぽんと、黒団子の一つが光の粒子となって弾けた。
光の粒は少女の手に吸い込まれて行く。
「せめて……綺麗に送ってやる……」
唇はそう紡いでいた。
いま、あなたの声が聞きたい。
気が付いたら真っ白な天井を見ていた。
不思議となにも音が聞こえなかった。
視線と移すとカーテンが風に揺れている。
心地よい爽やかな風が室内に流れ込んでくる。
カーテンが風に揺らぐ音も、小鳥のさえずりも、なんの音も聞こえない無音の世界。
聴力を失ってしまったのだろうか、そんな思いに囚われる。
なにか果てのない夢を見ていたような気がする。
膨大な時間をただひたすらに、なにかを追い求めているような……。
ふと自分が泣いている事に気が付いた。
ほろほろと涙がこぼれ落ちる。
(ここはどこだ、俺はなんで……)
岩石鉄雄は涙を拭おうとして、刹那走った激痛に呻いた。
俺は、どうして……。
なぜ白い天井を見上げていたのかも、鉄雄にはわからなかった。
身動ぎする度、指一本動かす度、呻く度、ただそれだけで痛みは生まれ鉄雄を苛んでいく。
「生きているから痛いんだよ」
不意に耳朶を打つ、声。
それは柔らかで穏和な声だった。
ああ、そうだ。俺は生きている……。
鉄雄は痛みに閉じていた瞼を開いた。
風に揺れるカーテンの傍に、一人の少年が立っていた。
窓の外を眺めている。
窓から差し込む木漏れ日に、少年の面差しが浮かび上がった。
涼やかな印象の、見た事もない少年だった。
やがて彼は踵を返すとベッド脇にやってきて、鉄雄の顔を覗き込む。
(近い……)
息がかかる程近く、少年は顔を寄せてきてこう言った。
「僕が見える?」
なにを言っている、現にこうして目の前にいるではないか。
少年は鉄雄の答えを待っているようでもある。
(どうでもいいから、近いのやめてくれないかな……)
鉄雄は眉をひそめると、多分少年が待っている『言葉』をようやく吐きだした。
「みえ……る」
「うん、そうか。うん」
不思議だ、少年の発する声がブロック状の塊になって見える。
ブロックは少年から発せられると、すぐに消えてしまった。
少年にあのブロックはみえているのだろうか、少年は姿勢をまっすぐにし、鉄雄から顔を離すと嬉しそうに笑った。
その笑みが妙にしゃくに障る。
こっちはこんなに痛いってのに!
そう言葉に出そうとしたが、押し寄せてきた痛みに、言葉は消えていく。
「僕はずっと待っていたんだ、君の事。こうして目覚めてくれる事をね」
瞼を伏せ、やはり少年は笑っていた。
「僕はずっと君の中にいたんだ……そして待っていた。君にたどり着くまで何人もの人間の魂の中で移ろいながら僕は待っていた……」
少年の紡ぐ言葉がブロック状に現れた。
あのブロックはなんなのだろう、鉄雄は不思議にそれを見る。
少年は鉄雄の胸に手を当てた。
徐々にその姿が消えていく。
「……な、に!?」
「僕が見えるってことは、君の中で眠っていた因子が目覚めたって事。まあこれも運命だと思って付き合ってね」
「なに……を、言っている……」
「今は死ぬ程痛いだろうけど、大丈夫。君は死なないよ、僕が保証する。だからほんの少し君の力を貸して欲しい」
相変わらず少年の笑みは涼やかだった。
「おまえ、だれ……」
鉄雄は辛うじて喉の奥から絞り出した。
「祐介、だよ」
少年はそれだけを鉄雄の耳朶に残して消えた。
次に鉄雄が目覚めたのは、何か断続的に感じる振動で揺すぶり起こされたからだった。
「……うるさい……」
それが鉄雄の第一声だった。
ブロック状の何かが目の前を掠めていくのが見えた。
それが何なのか、鉄雄にはわからない。
「……おくん、聞こえるの?」
声の形にブロックが形成し、振動を生み、やがてブロックは煙のように消えた。
ブロックが現れた方向に目を遣ると、人が立っていた。
女性で白い衣服に身を包んでいる。
「鉄雄君、聞こえる?」
女性の口から、ブロックが飛び出した。
振動が鉄雄を揺さぶる。
まるで声の波動だ。
「……ここ、どこだ……」
女性の口から次々に現れるブロックを不思議に眺めながら、鉄雄は目を瞬かせた。
交通事故に遭ったのだと、女性看護師が呼んだ医師に説明された。
一命は取り留めたものの、意識不明の状態が一ヶ月ほど続いていたんだよ、とその医師は言った。
医師が説明に言葉を紡ぐ度、またあのブロック状の波動が現れては消えた。
しばらくして母が息せき切って現れて、鉄雄に取り縋って泣いた。
母が心底鉄雄が陥った状態に心を痛めていた事を、母から発せられる声の波動で知った。
鉄雄はそれから奇跡的な回復をみせ、数週間で病院を退院していた。
傷は治っても、声の波動は見え続けた。
嘘をつくと声の波動は真っ黒に染まる。
そして世の中があまりにも嘘で塗り固められている事に鉄雄は驚いた。
交通事故に遭う前の鉄雄は、こんな声の波動は見えなかった。
鉄雄は自分の世界が変わっていくのを感じていた。
自室のベッドで寝ころびながら、鉄雄はぼうっと天井を眺めていた。
「こんなの見えなくていい……いらねーよ……」
鉄雄は独語した、嘘なんか見えなくていい。
真っ黒の人間なんて見たくはない。
ふと涼やかな笑みを思い出した。
病室で立っていた少年、鉄雄の胸に手を当て消えた少年。
あいつは黒く見えなかった。
鉄雄は胸に手を遣った。
「祐介」
現か、夢か、判然としなかったが、少なくともあの少年に嘘はなかったように思う。
ただあの笑みはどこか悲しげであった。
明日は二ヶ月ぶりの登校だ、鉄雄は目をつぶり体を丸め息を吐いた。
* *
何の変哲もない朝がやってきた。
鉄雄だけが変わって、あとはなにも変わってない朝。
爽やかな夏の風が頬を撫でるが、鉄雄の心は晴れなかった。
鉄雄が通う白稜学園は偏差値が高い訳でも低い訳でもなく、ごくごく平均的な学力の生徒が通う学園だ。
だが、この学園は実は特別であった。
白稜学園に通っているというと、みな一様に「ああ、あの……!」という。
そして次の文句は「よくあそこの学校を選んだね」である。
鉄雄にしてみれば、白稜学園を選んだのに特に理由がある訳ではなかった。
ただ鉄雄の偏差値で入れて、家から一番近くの学校を選んだ、それだけである。
しかし白稜学園には、学園を特別たらしめている事象があったのだ。
「鉄雄!」
後から声をかけてくる女の子がいる。
振り向かなくても足音でわかる、彼女は幼馴染みの『麻奈辺律』だ。
「んもう、声をかけてくれたっていいじゃない」
息を切らせ、鉄雄と並んだ律は、ほんの少し頬を膨らませてすねたように言う。
一人で登校したい気分だった、とは言えない。
律は昔から繊細で傷つき易い女の子だったから、鉄雄は素直に律に謝った。
「ああ、ごめんな。なんていうか登校するんの久しぶりだろ? なんとなく、な……」
鉄雄は言葉を濁して笑った。
そんな鉄雄の横顔を覗き込んで、律は「ふぅん」と納得したような、そうでないような声を発した。
声の波動がブロックになって飛んでいく。
「……心配したんだよ……?」
律は震える声で言った。
声の波動も震えていた。
「私、本当に心配したんだからね……」
「律……」
鉄雄はなにも言えなかった。
死にかけ、心配をかけたのは事実だった。
母の話では律は何度も病院に足を運んでくれたらしい。
そんな律にお礼らしいお礼を今まで言えてなかった。
「あー……あのな、律」
律の視線が上がり、鉄雄を捕らえる。
「心配かけて悪かったよ、ホントごめん」
「……」
律が薄く微笑んだ。
「いいよ、反省してるんだったらもういいの。けど約束してよね、もう事故には遭わないで」
「てーか、俺のはもらい事故……」
「約束して」
「はぁい……」
ふふふ、と律が笑った。
律の声の波動は、少し元気を取り戻したように見えた。
その時だった、湿った空気が足許をさらって行く。
「あ、そろそろ雨ね」
辺りを見渡して律が言う。
このゆるい坂を登り切ると、見えてくる灰色の雨雲。
白稜学園を特別たらしめている不可思議な事象。
ぽつ、ぽつと雨が降り出した。
制服は完全防水撥水加工、どうせ学園に着くまでの数十メートルの距離。
いちいち傘をさすのも面倒だという、鉄雄の様な生徒がいる一方で、雨を避けようと傘をさす女生徒や、雨を感知すると自動的に襟からフードがでて、頭部を覆う生徒もいる。
律はカバンからピンク色の棒を取り出した。
棒の一方には直径が五センチほどの円盤が付いている、もう一方を伸ばして頭上に掲げると、棒の先からビニール状の膜が張り、傘になった。
白稜学園に近づくにつれ、ぱたぱたと律の傘へ雨粒が落ち跳ねた。
律は鉄雄の方へ、傘を傾けた。
鉄雄は律の傘の中へ頭をつっこんだ。
律は笑い声を上げた。
この黒い雨雲と雨、そして白稜学園には深い因縁があった。
『ホワイトメルト事件』である。
『ホワイトメルト事件』は、百年前にこの地で起こった大災害だ。
この白稜学園を中心とした、直径百キロメートルの大地が瞬時に蒸発してしまったのだ。
そのあとには人も家も何も残らず、あるのは白い灰ばかりだった。
0地点である白稜学園と僅かな市街だけが残り、この事象を目撃した人の「白い光を見た」という証言からホワイトメルトと名付けられた……と言うのがこの事件のあらましだ。
一度白い闇に忽然と消えた街は、今では見事に復興を遂げている。
人々の心に刻まれたホワイトメルトの恐怖は、消えた街の復興という形で消し去られた。
毎年七月十五日に白稜学園で行われる慰霊祭のみが、ホワイトメルトの恐怖を語られる場になっている。
だがそうまでしても消えないホワイトメルトの痕跡が、白稜学園の『雨』だった。
『ホワイトメルト事件』を起こって以来、白稜学園にはいつも雨が降り注いでいる。
気象現象をまるで無視して雨雲は常に白稜学園の真上に居座り、春も、夏も、秋も、冬も、やむことなく雨を降らし続けていた。
高名な気象学者や大学の教授がこの白稜学園にだけ雨を降らし続けている雨雲の調査をしたが、結局「解析不能」だった。
白稜学園の雨は、今では観光バスまで止まるようになってしまった、白稜町の名物だ。
今日もまた学校のフェンスの外に観光バスが止るだろうし、街中に行けば『雨降り饅頭』が名物として売られている。
「鉄雄、ねえ、鉄雄。聞いてる?」
律が鉄雄の背中を叩いた。
「あ、ああごめん、聞いてなかった」
「鉄雄さっきからなんかヘン、ボーッとしているよ。大丈夫?」
昇降口から校内に入り、階段を上がろうとした鉄雄に律が言う。
「ほんと、もう大丈夫だって。心配すんなよ」
「ならいいけど……」
律はうつむいて言った。
「律は心配性だなぁ、本当に大丈夫だって」
「……そうね」
律はうつむいていた顔を上げた。
「あ、あのさ、鉄雄!」
声の波動は、妙にピーキーに見えた。
「ん? なに」
「来週の日曜日暇かな、私と一緒に、映画観に行かない?」
律の声の波動が、変化している。。
彼女の気持ちが、手にとるようにわかった。
鉄雄の心臓が跳ね上がる、律、律、おまえ……。
「あ、あのさ、ごめん、その日はちょっと用事あるんだ」
思わず鉄雄はこう答えていた。
用事があるなんて嘘だ、ただ動揺してどう答えればいいのかわからなかった。
律のこんなに明らかにわかる好意を突き付けられて、平常でいろと言う方が無理だ。
鉄雄は階段の踊り場で、足踏みした。
「そう、残念……」
落胆の色を刷いて、律の声の波動が消えていく。
「ごめん、律。次の機会にな」
「……うん、また次ね」
(ヤバイ、俺、これじゃすっげーヘタレじゃねーか)
律が隣の教室に入っていくのを見送って、鉄雄は自分の頭をこづいた。
なんでこんなものが見えるようになったんだろう。
鉄雄は声の波動の事をぼんやりと考えていた。
あの少年が現れてからだ、これが見えるようになったのは。
目の前で授業をしている教師の声の波動は、授業をする事になんの熱意も感じられない。
ただ日々の糧を得る為に教壇に立っている、という事すら透けて見えた。
鉄雄はため息をつく。
(こんなもの見えなくていいのに……)
胸に手をやり、鉄雄は口の中で呟いた。
律の声の波動にはハッキリとした鉄雄への好意が見える。
鉄雄だって律が好きだ、しかしそれは幼馴染みとして、よき友人としての好意だった。
律の想いには応えられない自分を感じる。
「違うんだ、律、違うんだよ……」
あまり悩まないのは、自分の良いところだと思っている。
けれど、それではどうしてもこの問題は片づかない。
事故後初登校一日目で、どうしてこんな問題に直面しているのか。
(笑い事じゃないよ、まったく)
鉄雄は教師のやる気なさげな声を聞きながら、教室の天井を仰いだ。
「なーなー鉄雄。事故った時どうだった。車にぶつかった瞬間さー」
弁当を手に、鉄雄の机にやってきたのはクラスメイトの森崎だった。
森崎は鉄雄の前の椅子に座り、弁当の包みを開ける。
「おまえのデリカシーの無さには感服しますよ……」
森崎の声の波動には一辺の曇りはなく、ただ純粋に己の好奇心を満たすためだけに鉄雄に話しかけているのだった。
「頭打ったんだろ、記憶喪失とかサーなかったの? たとえば事故現場にいた女の子と心が入れ替わるとか……はっ! まさかおまえは鉄雄じゃない……!?」
「ないない」
鉄雄は手を振り鞄の中から弁当を取りだした。
「おまえの妄想癖にはホント感服します……なんだよ、俺じゃないって」
森崎は唐揚げを口に放り込みながら、「だからさーおまえはもうおまえじゃないんだよ」と続けた。
「意味がよくわからねーな」
「たとえば変な力に目覚めた、とか!」
(……時々核心をつくな、こいつ)
「手からかぎ爪が飛び出すとか!」
「ないない」
(どこのダークヒーローだよ……)
「なんだよ、おまえ交通事故にあったんだろ。特殊能力の一つや二つ獲得したっていいじゃんか」
森崎はそう言って箸を鉄雄に突き付けた。
「へいへい、おまえはそういう奴だよな……ラノベの読み過ぎ、わかっていたんだ、俺は」
鉄雄は笑って言った。
ただ今は森崎の裏表ない発言がありがたかった。
「なんだよ、友達だろ~俺たち。本当の事話せよ、なあ」
へらっと笑う森崎に、鉄雄もへらっと笑い返し、卵焼きを口の中に放り込んだ。
その時だった、教室の放送用スピーカーが僅かにハウリングした。
軽快な音楽が流れる。
『みなさん、こんにちは。七月一日、お昼の校内放送をはじめます』
鉄雄は思わずびくっと首をすくめた。
「……!」
「お、どうしたよ、鉄雄」
「この、声っ……」
『今日のニュースをお伝えします。剣道部が地区予選を突破、県大会に駒を進めました』
カタン、と鉄雄は箸を取り落とした。
「鉄雄?」
森崎は怪訝そうな顔で鉄雄を見ている。
鉄雄は耳を押さえた。
だが『声』は鉄雄の両手を貫通して、鼓膜を頭蓋を脳を震わせる。
『今日の新聞から。森林資源の枯渇について考える会が発足しました。活動のひとつとして植林のボランティアを募集しています』
「うぁっ……!」
どこまでも突き抜ける、強く透明な異質の声の波動。
教室全体いや、大地すら震わせるような、そんな感覚にさえ陥る。
「やめ、ろ……!」
鉄雄は苦悶し、『声』を絞り出した。
耳に流れ込んでくるこの『声』を鉄雄は拒否した。
ドッ、ドッ、っと心臓が脈打った。
米神の血管に血液がドクドクと流れ込んでいく。
『それでは皆さんの……』
「やめろっ!」
鉄雄が叫んだ途端、稲光が走り、教室の蛍光灯が全て割れた。
悲鳴が重なって聞こえたような気がする。
鉄雄は意識が遠くなるのを感じていた。
気が付くと白い天井を見上げていた。
(ここ、どこ……)
思い出そうにも前後の記憶がハッキリしない。
(前にもあったような気がするな、このシチュエーション……)
遠い昔の気もするし、つい最近の出来事だったような気がする。
ふと思い出したのは涼やかな横顔だ。
(そうだ、あの時は『祐介』が現れたんだっけ……)
無遠慮とも言える距離まで顔を寄せてきた『祐介』を思い出した。
なんとなく、視線を窓辺へ遣った。
『祐介』がまたそこに居るような気がしたからだ。
心臓が跳ね上がった。
長い黒髪が目に入った。
着ている制服は白稜学園の女子のものだ。
身長は鉄雄ほどあるかもしれない、女子にしては長身だ。
窓から吹く風になびく髪はさらさらと音を立てるような錯覚を起こす程、つややかな黒だった。
ドクッ! と心臓が脈打つ。
「起きなくていいぞ」
黒髪の主は振り向かずにそう言った。
その声の波動は揺るぎない程まっすぐで、強い意志をたたえていた。
誰よりも強く、孤高であり、そして煌めいている声。
「おまえ、だれ……」
「私に名を聞くのなら貴様がまず名乗れ、それが礼儀というものだ」
「そうなのか……?」
「そうだ」
鉄雄はしばらく考えた。
それは一瞬だったような気もするし、しばらく考え込んだような気もする。
ただあまり考えはまとまらなかった。
「岩石鉄雄」
鉄雄はなにも考えずに言った。
「あんたは?」
黒髪が振り返った。
時が止まる……。
鉄雄は息をのんだ。
それは人ならざる白皙の美貌だった。
細く整えられた眉、強い眼差し、すっと通った鼻梁、薄く紅い唇。
しかし人の目を惹き付けるような美貌は、ある一点の要因で異様とも言える様に転じていた。
それは左顔面を覆う眼帯である。
黒地に南国の花をあしらった細かな刺繍は実に見事であったが、この場の雰囲気にはそぐわないような気がした。
それにしてもだ、と鉄雄は思った。
視力を失っているのか、それともひどい怪我の痕跡が残っているのかもしれない。
そんな想像力を一瞬にしてかき立てられる。
右半分の完璧な美貌と、左半分の沈黙。
「私は泉コウ」
彼女は言った。
「ぐっ……!」
直接向けられた声の波動が鉄雄を突き抜けた。
「また中途半端に因子に目覚めたものだな、魂たちが騒ぐ訳だ」
泉の声にガンガンと頭が痛み、心臓が早鐘を打つ。
耳を押さえるが、声はお構いなしに突き抜けてくる。
全身にじっとりとした汗をかき、鉄雄は悶絶した。
カツカツと靴の音を床に響かせ、泉コウが歩み寄ってくる。
「この世で最も純度の高い韻律を知っているか」
「しら……ねえ……」
限界だった、この声は強すぎる。
不意に顎を掴まれた。
強い力だった、振りほどくにも振りほどけない程の力だ。
(なんつーバカ力だよ、オイっ)
もがく鉄雄は、泉の右目に射貫かれた。
次の瞬間、口を塞がれた。
泉の薄い唇が、鉄雄の口に重なる。
「…………!」
唇は冷たく、そして柔らかであった。
なにがどうなっているのかよくわからない。
程なくして離れた唇に、鉄雄は口元を拭って大きく息をついた。
「……な……なんだってんだよ、おまえ……!」
「……すぐにわかる……」
泉は口の端を吊り上げ笑った。
ぞっとするような氷の微笑だった。
カツカツと靴が鳴り、泉は部屋の扉を開けた。
「岩石、明日の昼休みは放送室に来い」
「なんだって……?」
「必ず来い」
泉の姿が扉の向こうに消えた。