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2章 1

 私の死体は、赤黒い液体に包まれている。

 顔も赤い。首も赤い。手も足も赤い。赤くないところはない。床も赤い。壁も赤い。私の死体は、今や部屋と一体化している。私の死体はどこだろう。私の死体でないのはどこだろう。

 この血液は、私だろうか。

 この血のにおいのする空気は、私だろうか。

 私の境界は、いったいどこに行ってしまったのだろう。

 私が私の体で生きていたころ、私はそういうことを考えたことがあった。私はどこまで私なのか。私の体の範囲が私なのだろう。では、細胞が死んで、表皮にのこっている、いわゆる角質と呼ばれるものは、私の一部だろうか。私のからだにくっついているうちは私なのだろうか。では汗は。涙は。あれはどこまで私なのか。分泌されたものは私ではないのだろうか。それならば、器官の中にあるものが私なのか。ならば食事はどうだろう。胃に入れたものは私のではないが、あれは私なのだろうか。

 わからない。いくら考えてもわからない。

 私は、私の死体を見下ろしている。ならば私は、この私の体は、わたしのものではないのだろう。私の意識はいまや、この体には無いのだから。

 私は部屋を見回した。窓際のキャビネットには、写真立てがあった。いまや赤黒く濡れてしまったそれは、家族との写真を撮ったものだった。札幌に就職が決まった時、函館の両親は喜んでくれた。父は難しい顔をしていたし、最後の最後まで、女の一人暮らしはどうだとか、都会はどうだとか言って、私の札幌行きを反対していた。母は泣いていた。父が本当はとても喜んでいたということを、母から電話で聞かされた。今年の父の日には、少ない給料から貯めたタイピンをプレゼントした。気恥かしくて郵送で送りつけただけだった。母は、父が包装を開けることなく、そのまま神棚に飾っていると笑っていた。お盆に帰省したときには、神棚にそれはなかった。父が隠したのだと、やはり母から聞いた。母とは週に2度は電話をするが、父はそのたびに、聞き耳を立てているそうだ。

 私は死んでしまった。

 二人はきっと悲しむだろう。とても、とても悲しむだろう。父は、やはり札幌に行かせなければよかったと言うかもしれない。母はただ泣きじゃくって、寝室から出てこないかもしれない。一人っ子ということもあり、両親に愛されていたという自覚が、私にはある。二人は立ち直れるだろうか。この部屋を見ることはないだろうが、私が殺されたと聞いて、ショックで卒倒したりしないだろうか。

 あるいは職場の友人たち。一人で札幌はさみしいだろうと、入社一年目はどこに行くにも私を誘ってくれた。いまや後輩もできて、地方から来る新入社員を気遣う立場にもなったが、当時の同期たちや先輩たちとは今も交流があった。私が胃潰瘍で入院した時。事故で左足を骨折した時。彼らはとても心配してくれた。私に友人は少なかったが、そのぶん彼ら彼女らとは濃い時間を過ごした。

 この死体はもう、彼らと同じ時間を過ごすことができない。

 この空っぽになった私の体は、車を運転したりおしゃべりをしたり、おいしい食事をしたり、ときには泣いてみたり、そういう大切な時間を過ごすことはできない。

 この死体はもう、空っぽだから。

 私はもう泣くことができない。私の代わりに、誰かが泣いてくれるだろうか。


 私は彼女をやさしく包み込み、深い深い、黒い液体に沈めた。

 大切な彼女を、黒が蠢く腐海に同化させた。

 どろどろと腐っていく黒は、彼女を飲み込んで、そして静かになった。もう何も聞こえない。

 私のかわいい子供たちは、何もいわず、ただひたすらに黒く蠢いている。

 私の意志も、彼らと同化することを望んていた。夥しい黒。

 私の意志は、意識は、もう確立することが難しい。そこまで来てしまった。

 私は死体だ。私こそが、腐った死体だ。

 リビングデットは、いつまでダンスを踊っていられるのだろう。

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