1章 6
小松直孝は器用である。
たいていのことは人並み以上にこなすし、特に手先の器用さでは、ちょっとしたものだろう。涼子が知っているだけでも、道具を使わずにコインを消したり、何もないところからトランプを出現させることは、どうやら簡単にできるようだ。ペン回しも見たことがある。涼子の得意技の一つは、スマートフォンを使ってメールを早く打つことだが、たぶん彼には勝てないだろう。
また、外交的なことも彼の特徴のひとつだ。彼はすぐに、誰とでも仲良くなれる。この「誰とでも」というのがとても難しい。単に明るくていいヤツは、交友関係が限られる。相手に合わせて性格や話題、あるいは距離感を適度に保つことができるのだ。彼はモテる。非常にモテる。彼にまったく、これっぽっちも好意を抱かない女性は、たぶんほとんどいないだろう。顔は悪くない。どこか中性的で、まつげが長い。髪と瞳の色が明るいのが、兄と対照的である。すらりとした長身で、色白。しかし、所作のひとつひとつがしっかりしていて、なよなよしている印象は無い。指が長い。声が低い。
ごく近しい人間に言わせると、彼が一人で夕食を食べることはほとんどない。いつも「友人と」出かけて、しばらく連絡がつかない。幸恵は以前、ちょっとしたレストランで彼をみかけたことがあると言っていたが、いったい誰と出かけていたのだろうか。
がちり、と重厚な音がした。直孝はゆっくり立ち上がると、膝のほこりを払った。「開いたよ」
「流石ね。久々に見たけれど、器用なものね」
直孝は微笑を崩さないまま、道具を集めて胸ポケットに刺した。涼子にはそう見えたが、よく見ると、束ねただけの道具は、いつの間にかボールペンになっていた。彼は道具を、何かに偽装して持ち歩いている。
「タイピングとかすごく早そう」涼子は小声でつぶやく。
「人並みだよ。三浦は早い。かな打ちだしな」
「和風」涼子は吹き出す。「なんか、似合ってる。合理的とか言いそう」
「広いわね」幸恵はあたりを見回す。
屋上といっても,フェンスも何もない,だだっぴろい空間がそこにあるだけだった。涼子たちが出てきた小さな構造以外には何もない。たぶん、何も落ちていないし誰も来ていないだろう、と涼子は思った。ドアを開けるのにも随分と手間がかかったのだ。屋上への階段にたどり着くまでに、テレビをどけ足が折れた椅子をどけ、錆び尽くしたドアノブを回すのは簡単ではない。おまけに。
「ここで何かする気にはならないよな」直孝は首を傾げる。
向かいのビルは、このマンションよりも4階ほど高く,常夜灯の光は涼子たちを照らしていた。とても明るいとは言い難いが、人が隠れたりするのは難しいだろう。そもそも隠れるようなところがない。
「頑張ってここに来たとして、何をしたんでしょうか」涼子は質問する。「気球は飛ばせそうですけど」
「犯人が階段を上ってここに来たとは考えにくいでしょうね。とすると、向かいのビルからこっちにわたってきて、あるいは最上階の部屋のベランダからここにきて」幸恵は静かに、しかし確かな足取りで、縁に歩いてゆく。「ここらへんから、ロープか何かを垂らして、死体の輸送を助けた、といったところかしら」
「ロープをかけるものがないな。あ、いや、この部屋があるか」探偵の弟は、ドアをあごで示す。「ですが、運ぶ方法はあまり重要じゃないと思います」
「というと?」
「どうも、涼子ちゃんを除いて、俺たちは可能かどうか、どうやったかを考えがちなところがある」直孝は口角を吊り上げる。「でも、重要なのは、どうしてやったかだ。リスクを伴う行為なんだから、やる理由があったはずなんだ。意味もなく人を殺したりしないのは、恐ろしいからだけじゃない。ばれないようにやるのが大変で疲れるからだ。もし楽ちんに殺せて捕まらないなら、みんなやるだろう」
「そんなことないと思うけど」涼子は苦笑する、しかし彼の意見はまっとうだ。
「私もそう思います」幸恵はその場に座り込むと、地上を見下ろした。「屋上から見たら、雰囲気がわかると思ったんです。もちろん経路も考えてはいました」彼女の声は、とても静かだが、よく通る。「こんなにビルがたくさんあって、大きい道路がすぐそこにある。人の出入りも大きい、本当に大きいビル。こんなところで人を・・・おそらくは殺してしまうという心理状態は、きっと、人殺しを恐れていません。なんとも思っていない・・・」幸恵の声は冷静そのものだった。「ここに住んでいる多くの人が、当たり前にご飯を作ったりお風呂に入ったり、テレビを楽しんだり、お酒を飲んだり、歯を磨いたり枕を抱いて寝転がったり、宿題をしたりメールを打ったりしているのと同じように、当たり前に人を殺す、そういう精神です」
私にはよくわかります。幸恵はそうつぶやいた。
直孝は胸元から煙草を取り出すと、ターボライターで火をつけた。そして涼子にウインクした。彼は何も言わずに屋上を去った。
涼子は幸恵にそっと近づき、その背に触れた。幸恵は少し微笑んで、ありがとうと言った。
階段を下りると、探偵の弟の手元には缶コーヒーが握られていた。「少し寒かったね」彼は言うと、さて、どうしようか、と幸恵に微笑んだ。
もう少し調べましょう、と幸恵は答えた。




