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1章 5

 役に立たない探偵は、いつも椅子に横たわっている。

 横たわるという言葉は、彼のためにあるのかもしれない。珍しく探偵が留守の間に彼の椅子に座ってみたことがある。そのときまでわからなかったが、椅子は安そうなワークチェアだった。背もたれがメッシュになっている。できる限り威厳たっぷりに座ろうとした涼子は悲鳴をあげてしまった。背もたれが異常に傾くのだ。少し体重をかけただけで、簡単に地面と平行になってしまう。これは、もともとこういう椅子だったのだろうか。そうは考えられない。ワークチェアという名前の道具が、こんな怠惰な姿勢を推奨するはずがない。だとしたら、改造したのか、それとも「育てた」のか。おそらく後者だろう。とすると、この椅子は相当に年季が入っていることになる。

 涼子はR大学の2年正、若気の最高潮の女子大生である。札幌市内に一人暮らしを始めて一年と少し。あるきっかけで探偵事務所でアルバイトをするようになって、およそ半年ほどだろうか。お金に困っているわけでもなく、探偵に恩義があるわけでもない涼子が事務所に通うのには、いくつかの理由があった。事務所は居心地がいい。コーヒーは、自分で淹れるぶんにはタダだし、部屋は清潔で広いうえに、とてもやわらかいソファーがある。用事がなくても読書をするには最高の場所だ。次に、ほとんど同年代の探偵助手とのおしゃべりが楽しい。H大学4年の佐久間幸恵をはじめ、同じくH大2年の探偵の弟・小松直孝、そして直孝の親友であるR大学の2年、三浦隆寛。個性的な探偵助手の面々は、集まるともなく集まって、与太話を繰り広げる。話題の提供者は主に直孝と幸恵で、涼子は盛り上げ役、三浦は黙って聞いていることが多い。彼らの話題は幅広く、また時として不謹慎になる。涼子が無類のミステリー好きということもあり、そういった話題が中心になるのだ。どこどこで殺人事件、過去の歴史的な虐殺事件。探偵助手たちは時に政治的な観点から、時に心理的な観点から、そういった事柄を考察していく。直孝と幸恵はそれぞれ経済学部と人文学部で、経済学と心理学に明るい。涼子は自分が何学部なのか正確にはわからないし(わすかにカタカナが含まれていた記憶がある)、三浦の学部も知らない。しかし、三浦が何かを話すときは、どうしてそんなことを知っているか、と思ってしまうことが多い。例えば警察内部の事情。例えば過去の事件における犯人像や目星。おそらく、専門分野も持たずに喋っているのは涼子くらいのものだろう。その涼子の思考は、幸恵曰く「ワームホール」らしい。意味を聞くと、どこに出るかわからない穴。たぶん褒められてはいないが、幸恵のことだからけなしてもいない、率直な感想なのだろう。

 ミステリー好きがわくわくするような話が聞ける、これが3つ目の理由。4つ目は、たまに、ごくたまに、探偵助手らと探偵らしい仕事をするのが楽しいのだ

。素行調査が主だが、ときには泥棒まがいのことまでする。涼子を含め全員が、そこそこ運動神経がよいこともあり、スポーツ大会の助っ人に呼ばれたこともある。要するになんでも屋だが、それが楽しかったりするのだ。

 4人が仕事をしているときであさえ、探偵は一日中、椅子の上で平らになっている。

 どうやって暮らしているのか、涼子は直孝に聞いてみたことがある。俺もよく知らないけれど、と直孝は苦笑した。「たまにふらっとご飯をたべにいっているみたい。煙草を吸うこともある。でも、たいてい寝ているかな」。寝ている探偵に話しかけると、必ず返答があるらしい。不眠症なのだろうか。それにしてはよく寝ている。もしかしたら、睡眠を分散させているのかもしれない。脳の半分くらいが起きていて、残りは寝ている。それをずうっとやっていて、だから寝ていて起きている。たしか、そういう動物がいた気がする。脳半球ごとに睡眠と覚醒を交替しているとか・・・イルカだっただろうか。

 探偵が自ら出かけることは稀だが、会話をすることはできる。四人で話している間、彼は無言だが、幸恵が話を振ると答えるから話を聞いてはいるらしい。彼の話は非常に突飛で、生産性がないことがほとんどだ。以前、涼子が読んでいるミステリー小説の中に、密室殺人を扱ったものがあった。それなりに整理して密室の状況を話し、さあトリックはと問いかけた。幸恵と直孝は正解、三浦は正解したうえで涼子の説明不足を指摘した。探偵の答えはこうだった。「壁をとおりぬければいい」。涼子はため息をついた。幸恵は何かの比喩ではないかと発言した。三浦と直孝は何も言わなかった。探偵は続ける。「比喩ではないよ。壁を通り抜けられる確率は0ではない」。そもそもナイフがどこかから飛んできて壁を通り抜けて刺さったのかもしれないけど、と付け加えた。

 幸恵を目で促すと、彼女は苦笑して説明した。「物は、所詮は分子の結合だから・・・。たまたますり抜ける確率は、0ではないけれど」。

「どれくらいですか?」

「さあ・・・0.1の・・・何万乗・・・では足りないわ、きっと。0.1の一兆乗の一兆乗くらいかもしれない」彼女は困ったように笑った。

 探偵は役に立たない。涼子は改めて、黒装の探偵の評価をした。



「それで、どこに入ろうか」探偵の弟は、にこにこして問いかける。

「まずは屋上です」幸恵が答える。

「気球で脱出したかもしれませんしね」涼子はうんうんとうなずく。



 探偵事務所に足が向かう、もう一つの理由。

 それは父と母に会うためだ。

 両親が死んだら、すぐに会わせてもらう。そのために、涼子は探偵助手をしている。涼子はやさしい両親が大好きだ。だから涼子は大好きな両親に、早く死んではくれないだろうかと思っている。

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