1章 3
役に立たない探偵は、相変わらず椅子の上で床と水平になっていた。こちらから問いかけない限り、どんな反応もしないと決めてかかっているのかもしれない。笹島高貴はこの男が嫌いだった。いや、嫌いというのは言い過ぎかもしれない。もちろんそれは、実は彼のことを認めているとか、少しばかり好意があるとか、そういうことではない。嫌いだという評価をするのにももったいないと思っているからだ。彼に対して、何かの評価をしたり、つまりは存在を認めた時点で、それがとても無駄なことのように思えるのだ。
無駄の権化のような男なのだ、この探偵は。
「いくつか確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」おずおずと手をあげたのは、こちらは役に立つ探偵助手、佐久間幸恵だった。「もしも私が聞いてもよろしければ、ですけれど」
笹島は探偵に相談事を持ってきたのだ。その場に居合わせた佐久間幸恵にも話をしてしまったのは、許されることではないだろう。しかしこれは初めてのことではない。笹島は探偵に話をすることで自分の頭を整理しようとしていて、探偵は聞くだけで何もしない。壁に話しているのと一緒だ。おまけに口の堅い、賢い助手にまで情報が共有できるのだ。得をすることはあっても損をすることはないはずだろう。
いくつかの吸殻が溜まった灰皿を、探偵机、探偵の足もとから奪うようにして手に取った笹島は、応接用のソファーに座り直し、足を組んだ。
「他言無用で」
「ペナルティはありますか?」幸恵が小首をかしげる。
「無いな」
「涼子さんや、三浦さん、小松さんにもお伝えするかもしれません」
「ここの一派になら構わない」
「わかりました」幸恵は深くうなずき、瞳を大きくすることで次を促した。何かを催促する顔だ。笹島は仕方なくうなずく。「それで質問は」
幸恵はいくつかの細かい質問をした。おそらく情報を整理しながら思考を進めているのだろうというのが見て取れた。彼女はH大学の学部4年生であり、今は卒論の真っただ中で忙しいはずだ。にも関わらず「アルバイト」にも顔を出していることから、相当に順調にことが進んでいるのだろう。いくらでも頭を使えるタイプらしい。こういうタイプは情報の整理が得意で、制限された条件から解を導き出すのに向いている。制限条件の中で問題を解く、例えば数学の問題や、論理パズルに才能がある。そして刑事向きでもある、と笹島は思う。
彼女の質問は、残された遺留品の状況や、自殺サイトや新興宗教などの捜査の進捗だった。笹島は正直に答えた。幸恵の質問は明らかに、彼女がある仮説を持っていることを示していた。仮説とはつまり、カルト的宗教による意図的な「消失失踪」である。
「該当する団体は今のところ見つかっていない。また、おそらくそういう類ではないだろうと見込まれている」笹島は煙草に火をつけながら答える。「全員のネット検索履歴を調べた。個人のPCや携帯等の情報端末はもとより、会社や学校の検索履歴もだ。また、検索履歴の消去がされていないことも確認した。交友関係も洗っているが、そういった噂話は聞いていない」
「では、あくまで第三者の意図的な犯行だと考えられるわけですね」
「自分で自分の手首を切って」笹島が吐いた紫煙は霧散してしまった。「猟奇的な部屋を作る。どうにか誰にも見られず部屋を脱出する。あとには血で染まった部屋と人体消失が残る。このこと自体が呪術的な意味を持つ儀式であり、不思議だと思われること自体が目的。それらが何かの形で被害者たちに伝達されていたと」
「と、思ったのですが、残念です」幸恵は困ったように微笑んだ。
「おそらくそれはないだろう。出血の量からも、生きた人間の単独行動とは思えない」
「血液はすべて自分のものですか?再生産しても間に合いませんか?」
鋭く、また面白い質問だ、と笹島は思う。特に二つ目の質問は、場合によってはイカれていると判断してもおかしくない。いや、実際、佐久間幸恵はいかれているのだ。灰皿に煙草を押し付け、笹島は答える。「おそらくすべて自分のものだ。再生産というのは、血を流してから止血して、それから食べ物を食べまくって血を作っても間に合わないのかという質問だな」
「そうです。荒唐無稽ですが、カルト的なことならばありえるかと・・・。それに、儀式的なもので、猟奇的で神秘的なことが起きていると思わせること自体が狙いだとしたら、ネットの履歴程度のことで足がつくことはありえません。ですからやはり、自殺・・・まだ死んでいるとは限りませんが・・・の可能性はあるかと思います」
「いや、それは無いな。一日で作られる血液の量がどれくらいかわからないが、少なくとも2リットルや3リットルは作られないだろう」
「どのように止血されたと思いますか?」幸恵はすぐに質問した。こういうところが賢い、と笹島は思う。彼女は一瞬で仮説を壊し、新たな仮説を構成したのだ。そしてその仮説を検証するための質問をすぐに投げかけることができる。
「特殊な止血剤は見つかっていない。血液の散布状態から、生きている状態で刃物を使ったわけではなさそうだ」
「血液だけですか?」
「いや、いろいろ見つかっている。極端な話、全部だな」
「全部というと・・・」幸恵は眉をひそめる。「脳漿や消化器の内容物もでしょうか」
「そういうケースもある」
「ますます、他殺でないというのは考えにくいですね」幸恵はうなずく。「警察も、それはわかっているのではないでしょうか」
「だが他殺と断定できない。死体と犯人が見つかっていないからだ」笹島は答える。
もちろん、ほとんどの刑事はばかばかしいと思っている。明らかに被害者は室内で著しい損傷を受けている。それにも関わらず他殺ではないという判断は明らかにおかしいのだ。
「ガスと水道の使用量はいかがでしたか?」幸恵が次の質問をした。その内容に、笹島は背筋がぞっとするのを感じた。
佐久間幸恵はサイコパスで、人殺しの家系。笹島は、ふうと息をつくと、また煙草に火をつけた。蛇の道は蛇。彼女は名案を思い付くかもしれない。




