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1章 1

 私は死体だ。

 有沢涼子が目覚まし時計を叩いたのは,ちょうど8時だった。

 彼女の住まいは最寄り駅まで徒歩五分。電車でR大学の最寄り駅までは20分弱,そこから5分程度の上り坂。移動時間は最短でも30分はかかる。一限の講義は八時四十五分だから,残り時間はわずか十五分だ。

 涼子の目覚まし時計は毎日8時に鳴る。もちろん彼女がセットしているからだ。十五分で顔を洗い歯を磨き,朝食を食べ着替えをし,申し訳程度に化粧を施して家を出ることは人間には不可能だ。では朝食を抜いてすっぴんならば間に合うかというと,これも不可能だ。まず,目覚まし時計を止めてから10分は布団から出られない。頭がぼうっとしていて,脳みそが自身の体を制御してくれているとは到底思えない。それは,自分の体が自分の体であると感じないばかりか,自身の脳であるとも感じない。体と心が交わらないのではなく,どちらもふわふわ浮いていて,地に足がつかない感じだ。

 寝ている間,私は死んでいるんじゃないかと,涼子は思う。目覚まし時計が魂を呼び戻し,死体が生体になる。

 死体が生体に戻りきらないから,体は死体のように重く,脳は死体のように冷たいのだろう。

 涼子は1限目の講義に間に合ったことがない。涼子の目覚ましは「物理的に間に合うはずの時間を知らせるもの」であって,起床を促すものではない。その証拠に,オレンジ色のフレームの上側に銀のベルが二つ並んだ古風な目覚ましは,ベッド脇のナイトテーブル,寝ながらにして手が届く位置に鎮座している。ほぼ毎日,自分のふがいなさを実感するためだけに手を伸ばすのだ。もちろん,もっと早く,例えば7時に目覚ましをセットすれば問題は解決するかもしれない。しかしそれはかもしれないだけで,7時に目を覚ますということは,素人が鉄棒で大車輪を決めるくらいに非常に可能性が低い,ほとんど不可能なことなのだ。

 しかし、今日この日に限っては、いつものように二度寝に突入するわけにはいかない。特別な用事があるのだ。ゆっくり体を起こすと、頭の奥が痛い。少しだけ、胸のあたりにいやな感覚。昨晩、隣の部屋の友人と深酒をしてしまったのだ。涼子は酒に酔わない体質だが、二日酔いや疲れは残っているらしく、しかしあれほど飲んだにも関わらずこの程度で済んでいるのは、たぶん友人が用意した日本酒がなかなかいいものだったからだろう。あの、年齢も出身地も全く想像できないセクシー系女子は、いったい何者なのだろう。もしかしたら大金持ちで、人生を遊んで暮らそうと考えているのかもしれない。働いている様子もない。たまに夕方くらいに、ふらっと軽装で出かけるのを見かけるくらいだ。

 そういえば、彼女から面白い話を聞いたのだった。涼子は思い出す。その話を、友人の佐久間幸恵に話そうと思っていたのだ。それが、今日、幸恵の時間があるのが午前中だということで・・・。

 涼子はようやく飛び起きる。視線で時計を射抜く。針は九時を指している。慌てて飛び起き、歯磨き洗顔、寝癖を直して少しだけ化粧をすると九時半。蹴破るようにしてドアを開け、鍵も閉めずに部屋を飛び出し、階段を駆け下りていくうちにスニーカーに踵が入った。

 最寄駅に着くころには、だんだん頭が冴えてきた。

 昨夜遅く、佐久間幸恵にメールをしたのだった。彼女はH大学の4年生で、夏休み期間といえどいろいろと忙しいらしい。涼子も詳しくはないのだが、心理学のゼミに所属していて、夏休み中にいくつか実験をするらしい。心理学の実験というと少し怖いイメージがあるが、どうやらそれは想像にすぎないらしく、単にパソコンにたまに出てくる文字に対してボタン押しをするというものらしい。それで何がわかるのか、涼子にはちっともわからない。しかし、幸恵のことだから、面白いことをしているのだろう。一度見学させてもらおうかとも思っているが、果たして自分の頭で理解できるだろうか。

 お気に入りの黄緑色のヘッドホンをかける。赤い携帯電話を,緑色のかばんから取り出し,灰色のポケットに突っ込んだ。見上げると青空が,黒い電線の向こう側に見えた。紫のアジサイを焦がすように,日差しはじりじりと,涼子と涼子の周辺を焼いた。

 登校時はヘッドホンで音楽を聴くのが涼子の趣味である。もちろん,徒歩にヘッドホンは危険であることは重々承知の上だから,音量は小さい。涼子は退屈が嫌いだ。たぶん,この札幌で自分よりも退屈が嫌いな人間は,幼稚園児や小学生を含めてもいないだろう。だから音楽をかける。一時期は漫画を持ち歩いていた。しかし漫画は,歩行中に読むのが難しいうえにかさばって仕方がない。そのうえ重い。さらに入手が面倒だ。本屋にいかなければならない。そして一度読んだら(多くは)満足して,それ以降は手に取ることはない。音楽は,どこでも取り出すことができるうえに何度聴いても飽きない。むしろ何度も聞くことのほうがおおいだろう。電車で,つまらない講義で,自宅で一人きりのときでさえ,音楽は涼子の退屈を消し去ってくれる。

 涼子は退屈が嫌いだ。

 死にたくなるからだ。

 電車がようやく来たらしい。このあたりはサラリーマンの一人住まいが多く,だから朝九時は空いているほうだった。空いた席に腰掛け,スマートフォンをいじり,Acidmanの「季節の灯」を選択した。


水色の風が 通り雨に濡れて

ふとあの日の街を 思い出しました


当たり前の様に季節は流れて

黄昏に染まる そう いつかと同じ空


ただ重ねる何度も掲げた僅かな言葉


いつの日か私も君も終わってゆくから

残された日の全て心を添えておこう

灯る火の果てに


世界の始めに 聴いた事がある

耳鳴りはいつかの そう いつかの唄だった


見上げればあの丘の向こうに


何回目の太陽だろう? 憶えてゆけるかな?

与えられた日の全て 心を添えておこう

昇る陽の果てに


無くした 本当は透明な罪の上で

それでも 世界は透明な火を灯して


何度も掲げた僅かな言葉


いつの日か私も君も終わってゆくから

残された日の全て心を添えておこう

何回でも陽は昇る 遠くへ唄を乗せて


 理由はわからないが,涼子はこの歌が好きだった。どうしてだろう,夢で見た風景が,そこにはあるような気がしていた。そして,大切な人の死。永遠に生きる宿命を負った人間の悲しみが表現されているような気がして,それは涼子に,その歌が,自分自身を歌っているかのような錯覚を覚えさせるのだった。

 死んでしまっても構わない。しかし,死にたいと思うほどに,生きているつもりもない。

 死んでしまえたら,どんなに楽だろう。誰かが背中を押してくれるのを,涼子は待っている。

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