3章 7
傷痍軍人というものを、涼子は見たことがない。
つい七十年ほど前、日本は戦争中だったらしい。それを聞いても、まったく実感がわかないのは、仕方がないことだと思う。鮮明なテレビの映像でさえ、どこか作り物じみている。いや。作り物じみているのではない。実物だとわかっていても、それに何の感想も持てないのだ。戦争だということはわかる。よくないことだとも思う。だがそれまでだ。心が動かない。きっと私の心臓は、そういうものを簡単に切り捨ててしまえるのだ。
泣いている子供。立ち上る煙。
凄惨。瓦礫が積み重なっている。横倒しの車。爆発音。
以前、幸恵が教えてくれた。共感には二つの種類があるのだという。
「生理的な反応。こちらがより早いと言われています」幸恵は細い人差し指を立てる。「情報が入ってきて、すぐに脳で反応が起こります。こちらは、その情報に注意を向けていなくても反応するので、つまり自動的な処理です。もうひとつが認知的な反応。こちらは、考えた結果、注意を向けた結果起こる共感です。例えば、けがをしている人を見ると、痛そう、とか、ぞわっとしたりしますね。これは生理的反応で、皮膚上の電気抵抗などでも観察できます。最近だと脳波の研究もあります」
「認知的のほうは、頭を使って共感するってことですか?」涼子は尋ねる。
「そう、そちらは、こういうものは悲しいものだ、とか、こういうのはうれしいのだ、と学習されたものです。あるいは、自分自身がそうなったらどうなるだろう、と想像したときなどですね」幸恵は優しく頷き、説明する。「ただし、これは簡単にはわけられません。例えば認知的共感は、想像によって過去の記憶を引き出して、それに対して生理的反応をしている可能性があります」
つまり、認知的反応は、自分が生理的反応を生じさせるように自分自身を仕向ける、仕向けることで生じるかもしれない、ということだろう。
それが正しいとすると、きっと涼子は、生理的反応が欠如している。
想像してみる。自分の住む町が、燃えていたら。
何か、感じるだろうか。自分自身の心に、反応が起きるだろうか。
何も。何も感じない。
戦争とか、怪我とか。いつからかそういうものに、何も感じなくなった。
顔色の悪い初老の男は、話を続けた。
この土地には、北海道にしては珍しく(というのが本当かどうか、涼子にはわからないが)山岳信仰があるらしい。この峠沿いの町の長が住む山の斜面にほらあながあり、そこに小さな神殿があった。神殿とはいっても、簡単な神棚があり、月に一度程度のお参りがあっただけだという。
怪我をした軍人がそこに住みつき始めた。
初めは、食べ物を恵んでやる老人がいた。
町には若者はほとんどおらず、老人と、働くこともできないような子供がいた。彼らは満足に食べられる生活をしていなかったが、それでもけがをした男を見捨てることはできなかったという。
男は日に日にやせ細っていった。聞いたことのない方言を言う男だったという。
あるとき、町の娘がさらわれた。
そのとき、町の長は所という男だったという。所は激怒し、老人の中でも若いものに農具を持たせ、洞穴に入っていった。
そして、血まみれの女児とともに帰ってきた。
そしてすぐに、その穴は閉じられてしまった。なぜか連れて行ったうちの三人ほどが戻ってこなかった。町ではその話題は禁句とされた。数年後、そのときさらわれた娘が失踪した。助けられたときから、気がふれていたという。
ことのあらましは、とても単純なものだった。
そしてそれだけに、現実感がなかった。
「その穴はどうやってふさいだんですか?」直孝が質問する。
「入口は、もともと、もろかったし、浅い斜面だったから」男はぼそぼそと応答する。目は囲炉裏のほうを向いている。「簡単だったんじゃないかな。天井を崩したんだよ、きっと」
「その子は、どうしてさらわれたのですか?」幸恵が質問する。
「慰み者にされたという話だ」
また聞きなれない言葉だったが、意味はすぐにわかった。
「そのときは、おいくつだったのですか?」
「七つだったと聞いているよ」
「それは」幸恵が絶句する。「お気の毒に」
「今も、中には死体が四つあるんだよな」直孝は聞く。「老人に遺体が3つ。傷痍軍人のが1つ」
「たぶん、だがね」
「所さんは、いろいろ調べられたんでしょうね」直孝は両手を頭の後ろに組んだ。「それで、何十年もたっても、知っている人がいる」
「探偵さんはよくご存じでしょう」男は眼球を探偵に向けた。ぎょろりとした視線に、涼子は身がすくんだ。なぜだかとても不気味だ。
探偵は、ええ、と答えた。「所さんから、ここのことは聞いていました。もうずいぶん前ですけれど」
探偵によると、所という老人は、この町にとどまらず、あちこちに拠点を持つ事業主であるらしい。今はさすがにこの世に無いが、亡くなるときは大きな遺産があったらしい。そこで、なぜだかわからないが、遺産相続に先立って「本人の」意向が知りたいという遺族が、探偵に霊媒を頼んだのだという。
「直孝のいうとおり、彼はいろいろ調べだんだ。まず、傷痍軍人のこと。それからさらわれた子のこと。いろいろ調べて、調べるだけではなくて、実際に動いている。その子を探したりしていたんだ。結局、見つけられなかったようだけれど」
「中で何が起きたんだ?」直孝が聞く。
その質問は、つまりこういうことだ。所を降ろしたなら、当然知っているだろう。所という男のすべてを、お前は知っているのだろう。
探偵は、うん、と答えた。
「何があったのですか?」幸恵の、待ちきれないという質問。
「簡単にいえば、老人が三人、傷痍軍人に殺されたんだよ」探偵は簡単に答えた。「所さんは傷痍軍人をおとなしくさせた。女の子は震えていて、血を浴びた」
「ひどい」幸恵が口元に手をやる。本当に、何をしてもサマになる人だ。
「傷痍軍人はどんなやつだったんだ?」
探偵はすぐに答えた。「それを調べたい。彼がすべての始まりだ」
「始まりって・・・この、連続殺人の?」
「そうだ」探偵はうなずく。「彼から始まって、その子に渡り、所という老人が支え、今までつながってきた呪いだ。ずっと、この場所から、細い糸でつながっている。この腐った糸は、とてもおどろおどろしい糸で、ほとんど切れている。柔らかい。だけどそれだけに、断ち切ることができない。いくらでもつなぎなおすことができる。そのはじめの、腐臭の原因が、彼だ」
探偵は、ふう、と一息つく。
「いや、あ、ごめん、そうじゃない。最初はそうじゃない。最初は、もっと大昔だ。生物が、賢くなった時に、そうなったんだ。最初の呪いというなら、そう、知恵の実をかじった時だ。そのとき、僕らは呪われた」
「うるせえ、端的に言え」探偵の弟が舌打ちをする。
「傷痍軍人を取りに来た。持っていく」
探偵はそう言って。
「初めからそう言え」
「機材がいりますね」
探偵助手たちはそう答えた。
涼子は、まだ、覚めない夢の中にいた。
洞穴。軍人。血。慰み者。
老人の死体。助けに来た男。
立ち上がるとき、どこもかしこも汗をかいていることに気が付いた。両手はとくに、滴るほどの汗。動悸が乱れる。心臓の男が聞こえる。
無味乾燥な情報が、ようやく現実感を帯びた。