3章 6
うっそうとした森。電燈は少なく、代わりに幹の太い木々が生い茂っている。布団路ガラスに何度か枝がぶつかったり、タイヤが何かをふんづけたりしながら、ようやく目的地に着いたことにはすっかり日が暮れていた。ここがどこかもわからない。ただ、山奥であることだけはよくわかった。
車を降り、足元を照らしながら歩く。
中途半端な大きさの門。その向こうに立派な日本家屋が見える。北海道には珍しいタイプだ、と幸恵は思う。雪があまりに多いため、かやぶき屋根はあまり多くない。そもそも歴史が浅いのもあるだろう。よく見ると窓や玄関は西洋風の設えが見受けられる。
振り返り、あたりの様子をうかがう。門の左右の塀は、その終わりが見えなかった。塀はほぼ直線で山の斜面に続いている。玄関は谷側を向いている。まるでこの下の農村を見下ろしているかのようだ。おそらく、この地域の富豪なのだろう。
門にはインターフォンがあり、探偵がそれを押した。小声で何か言うと、門を押した。鍵はかかっていないらしい。
玄関のドアを開けたのは、見るからに気の弱そうな、初老の男性だった。探偵の小さく会釈すると、中に入るよう言った。顔色が悪い。よく見ると、首元に赤い跡が見えた。
短い廊下を進みふすまが開く。6畳ほどの小部屋。中心には囲炉裏。座布団がいくつかある。部屋の隅には箪笥のようなものがあったが、それ以外には何もなかった。金属のカーテンレールに、すだれのような素材のロールカーテンがかかっている。
男が、お茶をお持ちしますと部屋を出た。
「嫌いじゃない」尚孝がにこにこして言った。囲炉裏の前に腰を下ろすと、両手を突き出した。
「うへえ、ランタンだ。いちいち油いれなきゃいけませんね。あ、天井にクモの巣がある。そっか届かないもんね」涼子は誰に言うともなくぶつぶつしゃべっている。天井を見上げながらくるくる回っているので、すこし心配だ。
「それで、何しに来たんだ。勿体ぶるなよ」尚孝が質問する。
「情報収集」探偵は答える。
「誰の情報?」
「僕が降ろそうとしている人を、ここに住んでいた人が持っているかもしれない」
探偵は答えた。その言葉の意味を、幸恵はわからなかった。涼子はまだ天井を見ている。探偵の弟は、わかんねえよ、と答えた。
「よくわかりませんが、それだと問題があるのですか?」幸恵は気になったことを口にする。
探偵の降霊術は、情報があればそれでいいはずだ。降ろしたい人間がまだ生きているならば、降ろすことが出来ないということも知っている。おそらくそれは、探偵が意識的にあるいは無意識的に、自分の降霊術を制約しているからだろう。しかし、今回のケースはそれにはあたらない。被害者は既に死んでいるのだ。
「ある。生きていると降ろせないのと同じ」探偵はなんでもないことのように答える。
「同業者か?」尚孝は聞く。
「違う」探偵は答える。
「そいつは何のために持っている?」
「わからない」
「会ったことがあるのか?」
「事務所に来た」
涼子が反射的に探偵のほうを向いた。幸恵も驚いている。事務所に来た。霊を持つものがあのビルに。
「どんな奴だ」尚孝は聞く。
「女性だったよ。年齢はわからない。小柄だった。僕を見かけて、全部真っ黒だから気になったと言っていた」
「真っ黒?」
「不吉なものを見ると黒く見えるらしい。僕は見たことがないくらい真っ暗だったと言っていたよ」
「腹の中でも見えたんじゃないですか」涼子が乾いた声で言う。
「ああ、それは面白いね」探偵は笑った。涼子は眉をひそめた。幸恵は顔には出さないが、おそらく彼女と同じ感想を持った。・・・気持ちが悪い。
「あのなあ、俺が聞く前に自分から言えよ、そういう大事なことは・・・」尚孝は、ふう、と息を吐く。「お前がどう解釈したかはこの際どうでもいい。そいつは殺人犯である可能性が高いんだな?」
「殺したのは彼女だろう」探偵は答えた。
「通報」涼子がいらだった声を出す。「ついでにそこの腹黒も共犯でしょっぴいてもらおう」
幸恵は涼子の怒りがよくわかった。
理由はわからないが、探偵はその事務所にやってきた女性が犯人だと思っているらしい。そうなら、警察にそれをつたえることくらいはしてもいいはずだ。探偵が既にその話を、笹島や矢口に伝えている可能性は極めて少ない。もしもそうなら、これだけの大事件、何かてがかりがあるだろうと、あの廃ビルに刑事が詰めかけているはずだからだ。
「ただ、確信はない。証拠もない。あえていうならこいつの勘だ」尚孝が弁護する。「犯人ぽいのが来たよといっても、誰も信じないだろう」
「外れている可能性もあると」幸恵は聞く。
「十中八九はハズレだ。二人とも、こいつを信用しすぎだ」尚孝は声を低くする。「こいつはスゴイやつなんかじゃない。安楽椅子探偵を気取っているだけの怠け者だ。こいつが降霊できるできないなんてどうでもいいことなんだよ。そうだろう?」
涼子も幸恵を黙ってしまう。
たしかに、証拠は何もない。根拠もよくわからない。幸恵や涼子でさえ、探偵が何を言っているのかほとんどわからないのだから、警察に何を言えばいいのか。そもそも彼が間違っている可能性も十分にある。いや、冷静に考えれば考えるほど、とても馬鹿な男の言動に振り回されているだけのような気がしてくる。
幸恵は深呼吸を一度して、それから話を変えることにした。
「ここの方は、その、仮に「持っている方」をAさんとしますが、Aさんとどのような関係にあるのですか?」
「ここに昔住んでいたらしい。その人のことを知りたい」
「その人が犯人かもしれないんでしょ」涼子は追及する。
「それは、ですから・・・」
「わかってます」涼子は答える。「そうではないかもしれない。でも、警察にもいえない。だけど、私たちを連れてきた。だから、いちおう、なにかはしようとしていると言えなくもないんです、わたしたちは」彼女は微笑む。「だけど、犯人かもしれない、それ自体は、嘘じゃありません。確率は低いかもしれないけど」
幸恵はうなずく。
「ここのご主人とは、どういった関係なのでしょう」幸恵は聞く。
「孫」探偵は簡単に答えた。
「えっと、じゃあその人は若いのかな?」涼子は聞く。「けっこうおじいちゃんでしたもんね」
「田舎で悠々暮らしてるじいさんに、孫が殺人鬼ですって言いに行くのか?」
「悠々暮らしているわけではなさそうです」幸恵は会話に割って入る。
「そうなんですか?」涼子が首をかしげる。
幸恵は少し声を抑える。気配は、近くにはない。「相当強い力で、襟を絞められている形跡がありました。健康状態もよくありません。たぶん、心臓がよくありません。それから足も、捻挫しています」
「襟?」
「うーん、お金に困ってる、のかな」尚孝は両手を頭の上に乗せた。「でかい家なのにね」
幸恵はうなずく。ところどころ、そういう感じはしていた。門の内側、芝生は邸宅の前面にしかなく、最近は手入れされていないようだった。玄関にはところどころ掃除がいきとどいていない箇所があった。
「心臓が悪いのって、どうしてわかるんですか?」涼子は聞く。
「驚かせると死にそうだからです」幸恵は即答した。
「足は?」尚孝も聞く。
「そこを、その・・・攻撃したくなるからです」幸恵は答える。
気配が動いた。しばらくするとふすまが開く。
顔色の悪い亭主は、陰気な顔で探偵を見た。