3章 4
矢口俊太は、機嫌の悪そうな先輩刑事の横面が視界に入らないよう、助手席の窓から外を眺めていた。日が長い季節とは言っても、札幌の夕方は短い。気づけばもう夜である。街灯はいつまでも明るく、赤いブレーキランプと黄色いヘッドライトがまぶしかった。10階建のビルからせり出した色とりどりの看板。一階のコンビニのけたたましいほどの照明。
いつまでも明るい街のどこか。
頭のおかしいやつがいる。
矢口は正義感が強いわけでも、男の仕事にあこがれたわけでもない。半ば流れにみを任せるようにして今の仕事をしている。笹島はそのきっかけを作った、いわば矢口の道を決めた人物である。眉目秀麗、公正明大とまではいかないが嫌味なところがなく、人物の評価は高い。しかしときおり、刑事とは思えないほどひどく子供っぽくなることがある。それは痛ましい事件、特にどうしようもない凶悪な犯罪を扱うときだ。真剣になるとか一生懸命になるとか、そういうこととは違う。機嫌が悪くなるのだ。
要するに子どもなんだ、と矢口はため息をつく。
笹島の機嫌が悪い原因ははっきりしている。
札幌市内で起きている連続失踪事件に進展があった。これまで見つかっていなかった被害者の死体が見つかったのだ。しかし、それも完全ではなく下半分だけ、上半身は消えたままである。鑑識によると、あるいは死体を一瞥した笹島によると、少なくとも損壊部分の一部は人の上顎により切断されたものであるらしい。これは最大限に言葉を選んだ言い方だ。例えば刃物で上半分を切り落とし、切断面だけきれいに噛み千切って、あとでその肉塊をどこかに捨てたということは考えにくい。矢口も笹島も、鑑識結果を知っているおそらくはほとんどすべての者は、喰われたのだと思っているだろう。
これまで死体が消えていたのも、犯人が死体を食べていたからだと考えられる。ここにきて、これまでの被害者宅での電気・ガス・水道料金が事細かく調べられた。共通しているのは、被害者が失踪して、つまり誰とも連絡を取らなくなりはじめてから数日は、一定の水道料金が支払われていたということである。その使用量・時刻・頻度は、ちょうど成人女性がトイレで用いるのと同程度であった。
犯人は死体を食べて、排せつしていたと考えられる。
死体は姿を変えて部屋の外に出ていたのだ。下水道を通して。
死体を相当に細かく刻まない限りはそれは不可能であったため、またミキサーやのこぎりなどの音がするという情報は得られなかったため、下水に死体を流した可能性は却下されていた。人間の消化器官が使われていたとは考えられていなかったのだ。
もちろん、まだ謎は残っている。骨はどうしていたのか。頭蓋は。大腿骨は。背骨は。
それに。
全部は食えないだろう。とてもではないが、数日で喰いきれる量ではない。
バトミントン部だった高校生のときの矢口でも、焼肉10人前に大ライスが3つが限界だった。肉は一日に何キロも食べられない。それが、少なくとも30キロ以上の生肉を食べきるのは不可能だろう。
それに、あまり考えたくはないが、消火器や性器はまだしも、眼球や脳味噌は食べられるものなのかだろうか。
そこまで考えて、矢口はやはりまた行き詰る。人を食いきって死体が消えたなどという妄想は、捨てるべきなのではないか。ここ数日の操作の状況は、その疑念をさらに強くする。犯人が部屋から出ているのは確かであり、おそらく死体を食い終わった異常者は、何食わぬ顔でドアをあけ、エレベーターに乗り、あるいは階段を下りて外に出ている。それが数十件もあれば、目撃証言だけでも犯人を特定できそうなものだ。それがない。どんなに周囲を警戒したとして、人通りが多いところを、誰にも見つからずに歩けるだろうか。深夜だとしても、深夜だからこそ目撃されれば印象が大きくなるはずだ。
何かおかしい。やはり食っていないのか。
矢口は首を横に振る。いや。ちがうのだ。そこは問題ではない。
食ったか食ってないかは、この際重要ではない。問題は犯人が誰なのか。動機が必要なのは、犯人を同定するためだ。犯人さえわかれば、同機はあとから考えればよい。だから必要なのは、被害者の共通点だ。
現在警察が掴んでいる情報は、被害者が二十代から四十代の女性であること。一人暮らしであること。それだけだ。他にどんなところにも共通点はない。しいてあげるならば、特に体格が大きいあるいは小柄な人物がいないということくらいだろう。性格も一人ひとり異なる。好まれていたものもあれば、嫌われているものもいた。住んでいる場所、出身もばらばら。通勤方法も異なる。下着のサイズもばらばらだ。
地道な聞き込みしかないのだろうか。矢口はため息をつく。
それとも、天才的な閃きが、道を示してくれたりするのだろうか。
残された下半身にヒントは。
「なあ」
突然話しかけられて、矢口は驚く。思考が戻ってくるまでに、数秒を要した。
「はい、はい、なんでしょうか」
慌てて返事をする。
笹島は矢口の軽い調子に、いつものように嫌そうな視線を返した。
「人を食いたいと思うのはどんな時だろうな」
素直すぎる質問に、矢口は吹き出しそうになる。自分などに聞いてくるあたり、まったく答えが見えていないのだろう。矢口はその雑談に付き合うことにした。
「さあ、食べたいと思ったことがないんで、わかりません」
「無いのか? 状況は問わない」
「ありませんよ。うーん。あ」矢口は思い出す。「高校の時の友達が結婚して、今はもう三歳くらいの子供がいるんですけどね。ずいぶん前ですけど、会ったときに、子供がかわいくてかわいくて食べちゃいたいって言ってました」
「聞いたことがあるな」笹島はうなずく。「なぜ、食べたくなる?」
「さあ、かわいいと食べたくなるんだったら、いろんなものが涎まみれになっているはずですよね。子猫とか、キティちゃんとか」
「実際食べたりはしないが」
「そこなんですよね」矢口は首をひねる。「なんというか、僕も高校のときなんかは、とにかく腹いっぱいにしたい、何かを思いっきり咀嚼して飲み込みたいっていう経験はあるんで、噛むとか飲むとかがある種の快感だっていうのはわかるんですよ。でも、人を食いたいとなると、もうわからない」
「どうわからない」
「人に関わることって、何があってもおかしくないと思うんですよ」矢口はしゃべりながら考える。「その人がいとおしいとかにくいとか、あるいは他人というものが、憎いんだけどその裏返しに好きだとか、自分と似ているところもあるとか性別というものが怖かったりとか。人間が悩むのは、ほとんどの場合、人間についてです。自分でも他人でも。で、他人っていうのは自分をうつす鏡だと思うんですよ。自分とこいつはここが違う。こいつのここはむかつく。それって、そのときどう思うか、他人をどういうふうに評価するかって、自分を評価することにすごく似ていると思うんですよ」
矢口は思う。
刑事になって感じることは、人はみなどうしようもなく荒んでいるということだ。心に傷を作り、あるいは大きくゆがんでしまっている。それは、他人とどうかかわりあうかによって明らかになる。人を測る物差しは、たぶん人なのだ。
「だから、その人間が何をしたいのか、何を思っているかは、すごく複雑で、その人の人生が全部現れるんだと思うんですよ。そうすると、それを食べるってなると、パターン無限だと思いません? 食べるって、愛情表現かもしれないし、そうじゃないかもしれない。殺すとか征服するとかの意味があるでしょう、たぶん。あるいは好みなのかもしれないし。だから、人を食べる、という行為にどんな意味があるかは、わからないと思います」
そもそも行為から心を測るのは無理でしょう、と矢口は刑事らしからぬことを言った。
笹島は、そうだな、とつぶやいた。
長々としゃべった挙句に、結局のところ「わからん」と言った矢口に対して、そうだな、である。矢口は居心地が悪くなってしまい、笹島さんはどう考えてるんですか、と聞いてみた。
笹島は、矢口の予想通り、わからない、と答えた。「だが、なぜ食べるのかということは、考えたほうがいいかもしれない。なぜ食べる?」
「腹が減ったから」矢口は答える。
「他には」
「おいしいから」
「他には」
「味見」
「他には」
「食っとかないとしばらく食えないから」
「他」
「食わないと作ったやつが不機嫌になるから」
「他」
「付き合い」
「他」
「もうありませんよ」
「彼女が出来たのか?」
「母ちゃんです」矢口は答える。想像すると、腹が減ってきた。