2章 4
終わりの日の朝、私はすがすがしい気持ちで目を覚ました。これほど眠ったのはいつぶりだっただろうか。いつも、誰かから追われる夢を見ていた。あるいは、私の中にいる子供たちをあやすのに大変だった。今日はそのどちらもない。
あの探偵の言葉が、私を落ち着かせてくれたのだろう。
私には時間の感覚がない。だから、探偵の言葉がいつのことだったか思い出すことができない。きっと昨日だろう。私は長く生きすぎた。私にとっての昨日は、一年前と十年前と同じ、等しく無限の中の一部だ。無限というほど生きてはいない。だがまともな人間に比べると、とても長い時間を生きた。
それが私の望みだった。
死なないことだけを願い、そして、死ななくなった。
あれは、いつのことだったろうか。きっと昨日だろう。
体を起こし、テーブルの上の果物を手に取った。口の中に、味が広がる。私は呻き、そしてすべて吐き出してしまった。やはりまともなものは食べられない。腐っている感じがする。
私はいつからか、まともな食事ができなくなった。あれはいつからだったか。きっと昨日からだろう。
死ぬことが恐ろしい私は、死を連想するものですら恐ろしくなってしまった。映画や小説。人のうわさ話。ニュースに至るまで、人の死がおそろしい。それはいつからか人に限らず、生命の死がおそろしくなってしまった。動物の肉は食べられない。それは死体だから。死体を食べると、私も死体になってしまうから。果物もたべられない。種を除くすべては、もう二度と再生しない死体だ。果実はとても恐ろしい。新しい命を、死体が包み込んでいるからだ。死に暖められる胎児。外には死があるばかり。私たちは死ぬしかない。
子どものころから、私は夢を見ていた。巨大な漏斗の内側に、私や家族が、多くの人たちがひしめいている。私たちは少しずつ、中心の穴に向かって落ちてゆく。逆に向かって動くものは誰もいない。私たちの体は、まるで雪だるまのように丸い。関節が折れ曲がって、ぴったりと球の形にはりついている。ひどく不快だ。遠く、穴の付近で、誰かが丸いボールを投げた。よく見ると、それもひとの形をしていた。それは私の頭上を越え、坂のうえに到着すると、ゆっくりと転がり始めた。穴のなかがどうなっているか、誰も知らないらしい。
死は不可避の奈落としてそこにあった。私は黒い黒いその穴を覗き込むことがついにできなかった。いつしか私の中の恐怖は、私自身となって、私の体を蝕んでいった。
身支度を整えた。部屋を出て階段を上る。空は晴れ渡っていた。
デッキには黒装の探偵がいた。
黒い頭髪はすっかり伸び放題で、鳥の巣があると言っても疑われないくらいに乱れている。青い空と彼の体の境界は、その髪で曖昧になっている。銀縁のメガネの奥では、今にも眠ってしまいそうな(あるいは本当に眠っているのかもしれない)瞳があった。瞳の奥も黒い。見えるところにある肌は白い。どころか青く見えるのは、彼が半透明で、彼の向こうの空が、海が透けているからかもしれない。おそらく整っているであろうその顔は無精ひげに覆われている。黒いスーツも黒い靴も、皺ひとつないように見えたが、目を凝らすと黒すぎるせいで凹凸がわからないだけだった。
煙草をくわえた彼は、両手をポケットに突っこんで、手すりにもたれかかっている。斜めになりたいのを手すりが阻んでいるように見えた。あるいは背中で船を押し広げているかのようだ。
「いい天気ですね」私は空を見上げた。
「ええ」探偵は答えた。気の抜けた返事。相変わらず感情の抑揚が一切感じられない、機械のような声。「具合はいかがですか」
「とてもいいわ。あなたの魔法のおかげかしら」
探偵は答えない。彼は口数が少ない。
「始めましょう」
「わかりました」
「昨晩は悪夢を見ませんでした。とてもよく眠れたの。どんな悪夢を見ていたか、聞いてくださる?」
探偵は、ええ、と答えた。
私は穴に落ち続ける夢の内容を、彼に伝えた。
「どうしても、私はあの穴の下に行きたくなかった。怖くて仕方がなかったから。でも、もうその悪あがきはおしまいね。私の中の子供たちと一緒に、私もそろそろ消えてなくなってしまうべきだわ」
あの穴の向こうはどうなっているのですか、と私は聞いた。
答えなどない。きっと探偵は適当にごまかして、話を逸らせるだろう。
しかし、彼は簡単に言い放った。「穴なんてありません」
私は少し驚いた。彼が何かを断言することがどれほど珍しいか、私は知っている。
「坂道があると思っているのは、水平を知っている人です。ゴリラはみんなB型だそうですが、ゴリラはそんなこと知らないでしょうね。木製の本棚の棚板は、たいてい木製ではありません。パイル材という、細かい木片を接着剤でくっつけたものです」探偵はゆっくりと、しかしきわめてはっきりと、まるでアナウンサーが原稿を読み上げるように発音した。「穴なんてない。僕らは何もないところに生きていて、そして生きている限りどこにも行かない」
「難しいことを言うのね」
「難しいかもしれません」
「死ぬということが、幻だというの? 夢想家なのね」
「死は観察されますが、それは本当ですか?」探偵は答えた。
「本当ってなにかしら」
「確信できることです」
「それなら本当よ、知っているでしょう、死なない方法はない」
「そういう世界を、あなたは見ている。それをあなたが信じたとしたら、それは本当だ」
探偵は言った。
役に立たない探偵は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
そう、この男は、私を終わらせるためにここにいるのだ。
「死ぬことも生きることも、どうせなんてことはない。どれも虚実の虚で、等しく無意味だ。あなたの恐怖も何もかも、真実とはほどとおい。これは質の悪い映画の宣伝だ。雑誌の最後のページの広告だ。誰も見ちゃいない、情報の塊だ。いままでいろいろとしてきたことは、すべてまやかしの上にまやかしのペンキをぬった、虚像の塊だ」
探偵は、すべてを台無しにしてしまう。
だから彼は、役に立たない探偵と呼ばれている。
「これは終わった物語だ。君の役は終わった。だから」
私の唯一の観客は、そうして「何の役もこなさずに」、ただ幕引きのための拍手をする。そして彼はうなずいて、劇場から立ち去っていくのだろう。
「あなたの物語は、僕がもらう」
彼は言う。
終わりの言葉を言う。
「ゆっくりお休み、小町」




