2章 3
最初の記憶は、死ぬのが怖いという、強烈な恐怖だった。
それよりも古い記憶はない。私はずっと、死ぬのが怖いと思っていた。私の人生は、死への恐怖に塗りつぶされている。そのほかに感情も、感動もない。ただ怖いだけ。ただ恐ろしいだけ。向き合うこともできない、巨大な恐怖が、いつも私の背にぴったりとはりついて、こちらを見ている。いや、もうこの体も、頭のなかも、どこもかしこも死への恐怖でいっぱいだ。
人はやがて死ぬのだと、祖父の死体を見て私は気づいた。
小さな部屋の真ん中で、やさしかった祖父の死体が、白い布を纏っていた。母に、祖父は死んだのかと聞いた。母はそうだと言った。そして私は言った。私も死んでしまうのかと。母は悲しそうに笑んで、そも前に私が死んでしまうでしょうね、と言った。私は母のやさしさに気が付いたし、その意味も、なんとなくわかっていた。だがそれ以上に、いつか私も死んでしまうということが、怖くて怖くてたまらなかった。
思えば、それが始まりで、そしてそれしかない。私の生き方はあのとき決まってしまったのだ。
畑を駆け回るときも、本を読むときも。食事をするときも、私はいつも死ぬのが怖かった。この意識が、この感覚が、永久に失われ、そして失われることにも気づかないところに行ってしまう。終わってしまう。それは、想像することも許されない、終末。たぶんそれは、世界が滅んでしまうことと、何一つ変わらないこと。
成人した私は、逃避することにした。
もしかしたら、死ぬ前に、死んでもいいと思えるかもしれない。直前になって、いい人生だった悔いはないと、初めて思えるかもしれない。わたしのこの恐怖は、勘違いなのだと気付く時が来るかもしれない。そう思い、私は幻想にすがることにした。最初にしたことは、宗教の力を借りることだった。神を信じれば、あるいは魂の輪廻を信じれば、死への恐怖が和らぐかもしれない。しかし、そのときすでに、私は多くのことを知りすぎていた。私には、祭壇が、説法が、書物が、すべて装置にしか見えなかった。人を救おうとする人の力。そして、顔色から思考を読み取ることのできる力が、私をさらに不幸にした。彼らの顔にうかぶ、疑念、不審、そして何より、慈愛と憐れみ。それは事実として天国や輪廻の存在を願う私には、なによりそれらが本当は存在しないことを示す証拠だった。
次に私は、子供を育てることを思いついた。
私が死ぬとき、私に子供があれば、死後の世界を想像しながら死ねるかもしれない。遠大な無に飲み込まれることなく、地に足がついた現実を、死後も変わらない世界を夢想しながら逝けるかもしれない。そう考えた。だがうまくいかなかった。私の体は女だが、その機能は失われていた。想像していたことだが、私はこの方法もあきらめざるを得なかった。
やはり、これしかないのだろう。
私自身が死なない。これしか方法がない。
そして。
死なないためには、私だけの生命では、限界がある。
命を継ぎはぎする必要がある。
あの軍人が、そうしたように。