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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ壱】少年神主の日々
98/158

<三>一難去らずもまた一難



 ※



 一難去ってまた一難。

 一難去らずもまた一難。

 一難なくして苦労なく、一難ありて苦労あり。嗚呼、どうしてこうなるのか。


 授業が終わったその足で大学の図書館で本を借りに行った翔は自問自答を繰り返す。

 鞄に入っている本は“子どもの姓名診断”とタイトル付けされたもの。

 まさかこの歳で、誰かの名前を決める役割を担うとは思わず出るのは溜息ばかり、嗚呼、神主も楽じゃない。就任早々妖の世界に帰還しろと言われる上に名付け親の依頼が舞い込んでくるなんて。


 子供を名付けるなど重役ではないか。

 その子にとって生涯、使用していく大切な名前なのだから。本来、両親が決める名前を小僧の己が決める。頭が痛くなりそうだ。


 付添いの雪之介は人の苦労を清々しく笑っていた。それはそれは涙目を作っては人の顔を見て笑声を零している。なんて友人なのだろう。

 大学の敷地を出た翔が恨めしい気持ちで雪童子を睨むが、彼の笑声は止むことを知らない。思い出しては笑いを噴き出している。


「雪之介。お前笑い過ぎだぞ。こっちの気も知らないでさ」


 脇に肘を入れるが雪之介はもろともしない。


「ある程度、君の反応の予想はできていたけれど、あそこまで間の抜けた顔をするとは思わなくって。良かったじゃないか。白木さんという可愛らしいファンができてさ。ウラヤマシイ」


「じゃあ何か? お前は前々から白木家族の依頼を知っていたな?」


「あれあれ。言わなかったっけ?」


 おどける友人は事前に一件を知っていたようだ。性悪な妖である。

 借りた本の角で頭をかち割りたくなったが、飄々としている雪之介は人の殺気を感じるや否や軽やかに飛躍して距離を置いてくる。

 ズレた眼鏡を押し上げて舌を出す妖に苦い顔を作り、翔は状況にありえないと嘆く。けれども雪童子は何を言っているのだと返した。神主になれば、そのような重役の一つや二つ、あって当たり前だと肩を竦める。


「なにせ翔くんは此の地の頭領。妖の導なんだ。誰もが君を頼るし、誰もが君を敬う。その内、出産に立ち会って欲しいなんて言われるんじゃないかな」


「お、恐ろしいことを言うなよ。本当に依頼がきそうじゃないか」


 これ以上、自分を混乱に貶めないで欲しいものである。


「べつにからかっているわけじゃないよ」


 雪童子は真面目に答えた。翔はそういう立場にいるのだと肩を竦める。

 そう、此の地に生きる妖は思っている。昇る命、沈む命を神に見守って欲しい。ゆえに神に仕える妖は期待をされている。翔とて例外ではない。


 友人の指摘に何も言えなくなる。ご尤もだ。


 本就任では多くの妖から祝福を受けた。

 緊張にまみれた己を微笑ましく見守り、お粗末な神主舞や挨拶にも拍手喝采。最年少神主として未熟さが目立つにも関わらず、南の地に住む妖はこの現実を受け入れ、対である北の地の妖も喜びを露わにしてくれた。


 勿論、全員がそのような輩ではなく口には出さないが、心中では本当に齢十八の妖が自分達を先導するのかと不安を抱く者もいるだろう。

 若過ぎる妖狐の未熟な部分を狙い、宝珠の御魂を奪おうとする妖もいるだろう。たどたどしい先導に苛む妖もいるだろう。


 だが多くの妖は祝福をしてくれたのだ。翔は彼等の期待に報いたいと心に決めている。


 脳裏に過ぎる四月頭に行われた“本幕の就任”。第四代目北の神主と真の対になれた、あの夜。就任を心から祝福してくれる妖達が綺麗に修繕された“月輪の社”に集い、参道を歩く若き十代目に声援を送ってくれた。

 翔は闇に包まれた帰路を雪之介と歩く。外灯は少ないものの、付近の住宅や道路を走る自動車の明かりによって夜道は照らされる。そうでなくとも夜目の利くため、道はしっかり把握できた。


 住宅を五分ほど歩くと己の住むアパートが見えてくる。

 至って普通の三階建アパートだ。新築を装うため、今年の二月に壁が塗り替えられたらしく薄い青の壁がやけに目を引く。

 駐車場は無く、上り下りはすべて階段。洋室のワンルーム。小さなキッチン、トイレ、風呂付き。なのに家賃は3万5千円とお安めだ。おかげで両親の説得に使えた。


「雪之介の父ちゃんに感謝だよ。こんなに安いアパートを紹介してくれるなんて」


 足を止め、自分の住むアパートを見上げる。己の部屋は三階の一番左端304号室だ。


「ここは人の世界で暮らす妖達がここぞと狙う“ワケあり”物件。普通の人間は怯えて暮らしたがらない。だから安いんだよ」


 要するに目に見えないものが出るのだ。


「探偵のお父さんは情報通だからね、こういうのには聡いんだ」


 隣で眼鏡を押し上げる雪之介が来た道を一瞥し、家に帰るのかと疑問を投げかけてくる。同じく来た道を一瞥した翔は夜道を眇めると、ヒトの眼から狐の眼へと変えていく。

 縦長の紅の瞳を膨張させ否定の返事をした。帰るには早いようだ。

 予想していたようで雪童子はやんわりと肩を竦める。


「これだから低俗な妖は困るね」


 住宅から住宅に移る無数の影。


 うごめく闇は民家や木々に息をひそめ、瞬く間にアパートの前に立つ翔と雪之介を囲んだ。無数の赤い点々が獲物を捉えている。今か今かと襲い掛かりそうな眼は真っ赤だ。紅の瞳を持つ翔と似つかわしくない色を放っている。

 雪童子が右の手に妖気を溜め始めると手出しは無用だと制する。


「妖同士の無用な殺生は許されない。後ろに下がれ」


 物言いたげに相手から見つめられると下がるよう翔は命ずる。これは友人としての頼みではない。一妖に対する頭領の命令だ。

 賢い雪童子は立場を理解し、出過ぎた真似だったと恭しく頭を下げて三歩分後退する。

 彼に鞄を投げ渡すと翔は手中に蛇の目の和傘を召喚。一吠え鳴き、変化を解いて妖狐と戻る。纏う衣服を純白の浄衣に、持ち前の体毛は月明かりによってよく映える。

 真っ白な下地、真っ赤な輪が描かれた目の模様の和傘を開くと、柄を肩に置いてゆっくり回す。


「今宵は月明かりが強い。その姿を月に見せ、どのような用件で来たのか、宝珠の前で申してもらおうか。白狐の南条翔は逃げも隠れもしない」


 無数の影はざわめく。誰一人、姿を見せようとする者はいない。

 ならば用件はひとつ。十代目は未熟な齢十八、そのため隙を窺えばお命頂戴も夢ではない。人の世界にいる今が絶好の機会。宝珠の御魂を奪え。さあ奪え。己の糧にするために! そのような絵空事を描いているのだろう。

 私利私欲にまみれた者達に三尾の妖狐、白狐の南条翔は容赦などしない。


 柄を強く握り締め、「去れ」持ち前の白き妖気を放って周囲にいる妖に威嚇する。

 己を軸に放たれる螺旋の妖気は低俗な妖達を震え上がらせたのだろう。ざわざわと闇から闇に移り、引き潮のように去っていく。

 今宵、集った闇に勇猛な妖はいないようだ。元の静かな夜の住宅が顔を出す。

 威嚇程度で去っていくのならば本当に低級の妖が己の命、並びに宝珠を狙ったのだろう。無用な殺生をせずに済んで助かった。翔は安堵の息を零し、和傘を閉じる。


「悪かったな雪之介。巻き込んじまって」


 口調を元に戻し、振り返って待機している友人に歩む。

 まったく気にしていない雪之介は鞄を差し出し、「随分と舐められているね」苦笑を零した。彼の言う通りであるため翔も同じ表情を返すしかない。


「なにせ俺は最年少神主。長寿の妖にとって齢十八の十代目なんてガキもガキ。勝てる相手だと思っているんだろう。今日は何事もなく終わったけれど、昨晩は大変だったんだ」


 勇猛果敢と称して良いのか分からないが、寄って集って妖達が宝珠の御魂を狙って襲ってきた。

 そのせいで翔は怪我を負ってしまい、今回のような問題が発生してしまったのである。


「就任からずっとこんな感じなの?」


 きょろっと相手の双眸が己を捉える。


「まあな。神主出仕の時は全然だったのに、就任してからずっとこれだ」


「常識的に考えて、神主になりたての若い妖が能天気に人の世界で暮らしているなんて知ったら、悪意ある妖は虎視眈々と機会を狙うだろうね。それに九十九年、南の地には頭領がいなかった。そのせいで“月輪の社”の威光は弱まり、無礼講を振る舞う妖が増えてしまった。だね?」


 翔はその通りだと頷く。

 簡単に言えば、長期間に渡って頭領が不在だったせいで、いざ新たな神主が就任しても統治が追いつかずにこのような事態が発生するのだ。

 こう思うと“月輪の社”の神使が宝珠の御魂を宿された際、九十九年不自由な生活を強いられたのにも納得がいく。宝珠の御魂を狙う輩は本当に多い。統治する社の威光が弱まれば弱まるほど、悪意に満ちた猛者が集い、力を得るべく重宝を手にしようと傍若無人な振る舞いを見せるのだから。


「十代目が選ばれたとはいえ、南の地の治安は未だ不安定だ。俺も十八の小僧だしな」


「でも君は英雄だよ? なにせ妖達を悩ませていた“瘴気”を封じた妖狐なのだから!」


 大袈裟に諸手を挙げる雪之介に、「真実を知っているくせに」と思わず悪態をついてしまう。


「表向きは一人で“瘴気”を封じたことになっているけど、あれは俺一人の力じゃない。それに、いくら瘴気を封じた妖狐とはいえ、俺の出身は皆にばれている」


 腕を組んで吐息をつく。


「人の子が妖になる事例は珍しくないよ」


「そう、珍しくはない。ただし妖になりたての無知な小僧が“神主”になる事例は極めて珍しい。だから比良利さん達が神経を尖らせる理由も分かるんだ。大事にはしたくなかったから比良利さん達には黙っているけどさ」


「え。狙われている日常を黙っているの? それは不味いよ。ばれでもしたら、今度は人の世界の出入りを禁じられそう。怪我を負っただけで帰還命令なのに」


 眉を寄せる雪之介にそうなのだと項垂れ、持ち前の耳と尾を地に垂らす。

 己が未熟小僧であることは認めるが、過保護に扱われると思う点もある。


 ただでさえ此方の世界の両親が干渉的になって苦労をしているというのに、今度は妖の世界が干渉的になられてしまっては堪らない。もう少し自分を信じてもらえないものだろうか。これではおちおち大学にも通えない。


「帰還命令はどうってことのない問題と思うけどね」


 翔は弾かれたように顔を上げる。そういえば先ほども言っていたっけ。


「解決策があるのか?」


「解決策というか、これは立派な悪知恵なんだけど」


 次の瞬間、己の耳に悲鳴が聞こえた。

 雪童子には聞こえなかったようだが確かに狐の翔には聞こえた。声質で分かる。この声は妖の悲鳴。しかも聞き覚えのある悲鳴。


「ごめん。ちょっと行ってくる」


 話の腰を折ると、和傘を開いて宙を舞う。相手の制する声を聞き流して夜風に乗った。

 所々よろめいてしまうのは未だ上手く風の軌道を掴めていない証拠だ。比良利に勧められるがまま、人型版の空の翔け方を習った翔だがようやく乗り方を覚えた程度。よって何度も落ちそうになり、地上にいる雪之介に妖型になるよう声を張られてしまう。

 しかしこれも修行。ここで妖型になってしまえば、また同じことを繰り返してしまう。根性で体勢を整えると、上昇気流に乗って悲鳴が聞こえた方角を探す。


「うわっち! ちょ、頼むから言うことを聞いてくれよ」


 がくんと揺れる度に翔は和傘の柄を握りなおす。

 無論、操縦士の自分が悪いことは百も承知だが視界が揺れに揺れると和傘に文句もぶつけたくなる。 


 前のりになる態勢を起こし、残寒が沁みる夜空を翔る。

 方角と妖気を辿った先に見えたのは、住宅街にひっそり息を潜める神社。南北の地には合わせて十の神社があると比良利が言っていた。昔々人と妖の交流が盛んだった頃、各々神社に集って祭りをする習慣があったそうだ。

 本当はもっと数があったそうだが、近代化が進んだ今、多くの神社は管理費の問題で潰されている。結果、名残として残っている神社は十だそうだ。


 鎮守の森に囲まれた神社に目を凝らす。

 桜で囲まれている境内には複数の人間の姿。下降して社殿のに下り立つと、花見をしに来たであろう人間の若人達が大騒ぎしている光景が目に映った。

 侘しい石畳の参道。色が剥げかけた鳥居。神社を囲む不気味な木々。背後には誰も入れないであろう年期の入った賽銭箱。そこで大はしゃぎしている無礼講な人間。身分は大学生か、専門学生といったところだろう。


 闇を照らすために前もって準備されたであろう懐中電灯を明かりにし、花見を堪能している。否、花見を口実に酒の力を借りてハメを外しているのだろう。

 集団のひとりが無造作に魚肉ソーセージを剥くと包まれていたビニールを賽銭箱に放った。酔った勢いにしては酷過ぎる。翔は顔を顰める。

 大笑いする声が境内を満たす。


「おいおい。いいのかよ。神様に天誅を下されるぞ」


 ゲラゲラと下劣な笑声。

 仲間の行為に本気で注意を促しているのではない。からかい半分、面白半分なのだろう。平然と笑いを返す当事者は、「実は俺が神だ!」と腰を上げ、皆の笑いを誘っている。

 視線を社殿に流すと調子に乗った別の人間達が、神を祀っている社殿に侵入してそこで酒を飲んでいる。


 そんな集団に臆せず注意をしているのは二人の妖。内、一人は見知った顔だった。泣き顔だが怒声を張ってこの敷地から出て行くよう命じている。

 此処は穢してはならない地。先祖が祀られている地。無礼講を振る舞うのならば出て行け。そう主張しているのにも関わらず、あろうことか訴えを笑劇にしている。

 社殿にいる人間が無遠慮に賽銭箱の上に乗り、本坪鈴(ほんつぼすず)を触るべく縄を上り始める。同胞達は血相を変えて悲鳴を上げた。幾度も彼等が注意をすると、人間が同胞に向かって勢いづいたビールの空き缶を放る。


 翔は開いた和傘を薙いでつむじ風を起こす。それによって放られた空き缶は人間に戻っていく。


 飛躍して同胞達の前に下り立つと、


「翔さま!」


 安堵交じりの声で蝶化身が名を呼んだ。一瞥すると白木夕立と、彼女の連れであろう女性妖の姿。

 軽く事情を尋ねると夕立が泣きそうな声で教えてくれた。


「人間がここで花見をしていたようなのですが、境内を荒すのです。夕立達が注意をしてもまったく耳を傾けてくれなくて。今月は蝶化身一族がこの神社を守る月なのに」


 手の甲で涙を拭う夕立を慰める女性はどうやら姉のようだ。彼女の口から姉さんという呼び名が飛び交っていた。


「おい、なんだよお前」


 突如現れた翔に人間の一人が物申してくる。

 彼等には妖狐としてではなく、白髪の男として映っているようだ。「その歳で白髪か? しかもコスプレかよ」大層身なりを笑ってくれた。

 内心、憤りを抱きながら翔は直ちに境内から出て行くよう命じる。

 花見をするなとは言わないが、神社を穢すならば他所で花見をして欲しい。柔らかい口調で頼むが、腹立たしいことに大笑いされるだけ。何がそんなにおかしいのか。酒が入っている今の彼等なら箸が転がっても笑うのだろう。


 目を細めた翔は憤りと遺憾な気持ちの二つを抱く。

 できることなら傷付けたくないが、妖であろうと、人であろうと、同胞を傷付ける者に慈悲は与えるべからず。そう北の神主に教わっている。既に妖に天誅を下しているのだ。出身が人の子であろうと贔屓にしてはならない。


「此方が真摯に頼んでも、そのような態度を貫くならば慈悲は不要。此の地を荒す者に白狐は容赦などしない」


 蝶化身の二人に隠れているよう命じると、己の周りに妖気を放つ。見る見る具体化になるそれは恒星となり、やがて青白い炎を上げて狐火と化す。


 向こうの笑いは消える。

 怪奇現象にどよめく声が聞こえたがもう遅い。翔は地に転がっている空き缶に火の一つを放つ。狐火は缶をただのアルミとして溶かした。

 社殿に向かって和傘を振れば、突風が吹き荒れて賽銭箱に乗っていた人間が転げ落ちる。更に一振りすれば社殿にいた人間の私物が飛び出す。慌てふためいた人間も飛び出す。懐中電灯の光を向けられると、電球が弾け、明かりは消えた。青々と燃え盛る狐火だけが闇を照らしている。


「なん、だよ」


 人間の戸惑いの声。翔は細く笑って口角を持ち上げる。


「神の天誅を望んでいるのなら、今ここで下そう。果てるがいい」


 和傘を軽く振って大麻に形を変える。

 紙垂を地に向け、緩やかに左、右、左に動かす。垂直に振り下ろした瞬間、眩い白い閃光が紙垂から放たれ、それは雷となって四方八方に走り抜けていく。

 蟻の子のように散り、人間達が鳥居に向かって逃げる。逃がしはしない、翔は大麻を振って雷の流れを変えた。鳥居に雷が走ると人間の足がすくみ上った。

 悲鳴が聞こえる。助けを求める声が聞こえる。許しを乞う声が聞こえる。それらに目を瞑って翔は人間達の逃げる道を塞いでいく。

 社殿の石段前まで追い詰めると翔は恐怖に顔を引き攣らせている人間達に怒りを見せた。


「此の地は人間だけの土地にあらず。己の愚かさを身に叩き込むといい」


 大麻を振り翳した、その時である。

 光り輝く霊気を纏った矢が風の如く闇を裂き、翔の動きを止めてくる。かろうじて矢を避けて顔を持ち上げると、雷が走っている鳥居を容易に潜り抜けた人間二人が法具を持って両者の間に割って入ってきた。

 妖祓。此の地で人間を守る霊気を持った特殊な人間。時に妖を祓う、忌まわしき存在だ。


「白狐。人を襲うなんて君らしくない。事情を聴こうか」


 妖祓、和泉朔夜が銀縁眼鏡のブリッジを押して見据えてくる。


 問いに翔は淡々と答えた。

 人間が此の社を荒し、同胞を泣かせた。此方がやめるよう注意をしても聞かず、真摯な気持ちすら笑いものにする。荒れた社殿や台にされた賽銭箱を見やり、それでもその人間達を庇うのかと妖祓に物申す。

 事情を把握した朔夜は大きく溜息をついた。「またか。花見の季節は多いな」呆れ返った顔で人間達を見やる。

 連れの妖祓、楢崎飛鳥も肩を落とした。「勉強を中断して来たのに」額に手を当て、人間達の愚行に嘆いている。


「庇いたてする理由など見当たらない筈。そこを退け、妖祓」


 怒りの唸り声を上げる。

 しかし、妖祓達は退く気配を見せない。


「怒りはご尤もだ白狐。けれど、命を取るほどの理由にはならない。彼等は反省をしている。どうか怒りを鎮めて引き下がってはくれないだろうか?」


「荒した社殿は責任をもって私達で片付けるから」


 穏便に話を進めようとする妖祓の要求に、翔は蝶化身達を流し目にする。

 桜の木に身を隠していた夕立と彼女の姉は顔を見合わせ、小さく頷いた。それによって翔は大麻を和傘に変えて二人の要求に応じると態度で示す。



 ほんの一瞬のこと。

 隙を突いたと過信した人間の一人がポケットから百円ライターを取り出し、此方に向けて投げる。すかさず三尾のひとつで受け止めた翔は小さな嘆息を零すと折り畳んだ和傘の先端を犯人に向けて大きく一振り。

 刃と化す風は犯人の肉を裂こうとするものの、間一髪のところで前に出た飛鳥が呪符を取り出して術を霧散させた。彼女の背後では犯人が表情を土色に染めている。

 翔が地を蹴って犯人に天誅を下そうとすれば、先回りした朔夜が数珠を巻いた右の手を翳して和傘を受け止める。巨大な妖気と霊気はぶつかり合い、青い火花となって散ってゆく。


「翔さま!」


 木の陰に隠れていた夕立が飛び出す。


「朔夜くん!」


 人間の盾となっていた飛鳥が相棒の名を呼ぶ。

 気の膨張によって力は爆ぜ、目の瞑りたくなる風圧が両者を襲う。

 後転してその風圧を回避する朔夜、和傘を開いて宙に逃げる翔、各々地上空中から睨み合って動きを窺う。

 先に折れたのは妖の頭領だった。夜風に浄衣の袖を靡かせ、宙に浮かんだまま翔は見下ろす人間に告げる。


「お前達の誠意を信じて身を引こう。ただし、蝶化身達の報告次第では白狐は容赦なく動く。それを肝に銘じて欲しい」


 周囲を照らしていた狐火が消えていく。辺りは闇に包まれた。

 けれども妖を祓う忌まわしき人間達の表情は夜目によってはっきり分かる。


「分かった。一件は本当に申し訳ない。人間を代表して謝罪する。以後、この神社は荒さないと此の地を守る妖祓、和泉朔夜が約束しよう」


 真摯に謝罪する妖祓に小さく目尻を和らげると、「改心に期待する」言葉を残して蝶化身姉妹の下に向かう。

 二人の前に下り立つと本当にこれで良かったのかを尋ねた。

 半べその夕立は何度も頷き、命を取るまでの大事ではないと答えた。彼女の姉は柔和に綻んで翔を見つめる。


「十代目。ご足労頂き光栄です。おかげで助かりました。この神社は代々人の世界で暮らす妖達が管理している地でして、卯月の頃は蝶化身一族が守護することになっていたのですが……情けないお姿を見せてしまいましたね」


 そう言って白木(しらき) 時雨(しぐれ)は苦い顔を作る。

 夕立に似て容姿端麗な面持ちをしている彼女だが、妹と違って髪の色が何処となく青黒色がかっている。茶に染めている夕立も本来はこのような髪の色をしているに違いない。翔は姉妹の髪の色を見比べた。


 背後では妖祓の二人が腰を抜かせている人間に立つよう厳しく命じている。

 未だに恐怖の眼が翔に注がれているが、彼等は容赦なく立って散らかしたごみを片付けるように指示していた。


「まったく。僕等が来なかったら、今頃こんがりと美味しく焼けていただろうね。何事かと思ったらこんな騒動を起こして……このまま動かないようなら、一度白狐の狐火でも浴びてきたらいいよ」


「今からでも白狐に貴方達を差し出してもいいよ。存分に雷を浴びちゃう?」


 無理やり足腰を立たせる人間を見る限り、もう大丈夫だろう。後は妖祓が上手くやってくれる筈だ。

 尤も妖祓に警戒心を募らせている姉妹の気は抜けていないようだが。


「後のことは白狐が受け持ちます。二人は帰宅して下さい。今宵はもう荒す者はいないだろうから」


「しかし十代目。此処には妖祓が」


 時雨が憂慮を見せるが翔は安心するように促す。

 妖祓は妖の不俱戴天の敵。不安を抱く気持ちは分かるが、彼等とて馬鹿ではない。妖が人の世界を知っているように、彼等は妖の世界を知っている。無暗に祓えば双方がどうなるかなど容易に予測できるだろう。


 なにより一連の流れで彼等に敵意がないことは一目瞭然。敵対することはないだろう。その旨を伝えると時雨の表情が緩和した。


「お若いのに頼もしい限り。だから貴方様は十代目に選ばれたのですね。やはり産まれてくる我が子の名付け親は十代目にお頼み申したいです」


 すっかり念頭から消えていたが、夕立の姉には近々子が産まれ、翔はその名付け親を頼まれていた。思わず時雨の腹部に視線を流す。


 はて、おかしい。

 妊婦であろう彼女の腹が大きくない。着やせしているのだろうか。


 瞬きして腹部を見つめていると時雨がクスクスと笑声を漏らし、


「知識の点ではまだまだお若いんですね」


 彼女は己の腹部をさすった。


「蝶化身は胎外に子を宿らせるのです。簡単にいえば、卵から生まれるのですよ」


「え、そうなの? ……あ、えっほん。そ、そうなのですか」


 ぽろっと素が出てしまうが時雨は慈悲深い笑みを浮かべ、ゆっくり頷く。


「我々は昆虫の妖です」


 人の世界では通用しない常識外なことをするのだと答え、なんなら産まれてくる我が子の誕生に立ち会って欲しいと片目を瞑った。

 今度こそ間の抜けた顔を作って素を出してしまう翔に、白木姉妹はおかしそうに笑声を零す。十代目は頼れるようでまだまだ、若い白狐だった。




 ※




 約束を結んでいた帰宅の時間から半時も過ぎてしまった翔は、大急ぎで“月輪の社”に向かった。青葉達には十時に帰宅すると言っていたが、事件の後処理を見守っていたせいで十一時を過ぎてしまう。


 今宵は“月の日”。社を開ける大切な日である。

 これは自分の師であり、対となる北の神主が定めているため指定の時刻に遅れてしまえば大変なことになる。よって翔が境内に飛び込むと、剣呑とした面持ちで北の神主が仁王立ちしていた。一目で分かる対の怒り。生唾を呑んでしまったのは言うまでもない。


 後で目いっぱい叱られよう。

 心中で涙を呑みながら翔は北の神主の監視下、駆け足で“月輪の社”を開ける準備をする。

 既に支度を終えている七代目南の巫女は翔の帰宅に安堵と呆れの両方を見せ、松明の準備は終えていること。そして神使が本殿に控えていることを伝えてきた。

 ならば自分はやるべきことを始めよう。

 拝殿の前に立った翔は乱れた呼吸を整えると、大きく深呼吸して境内を見渡す。


 目に映るは整備された平坦な石段の参道。塗り替えられた厳かな鳥居。真新しい松明の木は綺麗に組まれ、静寂な境内は高く昇った月明かりによって青白く照らている。社を囲む木々の葉がこすれ、行く末を見守る紅のヒガンバナが揺れた。

 此処は妖の社。妖の聖地。此の地を守るために作られた神秘の場所。(ゆかり)あって翔はこの社を守護する妖となった。


 静かに参道を歩く。

 両脇に設置された松明は、翔の通り過ぎる風によって熱き炎を上げた。しかしながら、拝殿から本殿にかけての松明は何も生まれず。

 鳥居の右で立ち止まり、左に立つ巫女を確認すると、各々本殿から出てくる社の神使に深く一礼した。


 月輪のように柔らかな光を放つ毛並み。

 妖型のその体躯は人型の大人を二人分は乗せられる。額に埋め込まれた勾玉は月輪の優しい色を象徴しているよう。神々しい体毛を持つ南の神使、銀狐のオツネは境内に降り立つや境内に轟く遠吠えを発する。


 神使を軸に風が生まれる。

 さても不思議なことに吹き抜ける風は残りの松明すべてに火を点し、瞬く間に鳥居を過ぎていく。閉ざされていた結界が消え、本殿に光が溢れ、“月輪の社”は深い眠りから覚ます。

 上体を起こすと鳥居を潜って南の其の地の妖がひとり、またひとり、境内へ足を踏み込む。


 待ち望んでいたのだろう。

 その足取りは早く、表情は穏やか、誰もが鳥居に立つ巫女に、参道を歩む神使に、そして頭領の神主に頭を下げて挨拶を述べる。


 いつ目にしても神々しい光景だと翔は思った。

 未だに己が神に仕えているとは信じがたい。社の目覚めから、神使が社を開けるこの流れが真に神秘的なのだ。

 遅い目覚めにもかかわらず訪れる妖は拝殿に向かい、誰かは参道の脇で出店の準備を始め、誰かは親しき者達と談笑を交わす。

 社は妖にとって崇拝する場であると同時に確かな安らぎの地なのだ。


 予定より半時も遅れてしまったことを参拝客に詫びるが、民衆は笑って許してくれる。

 ただでは許してくれそうにないのは神職の関係者達だ。


 青葉は神主がいつまでも来ないことに冷や冷やしたとお小言を漏らし、帰宅途中に何か遭ったのかと憂慮を向ける。オツネのことギンコからは意味深長に見つめられ、祖母のおばばからは人の世界で何か遭ったのだろう? と確信を掴んだように詰問を飛ばされた。


 なにより恐ろしかったのは己の師である。

 神事については非常に厳しい兄者であるため、翔は相手の威圧的な空気につい萎縮してしまう。


 しかし、間もなくこの窮地を救ってくれる者がいた。白木姉妹と雪之介だ。

 雪之介は一足先に社に向かい、開く時間を待っていたという。また白木姉妹は帰宅後、改めて礼を告げるためにわざわざ社に足を運んでくれた。時雨に至っては腕に我が子になる予定の卵を抱えていた。きっと無知な少年神主に今の我が子の姿を見せてくれようと思い立ったのだろう。


 翔に頭を下げてくる蝶化身二人は、一件のことに感謝を述べる。


「十代目。先程は本当にありがとうございました。どうぞ、これから先も我々をお見守り下さい。我々人の世界に身を置く妖は、人の世界出身の十代目に期待しております。わざわざ人の世界に身を置き、修行をされているのです。両世界にいる妖の安寧を願っているのだと信じております」


 恭しい言の葉を並べ、綻ぶ時雨。


「夕立は今日の翔さまを見てもっとファンになりました。貴方様が人の世界にいる限り、貴方様はどこからでも走って来てくれると知ったのですから! 修行を終えて妖の世界に帰られても、人の世界にいる夕立達をお見守り下さいね」


 大興奮している夕立は「今しばらくは人の世界におられる旨を聞いております」と手を叩いて喜びを露わにしている。 

 畳みかけたのは雪之介だ。ズレ落ちそうな眼鏡を押し上げ、彼は比良利に告げた。


「僕達、人の世界に身を置く北の地に住む妖も願いは同じです。時に人の世界にいる僕達に目を向けて下さいね」


 そっと雪童子が片目を瞑り、此方に笑みを向けてくる。


 当然、翔は察した。

 かの頼れる友人は自分に味方し行動を起こしてくれているのだ。諸手を挙げたくなった。周りの皆が自分の生活を反対しているのだから、これは絶好の機会だ。


 ついつい顔に出てしまい、顔がにやけてしまう。


 聡い猫又や北の神主にはすぐに目論見がばれてしまったがなんのその。翔は白木姉妹達に力強く返事した。


「これからも白狐は見守ります。妖の世界にいる妖も、人の世界にいる妖も。だから安心して下さい。今は未熟の身、人の世界で修行をしている最中ですが、きっとあなた方を導いてみせます」


 してやったりと言わんばかりに満面の笑顔を作ったせいで、保護者や神職達から溜息をつかれ、事情を知っている雪童子は笑いを噛み殺している。

 保護者達は思ったことだろう。この十代目少年神主は例え未熟であろうと、持ち前の悪運だけは強い妖狐。決め事に対しては簡単に屈しない妖だと。


 まったくもってその通り、これが自分の長所であり短所なのだ。一度や二度の命令では絶対に応じない男だと翔は自信を持って言える。


 時雨から我が子となる卵を差し出された。


 恐る恐る手を伸ばしてそれを受け止める。卵はバスケットボールほどの大きさで、見た目以上にずしりと重い。体温もあるようで腕に抱くだけで温かさを感じる。真珠のように光沢帯びており、よく目を凝らすと中には赤ん坊らしき妖が身を丸めて瞼を閉じていた。


 言い知れぬ感動を覚える。この中に確かな命が宿っているのだ。

 妖の誕生は様々で人の文化しか持たない翔にとって戸惑いは多いが、腕に抱く命を目にすると文化などどうでも良くなる。


 小さな命がここにある。それは何にも代えられない喜びだろう。


「普段は蓮の葉の上に寝かせ、成長を見守っています。もう少し大きくなりますよ」


 時雨曰く、赤ん坊の性別は女の子だそうだ。

 殻ごしに伝わってくる強い鼓動に頬を崩し、「誕生が楽しみですね」そう言って卵を撫でる。


「これは張り切って名前を考えないとね。時期名付け親さん」


 雪之介に肘で小突かれる。

 反論したい気持ちでいっぱいになったが、今は口を閉ざして命と向き合おう。これから先、己が見守るであろう一妖の健やかな誕生を願おうではないか。


「青葉。お前も抱いてみろよ。この子、すごく元気がいいんだ。やんちゃだぜ」


「わ、私ですか? でも卵なんて抱いたこと」


 突然の振りに面食らう巫女が遠慮を見せる。


「是非抱いてあげて下さい。巫女さまに抱いてもらえるなんて光栄ですから」


 時雨の後押しにより、青葉が恐々と歩み寄ってきた。彼女に卵を手渡すと、それはそれは割れ物を扱うような手つきで受け取られる。すぐに強張っていた表情が緩和した。命が宿る温かい卵に言い知れぬ感動を得たようだ。

 翔はすり寄って来る銀狐を抱くと、「ギンコも触ってみような」前足を取って卵を触らせた。耳をピンと立て此方を見上げてくるギンコに、「感動だな」目尻を下げて同意を求めた。

 まだ見ぬ妖の子の誕生が本当に楽しみだ。




 側らで見守っていた比良利とおばばは苦笑を零していた。


『分かっていたとはいえ、言うことを聞いてくれない坊やだよ。わたし達の心配すら蹴飛ばしてしまって。困った子だねぇ』


 まったくだと比良利は頷く。


「あやつは逆境に立たされるほど運を発揮する男じゃからのう。身を気遣って妖の世界に戻れと言っておるのにこれじゃよ。あやつをどう説得しようかのう。骨が折れるぞよ」


『そう言うわりには嬉しそうだねぇ比良利』


「ただ我等に従うだけの神主ではつまらぬ。あやつなりの神主道を見せて欲しいものよ。さすれば、わしも張り合いが出るというもの」


 同調する猫又だが、妖の世界に帰還した方が良いという考えはまだ念頭にあるようだ。

 なにせ、南の地はまだまだ荒れた土地。統治には時間を要する。


『ああやって自由に二世界を行き来させる方が、より坊やの成長に繋がるかもしれない。けれど、坊やは妖になって日が浅い。強い妖はごまんといるんだ。その内、欲の強い輩が坊やの隙を狙って宝珠を奪おうとするかもしれないよ比良利。惣七のように』


 おばばの意見に比良利は眉根を寄せる。

 視線を戻すと、屈託ない笑顔で命と触れ合っている少年神主達の姿。ようやく“月輪の社”に役者が揃ったのだ。これから先も顔を揃えて欲しいもの。

 そう思うと若過ぎる妖狐にはおとなしくしてもらいたいが、此方の気持ちを果たして少年が汲んでくれるだろうか。


 比良利は悩む。

 過去の悲しき記憶と希望ある現在の光景を交差させながら。



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