表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ壱】少年神主の日々
97/158

<二>少年神主、就任早々の危機



 ※ ※



 ひらり、ゆらり、其の花弁は淡い薄紅を宿して身が千切れていく。

 一枚一枚はまるで淡い雪、それらが集うと吹雪の幻想に包まれる。かの有名な歌人は其の花に想いを篭めてこう詠んだ。願わくは花の下にて春死なん、その如月の望月のころ――と。

 散る姿が最高に美しいと称され、日本人の心を魅了してやまない花の名は桜。古来より、其の地に住む人間、ヒトではない生き物が愛した花は今も変わらない姿で咲き誇っている。


 彼、南条翔もまた桜をこよなく愛する者のひとりだった。

 人間だった頃はなんとなく綺麗の一言で終わらせていた花だが、今では感嘆の息を漏らすほど桜に魅了されている。要因の一つとして己が妖に種族転換したからだろう。妖は草木を愛でる種族なのだから。


 翔は元々ただの人間だった。一般家庭に生まれた人間の子で、両親もただの人間である。

 転機は去年の如月。妖に襲われ、他の妖に助けられた代わりに己が狐の半妖と化してしまった。運命の悪戯なのか大好きな幼馴染と対峙する関係となったあの冬。幼馴染達は“妖祓”と呼ばれる家業に就き、同じ月日を過ごしていた自分にそのことを隠していた。そして翔もまた“半妖”の事実を隠し、互いの正体がばれてしまう。

 今では翔も南の地を治める頭領。人を守る“妖祓”といつ対峙してもおかしくない立場にいる。幼馴染達もそれは十二分に承知しているが関係は良好だ。あれほど彼等に執着していた翔だが、今では別々の道を歩み、それぞれの生き方を応援している。


 さて翔は人と妖の二世界に身を置いている。

 今春から一人暮らしを始めた翔は夜行性ゆえ朝昼は眠りに就き、夕夜は大学へ通って勉学が終わり次第、“月輪の社”に向かう。明け方まで神主修行をこなして自宅のアパートに帰宅するサイクルだ。

 始まったばかりの生活であるため不慣れなことも多いが、なんとかやっていけると信じていた。己の決めた道に迷いはなく、余裕ができれば人の世界でバイトも始めようかと目論んでいたほど充実した日々を過ごしていたのだが、就任早々問題は起きてしまった。


 一夜を“月輪の社”で過ごした翔は昼過ぎに起床。

 自室として使用させてもらっている畳部屋を出て井戸で顔を洗うと、表の社に向かい(人の世界の神社を指す)、そこに咲き誇る桜を観賞する。

 風吹くたびに散る花弁。それはまるで雪のよう。見事な生き様を花弁に籠めて咲く桜は見るものを魅了するが、昨晩の騒動のせいで翔の心は素直に魅入ることができずにいる。愛用の蛇の目和傘を開き、白髪を微風に靡かせて桜を見上げるが顔はしかめっ面ばかり。口は溜息しか出ない。

 すべて自業自得なのだが、何も帰還命令を出さずとも。翔は困ったと持ち前の耳を垂らす。


「まさか、比良利さんから帰還命令を出されるなんて。どうしよう、対等とはいえ北の神主からの命令は絶対だし……でも、でもなぁ」


 簡単に帰れるほど話は容易くない。

 なにせ、人の世界には自分の両親がいる。諸事情により両親は過剰なまでに息子を構うようになっているのだ。悪く言えば干渉的になっている。やっとのことで一人暮らしの許可を得たものの、唐突にアパート訪問もありえる。

 だから朝昼はなるべくアパートに居たいのだが、比良利達は人の世界で学びを終えたら此方に帰ってくるよう強制してくる。住まいは妖の世界に置けと命じてくるのだ。

 確かに彼等の言い分は分かる。宝珠の御魂が宿っている身の上だ。いつ何時、悪しき妖に狙われるか予想だにつかない。その上、今の神職達は第九代目南の神主の死を経験している。宝珠の御魂を持つ者がいかに身の危険に晒されるか、よく知っているのだ。


 そのため誰もが口を揃えて戻って来いと言ってくる。


 昨日は偶然、帰宅途中に襲われた。

 説得を試みるもまったく聞く耳を持たず、むしろ命を狙ってきたために制裁を下したのだが、そのせいで傷を負ってしまった。大した傷ではなかったため、シャツの下に隠して難を乗り切ろうろしたのだが甘かった。妖狐の嗅覚は翔の血を嗅ぎつけたのだ。また自分も正直な性格をしているため、詰問されると表情に出てしまい事が発覚してしまった。

 就任を迎えて半月足らず、これから南の神主として気合を入れようとした矢先に起きた事件に翔は思い悩む。どうすれば妖達を説得することができるのかを。今回は知恵のある己の祖母まで比良利側なのだ。説得するにも骨を折りそうである。

 そう思う時点で翔も往生際は悪いと言える。


「どうしよう。なあお前、どうすれば皆を説得できると思う?」


 遺憾なことに答えは見つからず、桜の花に尋ねても何も教えてくれなかった。 



 大学は酉の刻、午後六時から始まる。

 先程も述べたように通う大学は昼の部と夜の部が設けられ、翔は後者に通っている。アパートだと五分ほど歩けば着く場所だが、“月輪の社”からだと徒歩二十分は掛かる。自宅だとバス通学になりかねなかったのだがそれは余談として置いておく。

 掛け時計を見るとまだ時間には余裕があったため、翔は朝食を皆と取ることにした。

 今日も食卓は賑やかで翔の他に青葉、ギンコ(本名はオツネだ)、おばば、そしてテーブルの上を走り回る旧鼠七兄弟がいる。猫又が走らないと注意をするとネズ坊達はおとなしくテーブルの上に座ったが、起きたばかりの子供達は非常に元気だ。チュウと鳴いて遊びたいと主張してくる。


 これが“月輪の社”の日常光景だ。

 翔は今日も平和だな、と微笑を零しながら青葉から茶碗を受け取る。

 ネズ坊の一匹が軽やかな足取りで翔の前にやって来た。ネズミ達は殆ど見分けられるようになった。こっちに来るのは七兄弟の末っ子末助だ。いつも翔の傍にいたがる甘えん坊ネズミで、よく翔のものを取ったり、真似をしたがる。早速翔の皿からたくわんを盗もうとしたため、長女であるイチ子が止めに入った。相変わらずのヤンチャものだ。


 一方で膝にギンコが乗ってくる。

 これもいつものことなので翔は気にもせず、箸を取って食事を始めた。今日の朝食は白飯と味噌汁、たくわん。大変質素である。


 けれど仕方がない。“月輪の社”は長年廃れていたせいで金銭的に苦しいのだ。我儘は言えない。

 社も殆ど修繕されたが、家屋は依然ボロのままである。修繕費の問題は勿論あるが、此方は仮住まい問題で修繕できずにいる。

 仮住まいを見つけなければ家屋を“日輪の社”のように憩殿という立派な建物にできないのだ。話を聞くに“月輪の社”にも、かつては憩殿があったそうだが七代目神主の時代に火災があり、なくなってしまったのだという。つくづく南の神主は北の神主に比べて災難が多い。


 改装を望む青葉のためにも憩殿は作ってやりたいのだが。


 静かに味噌汁を啜っていると、「今宵はいつ頃お帰りになるのです?」箸を取った青葉が視線を流してくる。

 妙に台詞に茨が巻き付いているような気がした。恐る恐る彼女を一瞥すると、恐ろしいほど綺麗に微笑んでくる。

 すぐさま味噌汁に視線を戻す。怪我を隠そうとした昨晩の件について怒っているようだ。お椀を置いて膝に視線を落とすと銀狐が意味深長にジッと見つめてくる。可愛いギンコにまでそのような目を向けられるとへこむのだが、これも自業自得だろう。

 とはいえ、そこまで責めなくとも良いではないか。自分だって被害者だというのに!


 ネズ坊達が空気の変化を察したようだ。キョロキョロと自分達の顔色を窺って首を傾げている。

 なんでもないぞ、と笑みを向けた後、翔は答える。


「授業は九時十分に終わるよ。だからこっちに来るのは十時前かな。今日は英語と簿記がぁあぁあああやばいやばいやばい! 英語のクラス分けテストがあるんだった! ちょ、やばい。今何時?! 五時……嘘だろ、あと一時間しかないじゃないか! 勉強もしてねぇし、教科書は家じゃんかよ!」


 血相を変えた翔は味噌汁の入ったお椀を白飯に傾けると、ねこまんまにして急いでそれを口内に流し込む。

 どうしてこう、次から次に問題が出てくるのだろうか。春からまったく休みがない気分である。

 さっさと朝食を終えるとギンコを膝から下ろし、「ごひひょうさまひぇした」素早く立ち上がる。テーブルに膝をぶつけ身悶えてしまうがそれどころではない。クラス分けテストは今後の学校生活を左右する大切なテスト。このテストの結果によって英語の取れる授業が変わってくる。サボるわけにはいかない。

 食器をそのままに自室へ飛び込み、急いで身支度をする。居間に戻って自分はもう行くと皆に伝えた。問題は山のようにあるが優先すべきはテストである。


「十時くらいにこっちに来るから。じゃ、行って来るよ!」


 廊下に飛び出すとおばばが声音を張ってきた。


『こら坊や! ちゃんと変化してから行きなさい。今のお前さんは妖狐だよ!』


 「あ、やっべぇ」耳の生えた頭を抑える翔に、「羽織も忘れていますよ」後を追って来た青葉が紺のカーディガンを広げてくれる。それに腕を通すと他に忘れ物がないかどうかをチェックし、人型に変化できたかどうかも確認。三尾と耳が消えていることを確認すると今度こそいってきますと手を挙げた。

 余所見をしていたせいか、柱に頭をぶつけたのは直後のこと。目から星が飛び出しそうになった。これにはおばばと青葉も笑声を零してしまう。


「慌ててはいけませんよ。あ、そうそう今宵は“月の日”でございますのでお忘れなく」


 月の日とは“月輪の社”が開くことを指す。

 慌てずに来て欲しいと親切丁寧に注意をしてくれる青葉に苦笑いを返し、翔は駆け足で土間に向かう。

 履物をつっかけて今度こそアパートに帰ろうとするのだが、先回りしたギンコがちょっと待ったとばかりに通せん坊をしてくる。

 また何かやらかしたのか。己の身なりを確認していると、ぶすくれた銀狐が尾で足を叩いてくる。頭上に疑問符を浮かべていると、ギンコがしゃがめと尾で命令。言われた通りしゃがんでやれば、鼻先を唇に押し当ててきた。呆けた顔を作る翔に対し、ギンコはご満悦の様子。耳と尾を丸めて気恥ずかしそうにもじもじしている。


 これはもしや、いってきますのキス? 誰の入れ知恵だろうか。


 遠目を作る翔は思った。お前にはツネキという許嫁がいるだろう。こんなところを奴に見られたら殺される! と。

 しかし翔は思いなおす。ギンコの気持ちを軽んじれば痛い目に遭う。今までそうだった。何よりギンコの健気さが可愛い! と。

 気持ちは板挟みだったが、大体こういう場合は後者の気持ちが優る。いつだって翔はギンコ馬鹿なのだ。「帰って来たらうんと甘えさせてやるからな」銀狐を一抱きすると、今度こそ家屋を後にする。三尾の妖狐、白狐の南条翔はどの妖よりも二世界の行き来が激しい妖なのだ。



 ※



「え、就任から半月も経っていないのに危機を迎えているって?」


 大学二号館ロビーのラウンジ。

 無事に一時限目英語のテストを終えた翔は、早めにクラスと退室し友人に悩みを打ち明けている最中だった。

 相談に乗ってくれているのは錦 雪之介。人の世界で生計を立てている人を装った妖。雪童子と呼ばれる雪ん子だ。妖名は雪童子の雪之介と非常に憶えやすい。

 彼は生まれながらの妖で翔の大先輩、また半妖になった自分を支えてくれた大切な友人だった。夜間大学に通うことを勧めてくれたのも彼で、おかげさまで夜行性という障害を乗り越え、なんとか人の世界で生活ができている。

 頼りになる妖の友人に翔は昨晩のことを話し、テーブルに上体を預ける。口から出るのは溜息だ。


「俺が悪いんだけどさ。宝珠の御魂を狙ってきた妖に襲われてしまったことを黙っておこうとしたんだから。でも、だからって……いきなり帰還命令はないじゃんか。こっちには親がいるんだぜ? 二度も悲しませるわけにもいかないし。俺は一人息子だし」


 人の世界にいる両親を思うと翔は言葉も出ない。

 彼等には本当に心配を掛けてしまったのだ。種族が変わってしまったとはいえ、別れるその日までは親孝行をしたいと考えている。

 しかし宝珠の御魂の重要性を知らないわけではない。命を脅かされる現実も確かにあるのだ。比良利達の言い分も理解はできる。


 けれど、急に住まいを移せるほど話は簡単なものではない。


「どうしよう雪之介」


 翔は負傷した左腕を持ち上げ、力なく垂らす。就任早々問題が発生して参っていると苦言を零した。

 ずれた眼鏡を押し上げ雪之介は顎に指を絡める。


「比良利さん達の憂慮は仕方がないことだよ。彼等は九十九年、南の神主を失って苦労している身。宝珠の御魂を持つことが、その妖にとってどういうことなのかもよく理解している。なにより翔くんの安否も考えて連れ戻したい気持ちでいるんだろうね。翔くんはまだ新人妖だもの」


 その証拠にもう耳が出ていると彼が指摘してくる。

 変化が解けかけているのだと気付き、翔は急いで己の耳を両手で隠した。一般人には視えない変化だが、霊力のある人間に見られるとすぐに自分が妖狐だとばれてしまうだろう。尤も霊力のある人間なら相手の妖力ですぐに正体を見破るだろうが。

 妖に成熟した翔の本来の髪の色は白髪である。さすがに髪の色が何度も変化してしまえば一般人でも異変に気付くため、細心の注意を払っているがどうも長時間の変化は不得意だ。雪之介曰く、妖になったばかりだと助言してくれるが、いつ得意になるのか見当もつかない。


「比良利さんはいつまでに移住しろと言っているの?」


「遅くても皐月の終わりには完了しろだって。俺の生活を考慮して人の世界に行くな、とは言わないけれど……あんまり好くは思っていないみたい。昨日は特にそう思っていたみたいで顔に出ていたよ。条件付きではあるけれど、人の世界で生活する許可は貰っているんだけどな」


 比良利は神主修行を最優先して欲しいと思っているのだろう。

 翔としてもそちらを優先したい気持ちはあるが、人の世界は容易く切れるものではない。それは瘴気事件で切に感じたことだ。

 両立は難しいのだろうか。弱音を吐くと、雪之介がおかしそうに肩を竦めた。


「まだ始まったばかりじゃないか。何事も試練はつきものだよ」


「だって今回はおばばすら向こうの味方だぜ? どうやって説得すりゃいいんだよ。両親に一人暮らしを説得することすら骨を折ったのに!」


 嘆いてみせると雪童子は「どうってことない問題だよ」意味深長に口角を持ち上げた。

 それはまるで目論見を秘めた笑み。彼は片目を瞑ると立てた人差し指を口元に持って行き、そっと口角を持ち上げてみせる。何か策でもあるのだろうか。瞬きを繰り返して相手を見つめた。


 だが話は中断される。自分達に声を掛ける者がいたからだ。

 首を捻ると朗らかな面持ちを作って歩んで来る美しい少女がひとり。鼻筋通った顔立ちは西洋の血を思わせる。人工的に染まった茶髪を揺らし、翔の前で立ち止まった。見知らぬ顔だが、初対面ながらも丁寧にお辞儀してくる動作とただならぬ空気によって相手の正体を見破る。椅子を引いて立ち上がった。

 顔を持ち上げる少女は薄唇を動かして挨拶をする。


「お初にお目に掛かります。十代目南の神主、三尾の妖狐、白狐の南条翔さま。名を蝶化身の白木(しらき) 夕立(ゆうだち)と申します。お噂には聞いておりましたが、このようなところでお会いできるなんて光栄です」


 柔和に眦を下げる夕立は蝶化身と呼ばれる妖らしい。

 翔の記憶上、蝶化身とは人の魂が死後蝶の姿になったものだと聞いている。夕立が人だったとは思えないため、彼女の両親、もしくは遠い先祖は人間だったのかもしれない。無論、詮索など無粋な真似はしないが。


「身に余るばかりのご挨拶をありがとうございます。しかしながら、此処は人の世界。畏まった態度はご無用です。どうか一大学生として接して下さい。私……いえ、俺としてもその方が望ましいので。だから此処では生徒同士でお願いな」


 砕けた言葉遣いにすると夕立が安堵の表情を見せた。

 どうやら畏まった態度は頭領に対する緊張からきていたもののようだ。親しみやすさを覚えたのだろう。


「じゃあお言葉に甘えて」


 夕立の言葉遣いも砕ける。翔としてもその方が気苦労せずに済む。


 実はこの大学の夜間部には人に紛れて生活している多くの妖達が通っており、人の世界で暮らす妖のことを知りたい翔にとって絶好の語り場であった。

 神主に就任してからというもの夕立のように畏まった挨拶をする者が多いのは難点だが、妖達と交流する機会が増えることは非常に喜ばしい。大学にいる間はできるだけ多くの妖生徒と接することができれば、と考えている。


「やあ」


 傍観者に回っていた雪之介が彼女に挨拶をする。彼の友人だったようだ。

 なら、早く言って欲しいものだが自分は頭領であるため夕立の態度は当然のことだろう。細かいことは流すことにした。

 夕立から同席しても良いかと尋ねられたため、翔は頷いて椅子に座るよう促す。完全に気が抜けているわけではないようで彼女はぺこぺこと頭を下げて椅子に座った。


 こうして三人で会話をすることになった翔は同じ部として早速世間話を切り出そうと考える。

 手始めに英語のクラス分けテストでも、と思ったのだが、流れは思わぬ方向に変わる。前触れもなしに夕立の頭からにょきと二本の触角が生えて言葉を失ってしまったのだ。相手は蝶の化身であるため、変化が解けかけているのかもしれない。翔でいう尾と耳が出てしまうようなものだ。

 真っ白なロングスカートの裾をなおす素振りを見せる夕立が此方を一瞥してくる。熱い眼が投げられた。彼女と視線が合うと相手が俯いてしまう。


「雪之介くんの言う通り、凛々しい妖狐さまで。夕立は感激です」


 開口一番に、このような感想を述べられてしまい言葉も出ない。

 目を白黒させてながら雪童子に視線を流せば、「彼女は君のファンなんだよ」とのこと。

 間の抜けた声を出す翔の傍らで赤面した夕立が恥ずかしいとスカートを持ち上げ、顔を隠そうとする。大変である。それでは下着が見えてしまいかねない。嬉しい状況ではあるが、此処は公共の場。そういうサービスは如何なものだろう。彼女に急いでスカートを下ろすよう告げると、我に返った夕立がスカートをなおして身を小さくする。表情は熟れたトマトのようだ。仕舞には大きな翅を背中から生やし、体全体を青い翅で包んで隠してしまう。

 本当に自分のファンなのだろう。しかし、何を思ってファンになっているのか翔は見当もつかない。


「え、あ、うんっとまずは落ち着こう。その翅と触覚は仕舞って。えーっと、なんで俺のファンに?」


 まどろっこしい尋ね方は不得意であるため、単刀直入に質問を投げる。

 夕立は間髪を容れずに答えた。曰く、先日の本就任を目にした瞬間からファンになったそうで、なんでも彼女は本就任で目の当たりにした十代目の神主舞に一目惚れしてしまい、それからというもの毎日のようにあの舞を思い出しては溜息をついてしまうそうな。つまるところ翔のファン、というより、神主舞のファンだという。

 だったら自分よりも比良利の方が上手いのだが。己の舞は粗さが目立つのだから。

 しかし夕立はそれが良いのだと熱弁した。十代目の舞は大きく激しく荒々しい貫禄のある演舞で見ている者を魅了していた。自分もそうだと言い切り、「翔さまは美しかったです」翔の両手を掴んで強く握り締める。


「貴方様の神主舞は非常に感動いたしました。雪之介くんに頼んでDVDに焼いてもらったほど、優美で軽やかで美しかったです」


 「でぃ、DVD」雪之介を睨むと、「デジカメに映していたからね」悪びれもない様子で親指を立てる雪童子。

 興奮しているのだろう。夕立は翔の手を握ったまま、腕を上下に激しく動かす。


「まさか翔さまと同じ大学に通えるとは思わず、それを知った日には感激のあまりに一睡もできませんでした。家族に話すと、それはそれはめでたいと喜びの嵐。夕立には姉がいるのですが、是非十代目に名付け親になってもらおうとお話が挙がりまして」


 蝶化身の話が支離滅裂になって意味が伝わってこない。

 なさがれるままになっていた翔は名付け親という単語に反応し、それはどういう意味だと夕立に説明を促す。

 大興奮している彼女は言う。初夏頃に姉夫婦の間に子供が生まれるのだが、その名付け親を十代目に頼もうという話が挙がっている。百年の節目を迎えて新たな神主が誕生した年に、我が子が生まれる。更に今春から一族の一人が十代目と同じ大学に通い始めた。これは良き縁だと両家族は口を揃え、名付け親の依頼を決めたそうだ。

 近々“月輪の社”が開く日に依頼しを頼もう。此の地を守る神主に名を付けてもらえるなら、これ以上の幸せはない。夕立は意気揚々と説明し、翔に笑顔を向けた。


「なので翔さま、その時はお願い致しますね」


 美少女の笑みも右から左に流してしまう。

 誰が、誰の、何をするって? 翔は混乱していた。非常に混乱していた。

 取り敢えず、口から出たのは名前の呼び名を別のものにして欲しいという要求である。さすがに学校で様付けは居た堪れない。

 傍観者となっている雪之介が笑いをこらえている中、「あ。もう一つ」パッと手を放した夕立が己の手提げ鞄から手帳とボールペンを取り出し、素早く翔に差し出した。


「これは?」


 指さして尋ねると夕立は意を決したような面持ちを作り、ゆっくりとこう言ったのだった。


「サインを下さい。できれば夕立の名前とセットで」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ