<一>北の神主、夢を見る
――此の噺を紐解く者に言っておこう。
此れは妖になり、其の地の頭領となった十代目南の神主の噺。書物に載ることのない、少年神主期の断片である。
決して語り継がれることのない、最年少神主の話をここに記す。
其の北の地を統べる四代目北の神主、六尾の妖狐、赤狐の比良利は懐かしき悪夢によって目を覚ます。
時は午の刻。
妖である比良利が目覚めるには、随分と早い起床だった。
「夢じゃったか」
日の光を遮る障子を一瞥、掻いた寝汗をそのままに、忙しなく呼吸を繰り返す。気が落ち着いたところで、酷い喉の渇きを感じ、掛けていた着物から抜け出す。
枕元に置いていた盆から白磁の水差しを手に取り、それを口元に運ぶ。
「味が悪い」
ただの水に苦味を感じた。まるで己の心情を表しているようだ。
(久しく惣七の夢を見た)
それは夢でなく、過去の記憶。
百年ほど時を遡った、対の哀れな最期。
誰からも鬼才と謳われていた九代目南の神主、四尾の妖狐、白狐の天城惣七。将来を期待されていた九代目南の神主は、かくも儚く命を散らして、この世を去った。私利私欲にまみれた輩達の手によって。
自分は対を救えずに、黄泉の国に旅立つ彼を見守ることしかできなかった。
水差しを盆に戻して障子を開ける。
眼球を刺すような、眩い日光が比良利の目を晦ませた。強い夜目を持つ妖狐には、些か眩しすぎる光だ。
(惣七を失い、今年で百余りひとつ。百年の節目に新たな対を手に入れ、今春より我等は日月の神主となった)
此の地、南北を治める頭領が揃ったのは、百年ぶりのこと。
九十九の年、南の地の頭領は不在であった。其の地に広がっていた妖の神聖な地“月輪の社”の威光は廃れ、悪しき妖は増えた。我こそが此の地の頭領だと傲慢に名乗り、傍若無人な振る舞いをする輩が後を絶たず、残された神職達が芽を摘もうと奔走した日々。
早く十代目南の神主が現れることを、比良利は願っていた。妖の安寧秩序を守るためにも、先導する妖が早く現れて欲しいと切願した。
そして現れる、新たな南の神主。
宝珠の御魂が選んだ妖は、齢十七のヒトの子。
なりゆきで妖になったヒトの子だった。
比良利が彼と出逢った頃は、頼りがいのない半妖少年で、齢十七という若さに声を上げて驚いたもの。
しかし宝珠の御魂が何故、彼を見定めたのか、比良利は薄々意図を感じ取っていた。
何事にも人任せの少年は、己のことを自分で決めかねる性格をしていたものの、ヒトと妖、両方を愛せる者だった。
また目的ができると、信じられないほどの力と貪欲を発揮。人三倍努力を惜しまない子どもとなった。
後に十代目南の神主と呼ばれるその子どもは、九代目南の神主代行を務めきり、妖達を守るために立派に責任を果たしている。
其の子の名は、三尾の妖狐、白狐の南条翔。
今年で齢十九。最年少神主であり、南を統べる頭領。比良利と魂で結ばれた、双子の存在だ。
紅の宝珠の御魂を宿す比良利に対して、彼は白の宝珠の御魂を、体内に宿している。
かつて九代目南の神主に宿っていた宝珠は、少年に受け継がれている。喜ばしい反面、抱く憂慮も多い。
着替えるために部屋へ戻る。
雪のように白い浄衣に身を包むと、井戸で洗顔をし、修行の間として使用される行集殿に籠る。
あのような悪夢を見た手前、ふたたび床に入る気にはなれなかった。冷静を装っているようで、心は嵐のように乱れていた。
例の悪夢はいつ見ても、心が荒れる。
夕暮れまで瞑想を行う。
日が傾き始めると、愛用の和傘を片手に行集殿を出て、参道へと赴く。静寂を保っている境内を一望すると、起床した北の巫女が松明の準備をしている。
この社の神使は本殿にいるのだろう。姿は見えない。二尾の妖狐、ハイイロギツネの紀緒が比良利に気付く。
「比良利さま、ご準備を」
軽く会釈してくる彼女が、松明から離れる。
整った灯りを確認すると、比良利は拝殿から出入口の鳥居に向かう。両脇に設置された松明は、比良利の通り過ぎる風によって熱い産声を上げた。
しかしながら、拝殿から本殿にかけての松明は何も生まれずにいる。
鳥居の右で立ち止まる。
見計らったように左側に、紀緒が立つと、各々本殿から出てくる社の神使に深く一礼した。
すると、本殿が開かれ、中から神のつかわしめが現れる。
日輪のように光り輝く毛並み。その体躯は、人型の大人を二人分は乗せられる。額に埋め込まれた勾玉は日輪の赤く燃える色を象徴しているよう。
神々しい体毛を持つ北宝珠の神使、金狐のツネキは、境内に降り立つや、境内に轟く遠吠えを発する。
神使を軸に風が生まれる。
吹き抜ける風は残りの松明すべてに火を点し、瞬く間に鳥居を過ぎていく。閉ざされていた結界が消え、本殿に光が溢れ、“日輪の社”は目を覚ます。
今宵も妖の時間がやって来たのだ。
丸い月が社を見下ろす中、鳥居を潜って境内に入って来る妖達に一礼。挨拶を交わし、比良利達の時間は始まる。
拝殿に行く者。参道の脇で出店を構える者。親しい者と顔を合わせるために来た者。様々な目的をもって、妖の社を訪れる民達の表情は明るい。
特に今春はその表情を持つものは多く、比良利は彼等の幸を目にする度に頬を緩める。
「今晩は、比良利さま。今宵“月輪の社”は開くでしょうか?」
時折、こうして妖が疑問を投げてくる。
南の地に十代目が就任した今、此の地の社は“日輪の社”のみならず“月輪の社”も挙げられる。
しかしながら、十代目は若過ぎる。
ゆえに“日輪の社”のように毎晩開くことはない。少年が立派に成長し、己に頼らず其の地を統治できるまでは、比良利が“月輪の社”を開ける日を定めている。
言い換えれば比良利が定めた日しか開くことはない。
今宵は“月輪の社”を開けず、十代目を“日輪の社”に呼んで、己の下で学ばせる日だ。
その旨を妖に伝えると、微笑ましそうに言葉をねぎらってくる。
「これからが楽しみですね。我々も、僭越ながらお支えになりたいと思っております。どうか、お二人で末永く此の地を見守ってやって下さいまし」
嬉しい限りだ。
悪夢を見たせいか、今宵は妖達との交流が三増し楽しく思えた。
鬱々とした夢を晴らす一番の手は、こうして妖達と交流することだと、比良利は考えている。積極的に声を掛けてくれる民達に会釈し、近状を尋ね、今後の安泰を願い合う。
己の心情を見透かしていたのだろう。
聡い巫女が苦笑いを零し、「少し休まれてはどうですか?」と、体を気遣ってくる。傍らに立った金狐からも、そうしろと言わんばかりに尾っぽでふくらはぎを叩かれた。
これはこれは。昼間から起きていたことがばれているに違いない。
比良利は苦笑を返して、その場を凌ぐ。まだまだ自分も、幼稚な一面があるものだ。
『比良利。比良利はいるかい!』
戌の刻のこと。
境内に一匹の妖が飛び込んで来る。しゃがれた猫の鳴き声で、すぐに誰のものなのか理解した。
丁度、注連縄の修繕を相談していた比良利は、職人に後ほど話をしようと告げて、声主の下へ歩む。
比良利を呼んだのは四尾の猫又、キジ三毛のコタマだった。
“月輪の社”に住みついている節介ばあさんで、幼い月輪の神職達の世話をしている。愛称はおばばだ。
急ぎの用事なのだろうか、おばばの息がやや上がっている。
「如何した。お主らしくもない」
屈んで相手と目線を合わせた比良利は、猫又婆に質問を投げる。コタマのことおばばは息を整えると、困ったような面持ちを作り、真っ白なヒゲを垂らした。
『今すぐ、わたしと来ておくれ。翔の坊やが怪我を負ったんだ』
背筋が凍る。脳裏に悪夢が過ぎった。
心情を面に出さず、詳しく話してくれるように頼む。
曰く、怪我を負ったのは先程のこと。ヒトの世界で学びを終えた少年は“月輪の社”に向かう途中、悪しき妖に襲われたのだという。
おおよそ、彼の中に眠る宝珠の御魂が狙いだったのだろう。
十代目は襲われたことや、怪我のことは黙っておくつもりだったようだが、“月輪の社”にいる巫女と銀狐に見事に見破られ、手当てと説教を受けている最中だそうな。
そこまで話したおばばは嘆息をつき、頼み事を持ちかけてきた。
『坊やの住まいを“月輪の社”に移すよう、お前さんから説得して欲しいんだ。宝珠の御魂を持った坊やがヒトの世界で暮らすのはあまりにも危険。ヒトの世界は“妖の器”期や神主出仕の頃のように、のんびり暮らせる世界じゃあない。悪意ある妖やヒトがはびこっている世界だよ。卯月の頭から十代目に就任した坊やの顔は、既に妖達に知れ渡っているからねぇ』
いくら二世界の共存を願っているとはいえ、十代目は妖になったばかりの少年。未熟も未熟。智や力のある妖には負けるだろう。
ヒトの世界に住まいを置いていることがばれでもしたら、ここぞとばかりに輩は襲撃するに違いない。
反面、社であれば神使の厚い結界があるため、就寝中等で襲われる心配はない。
心配性の猫又は繰り返し、ヒトの世界で暮らす十代目の住まいを移すよう説得して欲しいと頼んできた。宝珠の御魂が狙われ、若い命が消えていく苦い経験はもうしたくないとおばばは主張する。
異論のない比良利は承諾した。
これは対としても、神主の兄分としても、決して見過ごせない事態である。
「今すぐぼんのところに行こう。紀緒、後のことは頼むぞよ」
猫又を肩にのせて比良利は鳥居をくぐる。
外界に出ると石段を下り、地上で待ち受ける鳥居を軸にして反時計回りに8の字を描く。そして再び石段に足を掛け、一段越しに段をのぼった先に現れるのは“月輪の社”。
去年とは比べ物にならないほど、綺麗に整備された社の敷地に足を踏み入れた比良利は、住まいとして使用している家屋へ向かう。
おばばが肩から飛び降り、対のいる部屋まで誘導してくれた。
どうやら少年神主は自室にいるようだ。障子の向こうから声が聞こえる。
「あ、妖の世界に住まいは移せないんだって」「私は譲りませぬ。早急にお帰りください」「青葉さん。勘弁してくれよ」「心配してのことです」「わ、分かるけど」「ヒトの世界は危険です」「次から気を付ける、じゃダメか?」「翔殿。オツネが怒っていますよ」「ぎ、ギンコ! 睨むなって!」
おやおや。大層なことになっているようだ。
比良利は溜息をついた。
あの少年を説得するとは言ったが、彼の頑固さは鉱石よりも硬い。脅す手も使えるが、それで折れる対なら苦労はしない。
(さて、理想に貪欲な我が双子をどう説得しようかのう)
脳内であれこれ考えながら、比良利は障子を開けた。
目に飛び込んできたのは腕を組んで眉をつり上げている一尾の妖狐、キタキツネの青葉。耳を立てて憤っている南宝珠の神使、銀狐のオツネ。
そして彼等の威圧的な空気に身を萎縮させている、幼き南の神主。
話によると左腕を切られたようで、そこに目を向けると包帯を施されていた。思わず唸ってしまう。悪夢と現が重なる。
「比良利さま。お待ちしておりました」
比良利の登場により、ホッと安堵した表情を作る青葉とギンコだが、少年神主は引き攣った面持ちを浮かべていた。
「げっ。比良利さんを呼ぶとか卑怯だろ」
何故、比良利が現れたのか、容易に想像できたのだろう。
「お、俺! 着替えてくる!」
大慌てで立ち上がり、少年神主はさっさと部屋から逃げようとする。そうは問屋が卸さない。すでに浄衣に着替えているくせに、今さら何に着替えようと言うのか。
比良利は六尾の三つを伸ばすと、脇をすり抜けようとする十代目の腰を拘束。半ば強制的に部屋へ連れ出し、歩き出した。
「わわわっ! どこに行くんだよ。比良利さん!」
「文殿じゃ。お主に神主とは、何たるかを叩き込まねばならぬ」
「今日は日輪の社で、学ぶ日じゃんかっ! 俺、みんなと交流したいよ。神主のことは明日に回そうよ」
嫌な予感を抱いたのか、必死に逃げ出す口実を述べてくる。ちらりと、少年神主を一瞥すると、見事に石化した。恐れているようだ。
そのような顔をしているのだろう。
「十代目、南の神主。我が対よ。そこに座るが良い」
文殿に着くや、比良利は奥の床板を指さし、そこに座るよう命じる。尻込みする素振りが見受けられると、もう一度座るように命じる。
今度は素直に従ってくれた。恐怖しているのだろう。正座をする彼は縮こまっている。ついでに耳と尾っぽが、ぶるぶると震えている。
(叱られる自覚があるのならば、此方の要求に応じてくれたら良いものを)
比良利は二度目の溜息をついた。
今か今かと言葉を待っている十代目、三尾の妖狐、白狐の南条翔と向かい合う。
「翔よ」
名を呼ぶと相手は、千行の汗を流し、さっと視線を逸らしてくる。こういうところは、年齢相応の子どもである。
あと百年は独り立ちできないだろう。
「翔。何故わしが此処に来たのか、もう分かっておるのう?」
十代目はぶつくさと小声で文句を垂れた。
「神主が何たるかを教えるためって言ったの、比良利さんじゃん。それ以上のことなんてないと思うけど。俺は日輪の社に行きたいって言ったのに」
この期に及んで、この言い草である。聞こえない前提で言ったようだが、遺憾なことに狐は五感のどこよりも耳が良い。
「ほほう。我が対よ、不満があるようじゃのう。はっきり申してみよ。この比良利、どのような話でも耳を貸そうぞ」
やんわり頬を持ち上げて見せる。ひえ、少年神主は悲鳴を上げた。
「うそですごめんなさい。俺が怪我をしたから来られたんですよね? 分かってますんで、その笑顔はご勘弁を。比良利殿、目が笑っていませんから」
十代目は血相を変えて謝罪をする。
これ以上はカミナリが落ちると見越したのだろう。最初から素直に答えれば良いものを。やはり十代目は、まだまだ少年である。
単刀直入におばばの提案を受け入れるよう話を切り出す。
途端に十代目の口が一の字になり、かぶりを横に振った。
自然と三度目の溜息をついてしまう。
だから対の説得には骨が折れるのだ。意思の固さは赤狐も恐れ入る。二世界の共存を願い、百年は人の世界で暮らし、そこにいる妖達を見守りたい。生活を知りたい。
そして共存の糸口を見出したいと切に思っている少年だ。簡単に折れないことくらい十二分に分かっている。分かっているが、頑固さならば比良利も負けていない。特にこの一件は見過ごせないのだ。
少年の気持ちを汲んで、ヒトの世界の滞在を許可したが、命が危ぶまれたというのならば話は別。あの悪夢はもしかしたら、彼が怪我を負うと警告するものだったのかもしれない。
比良利はもう、同胞の、大切な片割れの不慮の死を見たくはなかった。
「己が此の地の頭領だということを、まずは自覚せえ。何ゆえ、多くの同胞がお主の就任を祝福したと思っておる。就任から半月足らずで、同胞から怪我を負わされたなど聞けば、妖達はまたあの頃のように。頭領不在の日々を過ごすのではなかろうかと不安を抱きかねぬ」
ようやく自分達を先導してくれる新たな神主が現れた。南の地に住む妖達は平穏を望み、希望に満ち溢れた未来を少年に託している。
きっと立派に成長して自分達を先導してくれるだろうと誰もが願っているのだ。
それを一件で壊すわけにはいかない。心を鬼にして少年神主に命じよう。
「よいか翔、お主の行動一つひとつが、妖達に大きく影響されることを忘れるでない。襲撃されたことを我等に黙秘しようとするなど言語道断。己の未熟さと立場を知るがよい。六尾の妖狐、赤狐の比良利は命ずる――直ちに妖の世界に戻られよ。直ちにじゃ」