<十>十代目南の神主(弐)
寅の正刻。
ひと時とも言える妖達の交流を有意義に楽しんだ翔は、文殿で打ち合わせを済ました比良利から字と数を教わっていた。
翔が使用している字や数と妖達の主流としている字や数は違う。文書のやり取り、文殿に納まっている巻物や和書の殆どが崩れ字であるため、翔は一から字を教わっていた。筆すら持つ機会が少なかったため、墨で字を書くのも一苦労である。
その一方、数の方は覚える単位が異なるだけでそう難しくはない。難なく乗り越えることができた。
就任のために神主舞や龍笛といった稽古を半年以上続けてきた翔だが、こういった知識も神主には必要だと知っている。
比良利に頼んで今までは受験を優先すべく知識の部分は避けてきた。必要最低限、覚えるべき薬の基礎調合のみを頭に叩き込んでいたのだが、受験を終えた今、翔は少しずつ妖の文化に触れている。
(んっ、あれ?)
休息を取ろうと比良利に言われ、一息をついていた翔は、いつの間にか閉じていた瞼をそっと持ち上げる。
どうやら床に寝転んで眠りこけていたらしい。
しまった、休憩を取る筈が睡眠を取ってしまった。まだ学びの途中だというのに。
今日は体を動かすような稽古など何一つしていない。これでは気が弛んでいると北の神主から叱られてしまうではいか。
早く起きなければ、頭で急かすものの体は沈むばかり。疲労しているのだろうか? 寝返りを打とうにも思うように動いてくれない。微かに体を動かすと、肩にかかっていた毛布がずり落ちる。外気温の冷たさに尾が震えた。
と、二本の赤い尾が毛布を引き戻してくれる。誰の尾か、見ずとも分かった。
「よくお眠りになられていますね。翔さま」
背の向こうでまるび帯びた声が聞こえる。
宜しいのでしょうか。まだ学びの途中なのでしょう?
疑問を投げかける北の巫女に、「よい」そのままにしておけと北の神主。声を聞く限り、怒ってはいなさそうだ。
比良利は酒を仰いでいるようで、鼻腔にツツジの甘い香りが纏わりつく。喜一の店で買ったツツジの甘酒だろう。
「休みも学び。どう虚勢を張ろうが、ぼんはまだ齢十七じゃ。この一年で多くのことを学ばせ過ぎておるからのう。コタマに毎度の如く叱られておるわい。五十年は一妖の時間を持たせておくべきではないか、と」
「そうですね。彼はまだ妖になって一年ですから――焦られておるのですか?」
遠慮がちに紀緒が問う。
比良利が対を失い百年が経つ。片割れを失ってもなお、南北を治めてきた四代目北の神主。
そんな彼の前にようやく現れた宝珠の御魂を宿す若年の妖狐。
一刻も早く南の神主に育てたいのか、妖達を安心させたいのか、彼女が声を窄めた。紀緒もまたおばばの考えに賛同しているのだろう。もう引き返せないと分かっていつつも、今年の四月に就任させるのは早過ぎなのでは、と意見した。
妖の五十年などあっという間だ。待つことはできなかったのか。言葉を重ねる紀緒に、比良利はくぐもった笑声を漏らす。
「わしもぼんの成長を待つべきじゃと思った。五十年かけて下準備をすれば、今のような苦労を翔に背負わせることもなかったろう……じゃが、五十年も待てぬのじゃよ。どうしても」
焦りからではない、大きな期待が己を急かすのだと比良利。
妖の器になった人の子が三ヶ月足らずで代行を務めたいと自分に頭を下げ、見事に厳しい稽古をこなした。
九代目代行として妖を愛し、人を愛し、双方の共存を胸に宿した少年。自分が倒れてもなお、怯まず己のできることを精一杯しようと奔走した。嗚呼、神主に必要な素質を十分すぎるほど持っている少年と共に南北の領地を安寧に満たしたい。彼ならきっとそれだけの力を持っている。
どうせ神主になるのならば時期は早い方がよい。
神主になることで今以上に多くのことを学ぶだろう。傷付き、挫折することもあれば、これ以上にない至福を味わうこともあるだろう。
神職は経験が物をいう。若いうちから多くのことを経験して欲しい。この子供なら必要に応じて学んだことを吸収するだろう。比良利は一笑した。
「今はわしの背を追い駆けておるぼんじゃが、こやつはすぐに追いついて来る。胸に刻んだ理想のために。妖の器になって三ヶ月足らずで代行を務めきったのじゃから末恐ろしい子供じゃ」
鬼才と呼ばれた天城惣七も舌を巻くほど、この子は理想に対しての欲が強い。
「わしも日々精進せねば追い越されるのう。腹を決めておかなければ」
「そう思われるのなら、少しはその助平心をどうにかして下さいね。青葉が心配しておりましたよ。翔さままで助平になったらどうしましょう、と。あなた方は本当に気質が似ていますから。理想高いところといい、己を蔑ろにするところといい、人三倍努力するところといい」
「……褒めておるのか? 貶しておるのか?」
「さあ、どちらでしょう。ただ子供は貴方を尊敬していることには違いないのですから、それなりの振る舞いは見せて下さいね」
日月の神主は助平の神主だ、など呼ばれた日には恥ずかしくて表も歩けないと紀緒。
手厳しい奴だと鼻を鳴らす比良利から乾いた音が聞こえたのはその直後。
大方、紀緒の尻を触ろうとして手を叩かれたのだろう。近い未来、自分もそうなってしまうのだろうか? 翔は己の未来を想像して苦い笑みを噛み殺す。幾ら尊敬しているとはいえ、そんな自分になるのだけは願い下げである。
「紀緒。翔はわしが責任を持って南の神主に育て上げる。兄分として、しっかりと。南の神主が短命と呼ばれる代は天城惣七で終わりじゃ。南条翔の代からは短命などと言わせぬ。わしが生きているうちは言わせぬよ」
不意に替えられる話題。
鼓膜を振動させる北の神主の決意は何処となく悔いを滲ませていた。
「不覚にも翔が御魂封じの術を使ったと知った時は、肝が凍りついた。何故惣七が死に際に使った術をこやつが使うのじゃと……この時ばかりは神に文句を吐きたくなった。齢十七に何を背負わせているのじゃと。代行に任命した己自身にすら嫌悪したのう」
「……比良利さま」
「就任する翔にはまず妖達から多くの祝福を受けてもらい、愛されていることを知ってもらわなければならぬのう。再び愛が哀に変わらぬように、愛される意味を知る必要がこやつにはある。御魂封じの術も安易に使わせぬ。こっ酷く叱っておいたから早々に使うことはなかろうがのう」
本当にそうだ。
比良利は予告どおり、容赦ない雷を落とし、勝手に御魂封じの術を使った翔と、その術が載った本を私的に使用した青葉を縮みこませたのだから。
「そのお言葉、私こそ貴方様に向けたいものです。貴方様が倒れられた時、妖達の愛は哀に変わっていた。そのことをどうぞご自身の胸に刻んでおいて下さい」
「ふふっ、すまぬのう紀緒。心得ておこう」
翔は気付いてしまう。
犬猿の仲と称されようとも比良利は対を大切にしていたことを。
口を開けば相手の悪口ばかりの彼だが、心の奥底では対を救えずにこの百年、ずっと悔やんでいたに違いない。
だからこそ短命など言わせないと口にするのだろう。嗚呼、本当にどいつもこいつも人の寿命ばかり気にするのだから堪ったものではない。言われずとも長生きしてやろうではないか。悪運だけは一丁前に強いのだ。長生きする。きっと自分はしぶとく長生きしてみせる。
すっかり起きる機会を見失ってしまった翔は苦々しく笑い、そっと瞼を下ろした。
多くのことを学び過ぎて知らず知らずの内に疲労困ぱいしている自分を労わるために、どっぷりと休むことにしよう。それを師である比良利も望んでいるのだから。
なんだかんだで子を気遣い、北の神主は甘えさせてくれている。まだまだ対等と名乗るには程遠い存在だ。前を歩く彼はまるで兄のような存在であり、父のような存在だと翔は思ってならない。比良利に言えば大層怒るであろうが、彼は実父よりも年上なのだからそう思われてもしょうがないだろう。
けれど、いつか必ず彼の隣に並ぼう。こつこつと努力を積み重ね、必ず、隣に。
毛布に顔を埋め、今度こそ翔は深い眠りに就く。思いのほか、眠気はすぐにやってきた。
だから夢路を歩き始める翔は知らない。
「狐が狸になりよって」背後を一瞥する北の神主が笑声を零しながら、甘酒の入った器を傾けていたことを。毛布から飛び出している三尾を六尾が何気なく中に入れてくれていることを。そして北の巫女に揶揄されていることを。
「すっかり親心が芽生えましたね。比良利さま」
比良利がどのような表情を浮かべたのかは謂わずも、であろう。