<七>季節は過ぎ行く(弐)
夏休みに入ると本格的な受験勉強に突入する。
家庭教師一本だった飛鳥も今季は予備校に通い、懸命に勉学に勤しんだ。
学力を上げておけば、進路の幅も広げることができる。
国立に行くのか、私立に行くのか、はたまた専門学校を選ぶのか、未だに決めかねているが、大学ならば学部は人文だと決めている。専門学校ならば何だろう? ファッションや化粧が好きだから、そういう系統の道だろうか? 最後に妖祓については、ただただ口が堅くなるばかり。考えることすら放棄していた。
予備校には朔夜も通っていた。
春季講座に通っていた彼は夏季も継続して予備校に行くことを決めていたらしい。腹立たしいことに飛鳥の嫌っている米倉もいたため、毎日がストレスだった。飛鳥よりも上のクラスにいる米倉は顔を合わせる度に、「愛しの和泉くんをお探しか?」と茶化された。
舌を出して負けん気を見せると、俺より頭が良くなってからそういう態度を取れと言わんばかりに手で払ってくる。
絶対に見返す。決意を胸に刻んだ飛鳥は、その夏の中間クラス替えでBクラスからAクラスに上がり、見事に米倉や朔夜と同じクラスメートになることが叶う。
人を小ばかにする米倉にどうだと鼻を鳴らせば、意外なことに。
「へえ、楢崎もやりゃできるじゃん」
彼から素直に褒められた。
悔しがる様を想像していたため、この結果には拍子抜けである。
ちゃんと相手を褒めることができるのか。気に食わない米倉に失礼な念を抱いていた飛鳥だが、彼は朔夜よりも学力が高く、クラス内ではトップ3に入る実力の持ち主だと知ってしまい、やっぱりあいつは腹立たしい存在だと怒りを噛み締めた。
ただの八つ当たりだということは分かっていたが、見返せると思っていただけに彼の高い学力に地団太を踏んでしまう。
予備校の帰りになると決まって朔夜に米倉は気に食わないと不貞腐れた。
彼は苦笑いばかり零していたが、ちゃんと自分の相手をしてくれる。しかし米倉の擁護も忘れなかった。
「合コンのイメージしかない米倉だけど、あいつの予習復習は凄いよ。最近では僕よりも先に来て自主勉しているから」
人は見た目じゃないようだ。
イマイチ米倉の自主勉姿が想像できなかった飛鳥だが、それから幾日の夜。考えが180度変わる。
予備校から帰っていた飛鳥は、その夜も朔夜と共に帰路を歩いていた。日が沈んでも蒸すような空気に、まるで熱帯夜だと感想を述べながら彼と共に帰っていると何処からともなく桁違いの妖気を感じた。覚えのある妖気に顔を見合わせ、駆け足で感じる方向へ。
妖気は団地の公園から漂ってくる。
見えてきた公園の敷地に視線を留めると、ひとりの少年がTシャツにジャージとラフな格好で中央に立っていた。
扇子を両手に持つ少年は本来の姿に容を変え、大きく飛躍。それを流すように動かし、弧を描きながら舞を踊っている。
「ショウくん」もうすぐ日付が変わるのにあんなところで何を。飛鳥の疑問に朔夜が人差し指を立て、静かに見守ってやろうと耳打ちをしてくる。
視線を戻す。幼馴染は弧を描くように舞を踊っているが、その動きは危うい。足が縺れ転んでしまう姿に思わず駆け寄りたくなったが、朔夜に腕を取られてしまい、近寄ることすらできなかった。
止める理由を目で追及していると、「畜生が!」幼馴染の盛大な悪態が聞こえてきた。
上手く舞えない。今以上に上手く舞えない。就任式まで時間がないのに。そう言って手当たりに次第、地面の砂を握ると前方に投げて激情をぶつけている。
興奮しているらしく彼の体毛は逆立っていた。
尾を強く地面に叩きつけ、自分の不甲斐なさに嘆く幼馴染は持っている扇子すらも投げようとしていたが、これは大事な小道具だと思い留まったようだ。
荒呼吸をそのままにクンと鳴き、耳と尾を垂らして、「時間がねぇのにちっとも上手く踊れねぇ」どうしよう。やっぱり凡才は神主にならない方がいいのかも。小声で弱音を吐き、立てた片膝を抱えていた。
上手く舞が踊れずに落ち込んでいるようだ。あの様子だと何時間前から練習していたに違いない。
「神主なんてやめちまいたい」
その場に寝転がる幼馴染だが、すぐに後悔を面持ちに浮かべ、「やっぱヤダ」逃げ出すようなことだけはしたくないと天に向かって言葉を紡いだ。
このままでは悔しい。頑張ろう。自分に声援を送って立ち上がる翔に飛鳥は瞬きを繰り返す。
ああやって幼馴染は常に葛藤しながら稽古に励んでいるのだろう。
神主に就任する不安、皆の期待に答えなければいけないプレッシャー。
それらを胸に宿しながら、己の信じた道を貫こうと努力する。それがどれだけ大変なのか、部外者の飛鳥ですら容易に分かる。普通の魅力を捨て、人と違う生き方を選んだ幼馴染をいつまでも見守っていると、『翔殿』夜空から若い女の声が聞こえた。
空を翔けて彼の下に舞い降りてくるのは一匹の妖狐。巫女装束を纏った人の姿に容を変えた狐は、翔に歩みや否や声音を張った。
「またこのようなところで稽古をして! 此処での稽古は駄目だと言ったではありませんか!」
「えー、べつに何処で稽古しても「良くないです。翔殿はいつも無茶をしてしまうでしょう?」
疲労困ぱいになるまで稽古をするものだから、所構わず寝る癖がある。
そのような生活を続けては体に毒。稽古をするのは境内に留めて欲しいと青葉が叱り飛ばす。
「ほら、その証拠に此処で横になっていたでしょう?」
体が砂だらけだと指差し、袂に挟んでいた手ぬぐいを開くと翔の顔を優しく拭き始める。
決まり悪そうに頬を掻く翔はちゃんと家に帰って寝るつもりだったと弁解するが、青葉は信用ならないと言い訳を一蹴り。彼の顔を綺麗に拭うと、衣類についた砂を払い、今宵は休息日にしましょうと言葉を掛けた。
「まだまだ夜は長いよ」
幼馴染が休むことを嫌がると、「根詰めても一緒ですよ」皆、倒れないか心配していると青葉。
ここ暫く人と妖の世界を行き来して休む間もない。ただでさえ無茶な二重生活をしているのだから、時には休むことも必要だ。巫女はつらつらと文句を並べている。
倒れてしまっては余計皆に迷惑を掛けるだけ。翔の身の上はもう一人のものではない。妖達のものなのだ。就任を迎える十代目南の神主が倒れたと一報を聞いたら妖達は混乱してしまう。
巫女の手厳しい言葉に幼馴染はようやく事の重大さを受け止めたようだ。ごめんと蚊の鳴くような声で謝罪している。
飛鳥は不快感を抱く。
もう少し物の言い方があるのではないだろうか。それではまるで神主だから無理をするなと言っているようなもの。彼自身を心配している言の葉ではない。
抗議してやろうか。憤りを感じていると、「私も嫌なのです」青葉が静かに言葉を重ねた。
「翔殿の倒れる姿を目にするのは嫌です。もう嫌なのです……努力したい気持ちも、焦る気持ちも分かります。しかし、私は何より貴方様には元気な姿でお傍にいて欲しいのです。本当は人の世界から手を引いて欲しい。二重生活は翔殿にとってやはり負担ですから」
妖の世界に留まって欲しい、神主がいない毎夜は寂しいから。
俯いてしまう巫女に幼馴染は瞠目していたが柔和に綻ぶと、「ごめんな。心配を掛けて」自分のことで手一杯となり、青葉の気持ちを察することができなかった。素直に詫びて肩に手を置く。弾かれたように巫女が翔の背中に手を回した。
「青葉?」どうしたんだよ。俺、汗臭いぞ。彼の冗談にも反応せず、彼女は幼馴染の胸部に顔を押し付けていた。
言い知れぬ空気を察した飛鳥は慌てて朔夜の腕を引くと、身を隠せそうな民家のブロック塀に移動する。そこからひょっこり顔を出してデガバメ。
「(飛鳥。こういう場合、そっと立ち去るべきじゃ)」
「(だって気になるでしょ。幼馴染として)」
「(お、幼馴染として? この状況においては関係あるかな)」
さて一方。困惑している幼馴染だったが何かに気付いたのか、「先代の夢でも見たのか?」そうだろう? と確認を取り、砂だらけの手をシャツで綺麗に拭うと巫女の頭を優しく撫でる。彼の長い三尾が相手の背中を擦ると、巫女はより幼馴染のシャツにしがみ付いた。
クンと鳴いて耳を垂らす巫女は恐々告げる。
南の神主は皆、短命。
不治の病、不慮の事故、悪意ある罠、それらによって命を落としている。
激務ゆえに無理が祟って命を落とした神主もいるのだ。十代目に就任する翔もそれに当てはまるかもしれない。翔を知れば知るほど無茶ばかりする性格が目につく。
まだ白狐は若い。齢十七の少年だ。
無茶を重ねていけば、先代のように若くして命を落とすかもしれない。また家族を失うかも知れない。それこそ大切な人を失うかもしれない。青葉はそれが怖いのだと声を上擦らせる。
本当に恐怖心を抱いているのだろう。可哀想なほど耳と尾が垂れている。
二重生活をやめることはできないのか。愚図る巫女に苦笑し、幼馴染はしょうがないおばあちゃんだとからかいを口にして、そっと頭を抱き締める。
「この道を決めたのは誰でもない俺だ。辛かろうが、苦しかろうが、やっぱり決めた道は貫きたい。北の神主の対だと胸張れるようになりたいし、月輪の社を先代が生きていた頃のように繁栄させたい。それこそ妖達の心の拠り所になりたい。並行して人と共存していきたい。だって人間は元々俺や青葉の同胞だったのだから」
夢が現実になる日まで努力は惜しまないと翔。
「だけど」自分の過度な無茶が周囲を苦しめているのならば謝罪しなければならない。鬼才の先代を継ぐ者として少しでも見合う神主にならなければ、と理想だけが高くなり、気が焦っているのだと幼馴染は正直に白状する。
青葉の言うとおり、二重生活は大きな負担だ。
昼夜逆転している自分に人の生活は肌に合わない。騒音で満たされている人の世界より、静寂に包まれている妖の世界の方が暮らしやすい。
でも人の世界で生計を立てている妖もいる。人に化けて暮らす者もいれば、世界の陰に隠れて身を潜める妖もいる。共存を目指す翔にとって、どうしても人の世界は手を引けない地なのだ。彼等の現状を知るためにも五十年から百年は二重生活を続けるつもりだ。この地で学ばなければならないことがある。
だから五十年から百年は社を離れることがある。それを許して欲しい。幼馴染は巫女に目を落とし、その小さな頭を撫で続ける。
「大丈夫、俺は皆を置いて行かない。悪運だけは強いんだ。落ち着いたら俺は青葉やギンコの隣で社を、南の地にいる妖を守ると約束する」
おずおずと顔を上げる巫女に、「もう青葉だけにしない」月輪の社は神主、巫女、守護獣の妖狐で守ろうと翔。
九十九年、神主が不在だった荒れたこの地を安寧に溢れた土地としよう。日輪の社が背負っていた負担を自分達が負おう。いつか日輪の社に恩返しするための実力をつけよう。
腕を解き、巫女の体を解放した幼馴染は彼女の手を握って夜空を仰ぐ。
「まだまだ俺は未熟だ。先代に比べると平々凡々。実力は皆無。誰かの支えがないと神主とすら名乗れない。いや、きっと神主そのものなんてちっぽけだ。それは先代も、先々代も、そのまた前の代も一緒。きっと彼等は誰かに支えられながら頭領を務めてきた。俺も誰かの支えがないと頭領なんて到底できやしない。
――青葉、俺はお前と共に生きる。お前等と長生きして、ずっとこの地を見守るよ。もう侘しい社にさせやしないから」
一緒に長生きしよう。
この地で共に生き、妖を見守り、支えあっていこう。
視線を巫女に戻した幼馴染がしっかりと相手に気持ちを伝える。
青葉のくしゃくしゃな泣き顔は笑顔に変わり、「約束ですよ」少なくとも五百年は長生きをして下さいね、と目元をこする。
「ああ。千年は生きなきゃな」
妖狐の寿命は千年以上。
目指す命はまず千年だと表情を崩し、今日明日は休息日を設けることにすると反省の色を見せる。
こんなにも青葉を心配させているなんて思わなかった。きっと節介焼きの祖母や我が儘娘の銀狐も心配していることだろう。北の神主にこの旨を伝え、しっかり休むべき日を作ると約束を取り結ぶと、彼はブランコの側らに置いていたスポーツバッグへ。
「さあ。青葉、帰ろう。俺達の家に。とびっきりの手土産を持ってさ」
たまには家族で憩のひと時を過ごすのも悪くないだろう。
破顔する幼馴染と同じ表情を作る巫女は、「オツネが拗ねていましたよ」あまりにも翔殿が稽古に励むものですから、と笑声を漏らす。
これからも無理するようなら銀狐に言いつける。彼女に叱ってもらうと青葉が脅しを口にすると、「それだけはやめてくれよ」自分はギンコに弱いのだ翔が渋い顔を作った。手中に和傘を召喚すると歩み寄って来る青葉を中に入れる。
雲少ない熱帯夜の下、和傘を差す少年と巫女装束姿の少女の姿は大層目立つが、彼等は気にしていないようだ。
「コンビニに行こう」「こんびに?」「一言でいえば便宜屋。土産はそこで買いたいから。青葉の好きなチョコレートを買おうな」「え、チヨコレイトですか!」「ははっ、大好きだもんな。おばあちゃん」「お、おばあちゃんじゃないですったら!」
公園を去る幼馴染達を見送り、飛鳥と朔夜はそっと舗道に出る。
「あいつ。気付いているのかな」巫女に向けた言の葉達がプロポーズそのものになっていることを。きっとそういう意味で言ったのではないのだろうけれど、傍から聞けば此方が小っ恥ずかしくなるほどの殺し文句だった。苦笑を零して腕を組む朔夜。
その隣で腰に手を当て、同じく苦笑いを零す飛鳥は「でもショウくんらしいね」本当にあの子のことを家族だと想い、大切にしているのだから。彼はこれから先の人生、ああやって妖達に無償の愛情を与え続けるのだろう。それは素晴らしいことであり、少し寂しいことでもある。
こんなことになるなら好意を寄せてくれていた彼に少しだけ、その好意を返しておけば良かったかもしれない。
「寂しいかい?」
気持ちを見透かしてくる朔夜に、「そうだね」飛鳥は肩を竦めた。
「私、欲張りだからさ。朔夜くんやショウくんには常に隣にいて欲しいと思うんだ。ショウくんに好きな気持ちを向けられる、その光景もひっくるめて幼馴染として過ごせる大好きな時間だと思っているから――でもそれは私の我が儘。ショウくんをいつまでも独占するわけにはいかないよ。あの子に隣は譲らなきゃ。悔しいけど」
「ふふっ、君がそんなことを言うなんて意外だよ。ショウが聞いたら泣いて喜ぶだろうね」
眼鏡のブリッジを押しながら彼が揶揄してくる。煩いと言わんばかりに舌を出した。
「しょうがないでしょう。女の子だもん。あれもこれも手にしたくなるの。それに、これを聞いたところで今のショウくんには響かないよ。だって自分の道を見つけたんだから。ショウくん、これから向こうの家族と幸せになるといいね」
陰であんなにも努力して神主になろうとしているのだ。
若すぎる神主として前途多難であろうが、是非とも幸せになって欲しい。誰よりも幸せになって欲しい。
これは異性として、好意を寄せてくれた男の子に対する自分の純な気持ちだ。
最後まで好意を寄せてくれていた彼の気持ちに応えることも、それこそキスすらも贈れなかった。ならばせめてこの気持ちを寄せておこう。好意を寄せている男の子以上に、幸せになって欲しいと想う気持ちを贈ろう。
大丈夫、目に見える関係は変われど、自分達の根本的な関係は変わらない。いつも此処に在る。
「でもやっぱり悔しいな」片割れの隣に立てない悔しさを口にした後、もう一人の片割れに視線を流す。
「ねえ朔夜くん。女の子を意識したことある?」
「そろそろ零時を過ぎる。飛鳥、帰ろうか」
くるっと踵を返す薄情な相棒に口を曲げた。
そうやって幼馴染はいつも逃げる。己の恋愛の話題を極力避ける朔夜の背に舌を出した後、飛鳥は翔が去った方角を一瞥。
不思議と勇気が湧いてきた。まるで自分の背中を押してくれているような気分だ。人知れず笑声を漏らすと、先を歩く朔夜の背を追い越し、前に回って両肩に手を置いた。
突然のことに足を止める相棒。間の抜けた顔を浮かべ、そっと額に手を当てた。
してやったりと言わんばかりに笑声を上げると、足軽に彼から離れてあっかんべー。
「ちょっとは女の子として意識してくれたでしょ」
プリーツを翻して帰路を走る飛鳥の背に、「ちょ。ちょっと飛鳥!」混乱している朔夜の声が呼んでくる。
無視して早く帰ろうと手招いた。自分達は自分達の帰るべき家に帰らなければ。
少し気が落ち着いたのか、「参ったな」朔夜が唸り声を上げながら頭部を掻いている。照れ隠しなのだろう。飛鳥は今日の戦利品は彼の照れ顔だとまた一つ笑いを零した。