<六>季節は過ぎ行く(壱)
※ ※
「え、朔夜くんっ。国立大を受けないの?!」
六月中旬。
雨の多いこの季節。飛鳥の住む地元も梅雨入りとなり、今日も朝から雨がとめどなく降り注いでいる。
ぱたぱたと傘を叩く雨粒の音を聞きながら、飛鳥は相棒の進路に目を削いでいる最中だった。
「そんなに驚くことかな」
ビニール傘越しに視線を流してくる朔夜。
驚くことだと飛鳥は大きく頷く。朔夜は幼馴染の中で誰よりも国立大を狙っていた。
優秀な公務員になりたいことを知っているため、近場の有名国立大を受けるとばかり思っていたのだ。その彼が国立大を辞退するなど雨でも降るのではないだろうか! いや、既に雨は降っているのだが。
何か遭ったのか。憂慮を瞳に宿すと、「勉強の時間を作りたいんだ」彼はこうのたまった。
勉強の時間を? イマイチ意味が伝わってこない。それはどういう意味だと質問を重ねると、彼は間を置き、「妖祓の勉強の時間だよ」照れくさそうに一笑を零す。
言葉を失ってしまう。足を止める飛鳥の先を数歩進み、彼は顧みて柔和に綻ぶ。
「飛鳥。僕は妖祓を続けようと思う。今度は親の指図じゃない、僕の意思で。狙いたい椅子もあるしね。そのためには兄達より優秀にならないと」
「狙いたい椅子? ……まさか」
「そっ、長の椅子。僕は長の座を狙いたいんだ」
長になれば“あいつ”と対等になれる。夢に便乗できるじゃないか、と朔夜。
大口切って夢に便乗すると言ったのだから、努めて有言実行したい。
自分の欲していた平穏と新たに掴んだ夢を天秤にかけ、彼は後者を選んだのだという。
対等になれるということは、一番に対峙する関係柄になるとも言える。人と妖は相容れぬ存在、常に神主と妖祓の長は対照的な存在だ。近いようで遠い存在に相棒はなりたいと切望する。
「僕は妖を十二分に知った上で」妖を祓っていく人間になりたい、それこそ祓う意味と重みを味わいながら。
妖といえど命を取り扱う仕事なのだと最近、ようやく思えるようになった。
この気持ちを大切にしたいのだと朔夜は飛鳥に主張してくる。
戸惑ってしまったのは飛鳥の方だ。
未だに進路を決めかねている飛鳥は、いつの間にか進路を固めてしまった相棒になんと声を掛ければ良いか分からなかったのだ。
そんな自分に朔夜は助言してくれる。これはあくまで自分の道であり、飛鳥の道ではない。飛鳥は飛鳥の道を探せばいい、と。
どうしても朔夜は腹心の友である幼馴染と対等になりたいと言う。何故なら男は見栄っ張りな生き物ゆえ、身近にいる同性が出世すると焚きついてしまうのだと彼は片目を瞑った。
一応、今後の暮らしと世間体のことがあるため、私立大は視野に入れているらしい。
ただし一月に行われるセンター入試は受けず、九月のAO入試を受けるとか。それで駄目ならば二ヵ月後の推薦入試を受けると彼は教えてくれた。
その大学でも公務員を目指すことは可能だ。私立大一本に絞る彼はできるだけ時間を作り、妖祓の勉強の時間を増やしたいのだと意気込みを見せてくれる。長の座を目指す気持ちは本気そのものらしい。覚悟を決めた上での選択なのだろう。
「そっか」なら私は応援するよ。笑顔で肩を叩くものの、気持ちは複雑である。
なんだか置いて行かれた気分だ。他者の強制によって妖祓の道を進んでいた自分達。気持ちを分かち合っていた相棒が自立しようとしている。常に二人三脚で頑張ってきたからこそ、素直に喜べずにいる。
(ショウくんの内幕神主就任を見て思うことがあったんだろうな)
自分も彼の就任式は凄いと思ったし、あの舞には魅力を感じたが朔夜のように進路を固めるほどには至っていない。
これが男女の温度差なのだろうか。自分が男であれば、朔夜のように何かを目指す、それこそ長の座を目指すようになっていたのだろうか。
しかし如何せん自分は女であり、異性の幼馴染。未だに普通の女の子に憧れている。友達と存分にお洒落を楽しみたいし、旅行にも行きたい。恋多き年頃ゆえ好きな男の子とデートだってしたい。
うんぬん片隅で悩んでいると、丁字路でもう一人の幼馴染を見つける。
いつものように寝ぼけながら歩いているのかと思いきや電柱の前にしゃがみ、肩に傘の柄を掛けて手を伸ばしている。
少しだけ近付いてみると、彼は小さなちいさな小鬼を腕に抱いていた。あれは邪鬼と呼ばれる悪戯者だ。濡れそぼっている青い邪鬼の顔を学ランの袖で軽く拭き、「もう大丈夫ですよ」妖の社で手当てをしましょうと声を掛け、来た道を戻り始める。
挨拶をしたかったが妖が自分達の霊力を察知し、怯えてしまうだろうと朔夜が判断したため、そっと背を見送ることにした。
後ほど、遅れて登校してきた翔に事情を尋ねると、「あの邪鬼は瘴気の被害者だよ」彼は悲しそうに眉を下げていた。
「瘴気を吸った妖は数多い。幾ら瘴気が消えても、妖の吸った瘴気まではどうしようもなくってさ。邪鬼は自我を失いかけていた」
翔は気を失っている邪鬼を見つけ、保護したという。
意識を取り戻した邪鬼は大層暴れたようで、彼の手の甲には包帯が撒かれていた。きっと幾たびも噛まれたのだろう。
しかし翔は邪鬼が心配なのか、体内の瘴気をすぐに消せないものか。と、己のことのように悩んで溜息をついていた。怪我なんて念頭にすらないのだろう。
放課後になると彼は一目散に教室を飛び出してしまう。
身支度をしていた飛鳥が窓の向こうを確認すると、正門で幼馴染と巫女装束の少女の姿を見受けた。彼が呼んだのだろう。雨だというのに躊躇いもなく空へと翔ける妖狐達を目にした飛鳥は人知れず小さな息をつく。
まだ正式な神主に就任していないのに彼は同胞のために疾走している。
広い背に少しだけ好意が芽生えるが、結局それも幼馴染として、に留まるのだろう。
「好きって、ショウくんにはちゃんと言って欲しかったな」
思いを最後まで告げてくれなかった幼馴染。
その思いに応えることはできないけれど、彼の思いに感謝することはできた。
思いをいつまでも胸に仕舞い、宝とすることもできたのに彼はそれすらさせてくれなかった。もう二度と訪れない機会にもの寂しさを感じる。
好きな男の子は新たな道を見出し、好意を寄せてくれた男の子はその道で疾走している。では自分は?
梅雨入りしたせいか、自分の気持ちはどんより雨雲模様だ。
「雨のせいかな」梅雨が明けたらきっと気持ちも変わる。自ずと進むべき道も見つけ出せるだろう。そう自分に言い聞かせ、開きっぱなしの通学鞄のチャックをきっちりと閉めた。
やがて梅雨は明け、日焼け止めが手放せない暑いあつい七月が訪れる。
蝉も喧しく鳴き始め、受験生にとって予備校に家庭教師とスケジュールが埋まる過酷となるであろう夏休みが目前と迫っていた。
もうすっかり夏だというのに、灼熱の季節に入っても飛鳥の心は晴れない。
ただただ進路調査書と向かい合い、溜息を零すばかりだ。希望は近場の私立大。相棒の目指す私立大ではない。彼は経済学部を受ける予定だが、飛鳥は経済などに興味はなく人文学部を希望していた。
しかも彼の目指す大学は偏差値が高く、到底飛鳥の成績では手が届きそうにない。
同じく人の世界で大学を受けると言っていた翔も私立大を目指しているそうだ。
此方の世界でどのような道を進むつもりなのか、疑問に抱いた飛鳥は二人に声掛けしてLッテで駄弁りの会を開く。そして何気なく進路の話を振ってみる。
すると翔はテーブルに置いているノートのページを捲るながら、このように答えた。
「俺は隣町の夜間大を受けるつもりなんだ。ほら、俺って夜行性だから朝がてんで駄目だろう? 夕方六時から授業が始まるから、昼間は寝られるし。九時までだから学校が終わり次第、神主修行も出来るしな」
彼の手が再びノートのページを捲る。
受験勉強のためのノートかと思いきや、覗き込むと薬種だの、粉末だの、わけの分からないことが記されていた。
これは何のノートだと指差す。「基礎調合だよ」神主が作れるようにならなければいけない薬の基礎だと翔はムズカシイ顔を作る。
神主は薬剤師も務めなければならないのか。
飛鳥の疑問に、なんでもできるようにならなければいけないのだと幼馴染。ノートをそのままに力なくテーブルに撃沈すると、「憶えられねぇよ」明日までに憶えるとか無理。また比良利さんに叱られる! 等々盛大に嘆き始める。
受験生でありながら、神主修行もしなければならない翔はかなり大変そうである。
なら受験が終わるまで待ってもらえば良いではないか、朔夜の助言にそれも無理だと翔は唸った。
「本幕の就任式が来年の四月に決まったんだ。それまでに必要最低限のことはできるようにならないと。今日は神主舞と龍笛の稽古があるし。横笛とか無理なんだけど。リコーダーじゃ駄目かなぁ」
あれなら上手く吹けるのに、ぶう垂れる翔が上体を起こす。
「横笛の出来があんまりでさ。俺、前にリコーダーを持って比良利さんに見せたんだ。
『間に合わなかったらこれで頑張る!』って言ったんだけど、糸目がこんなにつりあがって『この戯け者が! 神聖な儀式に他の笛を使おうことは何事じゃ! 余所見をする前に集中せえ!』こっわいカミナリが落ちたんだ。お、俺なりの解決策だったのに!」
リコーダーの何が駄目なのだろう、同じ笛じゃないか。
翔はぐちぐちと文句を零しながらも、それを直接北の神主には言えなかったという。
曰く、北の神主の怒りが誰よりも怖いらしい。普段怒らない人だから怒るとそれはそれは恐ろしいと翔。ひょっこり狐耳を出し、その耳を地に垂らす。本当に怖いようだ。
けれど誰よりも敬愛している師匠でもあるらしく、自分の目指す人なのだと得意げな顔で語ってくれた。叱る時は容赦なく叱るが、褒める時は大袈裟なほど褒めちぎってくれる。優しい自分の対であり、自慢の師匠だと目尻を下げた。
早く一人前の神主となり、対と見合うようになりたいと翔は胸の内を明かしてくれた。
「そうか、ショウも頑張っているんだね。僕も来年の四月からじいさまの下で妖祓の稽古をつけてもらう予定なんだ。家も出るつもりだよ」
「お前もか。俺も家を出るつもりなんだ。家族の目があると、どうしても余計な気を配らないといけないからな。
それに俺の体内には宝珠の御魂が宿っている。いつ何時悪しき妖に狙われるか分からない。一刻も早く家は出るべきだと考えている。親に大反対を食らっているけど、こればかりは譲れないから押し通すつもりだよ」
人の世界で生計を立てている同胞に相談し、既に住まいの目星は付けていると彼は語った。
羨ましいと声を上げる朔夜の隣で、二人とも家を出るのかと飛鳥は頓狂な声を上げた。
「ショウくんも朔夜くんも家を出るなんて」そんなの聞いていないと、今度は飛鳥がテーブルに沈んでしまう。遊びに行ける距離だと翔が気遣ってくれるものの、「遠くなるじゃんか」大学の近くに住むんでしょう? 絶対遠くなると嘆く。
「なら朔夜とルームシェアすりゃいいじゃんか。ん、同棲?」
ぶはっ、キャラメルラテを飲んでいた朔夜が盛大に咽る。
「ショウ!」なんてことを言うのだと怒声を張って抗議する彼に、翔は素知らぬ顔してコーラを飲むばかり。反省の色は窺えない。
自分こそルームシェアすれば良いではないか。朔夜が抗議すると、馬鹿を言うんじゃない。昼夜逆転している妖狐と生活できる人間なんてそうはいやしない、と翔はおどけ混じりに手を振る。
「いつになったらお付き合い報告が来るんだろうなぁ、まーじ楽しみだわ。お前等、付き合い始めたらまず最初は俺に報告するんだぞ」
にししっ。歯茎を見せて笑う翔に、朔夜が引き攣り笑いを浮かべている。
いつもさり気なく恋心を茶化していた朔夜と翔の立場が物の見事に逆転しているのだから不思議な光景だ。
片隅で落ち込んでしまう。
幼馴染達がどんどん先へ進んでしまう。自分がのらりくらりと進路について曖昧な感情を抱いている間に二人は進路を定め、家を出る計画まで立てている。
朔夜は妖祓の腕を磨くために彼の祖父の下で稽古を、翔は来年の四月に向けて神主修行に精を出している。今までは朔夜が先頭に立ち、自分と翔が追い駆ける形だったのに。
自分の後ろについて回っていた翔を流し目にする。
今や自分達の先頭に立ち、己の道を歩む男となった彼。無理して人の世界の学校に通わなくとも良いのに、自分の夢のため、人の世界を少しでも学ぼうと大学に通おうと決意している。それを手本のようにして己の道を探すようになった朔夜。少しでも神主と対等な立場になりたい一心で長年の夢を捨て、新たに目指すべきものを見出した。すっかり自分は置いてきぼりだ。
がむしゃらに自分の道を進む男の子達が羨ましい。自分も馬鹿みたいに何かに集中してみたいものだ。いっそのこと二人に合わせてみようか?
「飛鳥は欲張りだから、一点に絞るなんて無理なんじゃね?」
心を見透かしたように翔が物申す。
お世辞にも欲張りは褒め言葉には聞こえない。
脹れ面で相手を睨むと、「好きなことを好きなだけやりゃいいって話だよ」どーせ進路で悩んでいるんだろう? 翔は顔に書いてあると人差し指で此方を指してくる。
「俺も朔夜も進路を決めた。私だけ置いてきぼり! やだやだ置いて行かないで! とか思ってるんじゃね? もう進路は俺達に合わせる、とかそんなことを考えているなら、ただの阿呆だぞお前。ちょい前の俺のようになりたいのか?」
意表を突かれた。不機嫌すら忘れて相手を見つめる。
彼は片目を瞑り、「何年お前のことを見てきたと思っているんだ?」嫌でも飛鳥の考えはお見通しだと一笑。
次いで、お前はそういう奴じゃない。小悪魔のように欲張りな性格だと人を小ばかにしてくる。酷い物の言い方だと抗議するものの、「小悪魔じゃなきゃなんだよ」一々人の反応を楽しんでいたのは何処の誰だか、翔は苦笑を漏らす。
そういう小悪魔に惹かれる奴がいたのも確かだけど。独り言をぼやいた後、翔は言葉を重ねる。
「俺達は単細胞だから、一つのことを決めたらそれにしか集中できなくなる。俺は神主、朔夜は妖祓の道一本にする決めた。けど無理して飛鳥まで一本にする必要はない。寧ろお前は欲張りだから、あれもしたい、これもしたいが強いじゃんか? そういう進路で俺は良いと思うんだけど」
「それ、助言してくれているの? あんまり参考にならないんだけど」
もっと優しい助言はないのかと飛鳥。
彼は肩を竦め、「俺は飛鳥じゃない」結局、進路は自分で決めるしかないのだと素っ気無く返してくる。
勿論、人に合わせる進路もありだろうが、あまりお勧めはしない。経験者が語るのだから間違いない。翔は自分を例えに出すと、「そろそろ出よう」人が多くなってきた。席を譲るべきだと告げ、自分達のトレイを重ねると片付けるために腰を上げる。
ぶうと脹れる飛鳥はそこまで自分の気持ちを見抜いているのなら、もう少し優しい助言があっても良いじゃないかと愚痴を漏らす。
「ショウくんは進路が決まっているから、あんなことが言えるんだろうけど」
すると隣に座っていた朔夜が笑声を漏らし、「飛鳥はまだマシだよ」僕なんて助言すらくれなかったのだから、と言って椅子を引き立ち上がった。
「それだけ君はショウに想われているんだよ」
羨ましい限りだと目尻を和らげる朔夜。それは異性の特権、大切にしておくべきだと片目を瞑る。性別を気にしている飛鳥を気遣った言の葉だった。