<三>捨てるもの、築くもの、共に生きるもの
「こうして、ゆっくり三人で集まるのも久しいな」
団地の公園に移動した翔は、ブランコの柵に腰を掛けていた。
「ここは騒がしいな。誰もいないのに音がうるせぇ」
ブランコに腰掛けている飛鳥と朔夜を交互に見やった後、ヒトの世界はとても騒がしい、と感想を述べる。
静かな世界で日々を過ごしてきた自分にとって、ヒトの世界はとても喧騒に満ちている。その公園には誰もいないというのに。
「居心地が悪い?」
飛鳥の質問に頷き、今の自分には生きにくい場所だと苦笑いを零す。
物言いたげな表情を作る彼女に肩を竦め、それは仕方がないことだと翔は笑みを深める。心身妖となったのだ。ヒトで満ちているこの世界が、生きにくいと思うのは極自然なことだ。
仕切りなおし、翔は二人に感謝と謝罪を述べた。
不要だとは言われたが、やはり五方結界の一件と、個人的に心配を掛けてしまったことに対しては、一言添えておかなければならないだろう。
けれども、彼等は気持ちを受け取ってくれない。それよりも、大切なことを聞きたいと返されてしまう。
「ショウ。これから、君はどうするんだい?」
朔夜は言う。近頃の妖達はここぞと喜びや祝いを口にして、新たな南の神主の誕生を待ち遠しそうに騒いでいる。
彼の言わんとしていることが分かった。
「これから一年後、俺は十代目南の神主に就任するよ」
宝珠の御魂に天命を授かり、それを受け入れた翔は、この地の妖達のために身を捧げたいのだと気持ちを明かした。
驚きや非難の声は上がらない。ある程度予想をしていたのだろう。
「この一年は準備をするつもりだよ。ヒトの世界に残って、身の回りの片づけをしないと」
取りあえず、今の問題は受験だ。稽古と並行して勉強できるのだろうか。要領の良さが問われる問題に、翔は吐息をつく。
「ショウくん。受験をするの?」
飛鳥が頓狂な声を上げた。
「しょうがないだろ。今日の四者面談で、受験は強く進められたんだし」
翔は唸り声を漏らし、形代でどうにかならないかな、と他力本願を口にする。
「……私、ショウくんは受験を蹴っ飛ばして妖の世界に帰ると思っていたんだけど」
てっきり妖の世界に帰ると思っていた。彼女が素直な感想をくれる。
そうしたいのは山々だが神主になる以上、妖の世界に篭ってばかりでは自分の理想は叶わない。
翔はヒトと妖の調和も目指している。
そのためにも、ヒトの文化を知る必要があった。ヒトの世界で暮らす妖達の生活も目にしておかなければならないし、ヒトの価値観も知っておくべきだろう。神主になる身としては。
比良利も言っていたが、神主は何でも知っておかなければならな。それこそ雑学レベルの知識でさえも。
「ま、長期間留まるつもりはないよ。比良利さんと話し合って、滞在の期間は五十年から百年の間だ。短い期間だろう?」
二人に同意を求めると、彼等の目が点となった。
間の抜けた顔に、思わず噴き出してしまう。
「そうか。人間の寿命は短いもんな」
すっかり妖の価値観に慣れてしまい、ヒトの価値観を忘れていた。
妖狐の寿命は千年以上。百年など爪先の時間にしか過ぎない。だから五十年、百年経っても、翔はこの姿のままだ。
「お前らがじいちゃん、ばあちゃんになっても、俺はこのまんまなんだぜ。変な感じだな」
翔はさみしげに笑った。
「ヒトの世界に残るなんて偉そうなことを言ってるけど、一度は迷ったんだ。俺はヒトと同じように成長できない。それを父さん、母さんはどう思うか」
親のことを思うと、早く妖となった息子と縁を断たせるべきなのだろう。
一昔前は神隠しと呼ばれた現象で、行方を眩ますこともできたが、今は情報や報道が発達している。心労を掛けるだけだ。
しかし、翔には縁を切ることができずにいる。両親の心配を一身に浴びた手前、彼等の気持ちに背を向けることができなかったのだ。
だから同胞の手を借りて誤魔化していくつもりだ。
こう思うと親不孝者である。もっと別の手がありそうなのだが、比良利に聞く限り、他者の心や記憶を左右するような術は禁手されているためこれしかない。
「俺は神主になる。そのせいで、親に孫の顔は見せられそうにない。悪いとは思っているんだけどさ……」
「それはどういう意味?」
朔夜が追究してくる。そのままの意味だと翔は苦笑した。
「神主は神に仕える身。妖達を愛することはできれど、一個人を愛することはできない。所謂、恋愛禁止だな。ほら、頭領は平等じゃなきゃいけねぇだろ? 皆を導くための存在なのに、恋愛なんてしたら自分から弱点を作るようなものだから」
神主として捨てるべき感情の一つだと、何度も比良利に厳しく指摘された。
その比良利ですら女にセクハラばかりしているが、あの様子だと恋愛はご法度にしているのだろう。おおよそ年頃だというのに、女を作る気配はまるでない。
美しい紀緒にすら男の気配がないのだから、二人とも神職に携わる身として、恋愛をかたく禁じているとみている。
「そこまでして神主に?」
朔夜の険しい顔に頷く。
「これは俺が決めたことだ。後悔はないよ」
大丈夫。恋愛ができなくても、翔には大切な家族ができた。
しっかり者のようで泣き虫毛虫の巫女に、我が儘やりたい放題の銀狐。そして今夜、迎えに行くばあちゃん猫。皆、翔の大切な家族だ。
「向こうに友達もできた。なんとかやっていけるさ」
勿論、こっちの世界で築き上げた関係も大切だ。
一度は捨てたヒトの世界には、翔の想像を上回る想いが詰まっていた。軽んじたら罰が当たりそうだ。
陽が傾いていく。それに伴い、翔の黒い髪の色素が抜け始めた。日差しが夕陽に変わると、その髪は真っ赤に染まる。否、それは夕陽の色であり、翔の髪の色ではない。
ひょっこりと生える耳と尾を確かめると、変化が解けてしまったと舌を出す。
「実は長時間の変化は、まだ不得意なんだ」
ヒトの容を保つことはとても難しい。早く上達したいものだ。
すると、泣き笑いを零した飛鳥が言う。
「いまは有りの儘でいたら良いと思うよ。どうせ普通の人間に、その耳と尾は見えないんだから」
彼女は言葉を続ける。
「ショウくんは凄いな。そこまで決めちゃうなんて。私はできないな。夢のために、色んな想いを捨てるなんて」
翔は苦笑する。
確かに辛くない、といえば、嘘になる。
今まで抱えていた、様々な気持ちを諦めるのだ。恋心だって、玉砕覚悟でも良いから想いを伝えれば、悔いは無くなるかもしれない。
しかし、翔はこれでいいのだと思っている。
「飛鳥。俺は想いを捨てるんじゃない。持っていくんだ」
ヒトだった頃の気持ちは、すべて妖の世界に持っていき、思い出にすると決めていた。
抱く想いはいつか褪せるだろう。それこそ百年、二百年の月日が流れてしまえば、虫食いだらけの気持ちとなるだろう。
それでも。この想いは忘れない。大好きな人々と過ごし、その都度抱いた想いは翔の宝物だ。生涯の宝物として持っておきたい。
「俺達の関係は変わる。いつまでも一緒にいられる不変な関係を願っていたけど、それは無理だ」
いつか二人は翔を置いて先を立つだろうし、翔は二人を見送る。ヒトと妖、種族間でまた諍いを起こすかもしれない。自分達は対峙するかもしれない。
だけど。
「俺はお前達のしてくれたことや、俺に向けてくれた気持ちを忘れないよ。やっぱりお前等のことが大好きだ。忘れやしない。絶対に」
ほら、そう思うと悲観することもなくなる。想いを振り返る日が楽しみだ。
翔は満面の笑みを浮かべた。
「飛鳥。俺は想いを持っていく。だけど、お前は別の形で想いをぶつけてもいいんじゃないか? どこかの誰かさんに」
途端にうらめしい顔を向けられた。
「……ショウくんの意地悪。いま、言うこと?」
「なんだよ。小悪魔はいつも、俺に意地悪をしてたじゃん。朔夜も、だけど」
「飛鳥ほどじゃないとな」
「酷い! 二人していじめてくる!」
彼女が脹れ面を作る。
それの二人は笑声を上げ、やがて飛鳥もつられて笑った。
その時であった。夕空から一匹の妖狐が落ちてくる。それは銀の毛並みを靡かせ、飛鳥の頭に飛び乗るや、きっちりと両足で踏んづけて翔の腕に飛び込み、唇に口を押し当てた。
これには笑っていた朔夜も、踏んづけられた飛鳥も、そして身を受け止めた翔も驚愕する他ない。
「ぎ、ギンコじゃないか。なんだよお前、一人でこっちに来たのか? 今日はみんなで一緒に、おばばを迎えに行こうって約束してただろう? ……まさか青葉を置いて来たのか?」
声を上げる翔に狐はクオンと甘えたに鳴き、胸部に頭を擦りつけてくる。どうやら自分会いたさに、ひとりで此処までやって来たらしい。
「あ、この子。いつかの」
頭を擦る飛鳥が顔を覗き込もうとすると、ギンコが容赦なく尾を振って叩く。
毛を逆立てて唸り声を上げる銀狐に、二人はもう敵じゃないことを慌てて言ってもフーンのツン。そっぽを向いてしまった。
「あらら、嫌われちゃった。前に怪我をさせちゃったから」
申し訳なさそうな面持ちを作る飛鳥に、翔は空笑いを零した。
「多分、原因は飛鳥の性別なんじゃないかな」
十中八九、これは嫉妬だと思われる。その証拠にギンコはやや不機嫌だ。そんな不機嫌なギンコも、また可愛いと思えるのだから重症だろう。ああ、写メりたい。
いやいや、そんなことを思っている場合ではない。
「ギンコ。青葉と一緒に来ないとだめじゃないか。あいつを置いてけぼりにするなんて」
強い口調で叱りつけると、ギンコがシュンと耳を垂らしてしまった。胸が痛い。
「そ、そんなに落ち込むなよ。お前は俺に会いたかっただけだもんな?」
チラッと上目遣いで見つめられる。黄色い悲鳴が出た。叱りつける気持ちなど、遥か彼方へいってしまった。
どこまでもギンコばかな翔である。
「俺に会いたかったんなら、俺からは叱れねーよなぁ。後で青葉と一緒に叱られよう」
ぺろりと頬を舐められる。それだけで骨抜きにされてしまった。
「ああもう可愛い! ギンコ、超可愛い」
「……ショウ。だらしない顔になっているよ。神主がそれでいいのかい?」
「……その子、女の子だよね? 口説いていいの? 恋愛禁止じゃ」
「馬鹿。ギンコは恋愛とか、そういう問題じゃないんだ。この可愛さは俺の癒しなんだ。見てくれよこのつぶらな目、毛並み、長い脚! すっごい美人さんだろ?」
抱えているギンコを二人に差し出すが、如何せんヒトの子である朔夜と飛鳥には、ただの狐にしか見えない。
じつは翔自身も狐の美人云々は、よく分かっていない。だが、ギンコは指折りの美人だと思っている。愛娘を溺愛する親父の言い分であった。
程なくして妖型の青葉が、夕空を翔て公園に下りてくる。
彼女は大層憤っていた。勿論それはギンコが身勝手な行為を起こしたせいだろう。眉をつり上げ、持ち前の耳と尾の毛をぶわっと逆立てた。
「毎度、勝手なことばかりして。オツネ! 今日という今日は言わせてもらいますよ!」
これはまずい。
「青葉。ごめん、俺がギンコに早く来て欲しいって頼んだ。ギンコ、ごめんなさいしようぜ」
腕の中にいるギンコに謝るよう促すと、我が儘娘はまたもやそっぽを向いてしまう。自分は悪くないと言いたいらしい。
「オ、ツ、ネ!」
忌々しい女狐だ。地団太を踏む青葉を必死に宥め、自分はどうして遅れたのだと疑問を投げる。青葉なら抜け駆けするギンコを、すぐに追えると思ったのだが。
「この子達がついてきたがって」
留守番してくれるよう説得していたら、銀狐に置いて行かれたと彼女は脹れる。
腕に抱えられているのは、親を亡くした旧鼠七兄弟。
小さな手を伸ばして抱っこをねだられたため、翔は頬を緩める。
「ギンコ、少しだけ我慢してくれ」
銀狐を地面に下ろすと、ネズミの子達を腕に抱える。
そうだ、忘れていた。この子達も自分の大切な家族だった。おばばを皆で迎えに行くと決めたのだから、この子達も連れて行かなければ。
見上げてくる旧鼠に微笑む。
「お前ら、良い子にしているか? 青葉姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてるか?」
一匹ずつ頭を指で撫でる。
ご機嫌になる旧鼠達は腕を抜け出し、翔の頭や肩に颯爽と移動した。お行儀良く人間に向かってお辞儀する子供達にまた一つ笑声を零し、「可愛いだろ?」と、幼馴染達に同意を求める。
「こいつ等は俺の弟妹。青葉とギンコも合わせて、みんな俺の家族だ。妖の世界で出来た、妖の家族なんだ」
青葉とギンコに視線を配り、誇らしい気持ちを二人に伝える。
「朔夜、飛鳥。俺はこの家族を、同胞達を守っていきたい。同じように、ヒトの世界を尊重したい」
幼馴染達のように、妖を受け入れてくれる人間がいるのだ。
傷つけあう日が来ようとも、それを乗り越えて許しあえる仲になれると信じている。信じられるよう、努力していきたい。
「俺はいま、妖になれたことを誇りに持っている。心の底から、妖狐で良かったと思っているよ」
すると朔夜が一笑を返した。
「なら僕達も、ヒトの世界で同じ夢を見るよ。お前の言う、許しあえる世界を夢見たい」
今まで家系だからという名目で妖祓をこなしていたが、これからは少し妖祓としての見方を変えたい。
正直に言うと、続けるかどうか迷っている。普通の人間として生活を過ごしたい羨望も捨てきれずにいる、と朔夜。
「でも、幼馴染のご大層な理想を聞いて、なんだか辞めるには勿体ない気がしてきたんだ」
幼馴染が己の行くべき道を手繰り寄せたように、今度は自分も見つけたい。そしてそれは。どこかしら妖とヒトの調和に繋がる道だといい。
朔夜が真っ直ぐ翔を見つめた。
「ショウ、僕は妖のことがあまり好きじゃない。でもお前達のような善意ある妖がいることも知っている。ずっと一緒、それは確かに無理だろうけど、どこかで繋がりは持てる。僕らはまた傷つけあうかもしれない。同じように支えあうこともできる。そうだろ?」
呆ける翔の前に、そっと彼の手が差し出された。
彼の後ろで微笑む飛鳥と、柔和に眦を下げる朔夜。その優しい人間の表情に破顔し、翔は差し出された手をしっかり包み、握手を交わした。
お互いに傷つけあったことに対して、謝罪は一切口にしない。譲れない立場が自分達にはあったのだから。
その代わりに自分達は許すのだ。こうしてヒトの存在を、妖の存在を。
ああ、小さなちいさな理想の一片ではあるけれど、自分の夢はここに息づいている。