<二十二>紅く花弁が染まった時
※
月輪の社・本殿。
「翔殿……」
もう幾日、神主代行が眠っているのだろう。
呼吸一つしない抜け殻を前にした青葉は、腫れた目を擦り、自分のせいだと何度も悔いていた。
自分が小さな欲に駆られ、薬など盛るような愚かな真似をしなければ、目の前の彼は宝珠の御魂の力を借りて妖になっていたであろうし、御魂封じの術を知ることもなかった。
最初から彼を受け入れていればこんな事態にはならなかったのだ。
失って始めて気付く。
犠牲の大きさに。自分を想ってくれた犠牲人の大きさに。
恥ずかしくなった。消えたくなった。それこそ罪の重さに死んでしまいたくなった。
先代のことばかりが念頭を占め、周囲の気持ちに気付けなかった。北の神主や巫女、祖母も、姉の妖狐も、青葉が傷付かないように先手を打ってくれた。視野の狭さを指摘し、先代への強すぎる気持ちを咎めていたというのに。
彼はもう、目覚めないかもしれない。努めて自分と仲良くしてくれようとしていた翔は、もう目覚めることがないのかもしれない。
青葉は悲しみに暮れた。現実に打ちひしがれては、誰もいない本殿で涙を流した。眠り続ける相手に、何度謝罪したか分からない。詫びたところで罪が償えるわけでもないのに。
参道では多くの妖が集い、十代目南の神主の誕生を心待ちにしている。祝いを少しでも盛り上げようと、無償で社を建て直してくれている。
その気遣いが青葉の心を重くさせた。
どんなに社である我が家が綺麗になったところで、彼が目覚めなければ同じこと。そこに求める神主が、いずれ寂びていく。それが恐ろしかった。
頑なになって社を守ってきた青葉だが、本当は心細かったのだ。
神主、巫女、守護獣が揃ってはじめて守れる社を、自分ひとりの手で守りきることなど、不可能に近いことだと知っていたから。
九十九年、守ることができたのは、見えないところで守護獣が社を守ってくれていたのだろう。祖母も及ばずながら、手を貸していたに違いない。彼女等にまことの心を見せれば、抱える寂しさも解消できたかもしれない。
なのに、意地を張ってひとりで守ると思い続けた。
それだけ、己の才を見出してくれた先代への気持ちが強かった。
嗚呼、神主代行から社を守る、と言われてどれだけ胸を打たれたことだろう。
次の十代目が南条翔だと囁かれているが、今ならすんなりと彼を受け止められると青葉は思ってならない。妖を思い、ヒトを思い、他者を思える狐なのだ。才が凡でも、きっと素晴らしい神主になってくれることだろう。
自分の邪な思いが、それらを邪魔していた。
比良利に見破られた時点で、巫女をやめるべきだったのかもしれない。
悔やんでも悔やみきれない気持ちを胸に抱く一方、このままでは逃げるも同じだと、青葉は己に叱責した。
ちゃんと神主代行が目覚めるまで介抱して、それこそ砕けた魂が元に戻る方法を探して、一抹でも希望を抱き続けて、自分の精一杯できることをしよう。
そして、すべてが終わったら北の神主に裁いてもらうのだ。自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければ。
「惣七さま。これ、十代目に譲って宜しいですよね?」
祭壇に飾られている浄衣を下ろすと、そっと彼の体に掛ける。
その際、旧鼠達の見舞い品は受け皿に移動した。これは粗末に出来ない。子供達の神主代行を想う気持ちなのだから。
翔の組んだ手におさまっている、白の宝珠の御魂にも手は出さない。これは持つべき者が持つ重宝。私情を交えて返上を願っていた、青葉の触れて良い珠ではない。
眠っている翔の顔を覗き込む。苦しみを忘れ、安らかな表情で眠っている。それが唯一の救いだ。
「翔殿。貴方様が来てから社は、すっかり変わりました。忘れていた時間が動き出したのです。なのに、私はそれすら拒んで」
常に親しく接してくれた翔の心遣いに力なく笑い、頬を撫でる。
「社を守ってくださり、本当にありがとうございます」
感謝してもしきれない。目を伏せ、彼の冷たい手に己の手を重ねる。嗚呼、泣いてばかりもいられない。彼の御魂を戻す薬草がないか、術はないか、何か手はないかどうか、それを探さなければ。
踵返して本殿を飛び出した青葉は、先代の使用していた文殿に入り、片っ端から巻物や和書を広げる。
既に北の神主も、同じことをしているであろう。そして手はないと、その答えも導いていることだろう。
それでも、青葉は己の手で答えを探したかった。
先に絶望する答えが待っていようとも、八方塞だという現実が待っていようとも、探さずにはいられなかった。
夜が明け、日が昇り、また日が沈んで夜が訪れる。その流れが三周した。
殆ど不眠不休で救う手を探していた青葉は、文殿には答えがないと結論を出す。
決して、手がないという答えだけは出したくなかった。
「五方魂・南ノ書にならば何か書いてあるかも」
神主だけが持つことを許される、あの和書ならば答えがあるのでは。
新たな道を模索した青葉は、中庭の白いヒガンバナ畑に飛び込む。苔の生えた灯篭の窪みを覗き込み、小壷を手繰り寄せ、中に入っている和書を取り出す。
頁を捲る。幾度も頁を捲り御魂封じの術と、その代償。魂が砕けた後の対処法を必死に探す。
しかし自分の得たい項目は、何一つ見つからない。書かれているのは御魂封じの術のやり方とその代償ばかり。それはつまり、つまり。
「諦めるな。翔殿は最後まで諦めなかった。私もっ、わたしも」
視界が大きく潤む。
寝不足のせいで涙腺がおかしくなっているようだ。
頁に涙を落とさないように堪えながら、隈なく和書を熟読するが答えは見つからない。導き出される答えは絶望ばかり。
「……私も強くなりたい」
最後まで諦めない彼の強さが欲しい。
神主代行として最後まで務めを果たした少年に想いを寄せ、和書を胸に抱える。こんな姿を彼が見たらなんて言うだろう? また泣いているの? と苦笑するのだろうか。
彼は火すら熾せなかった。生活の知識がまるでなかった。時に青葉の年齢を茶化してくる、小生意気な少年であった。
けれど誰より優しい心を持っていた。自分を喜ばせようと、菓子を手土産に遊びに来た。また一緒に桜の花を見ようと言ってくれた。彼は自分の孤独に気付いてくれていた。
青葉のことが放っておけなかった。そう笑顔を向けてくれた、少年にもう一度会いたい。
「惣七さま。翔殿を連れて行かないで下さい。もう、誰も失いたくありませぬ」
彼は自分の大切な同胞。身内。家族。犠牲で終わらせたくない。
「翔殿、私は貴方様を失いたくない。どうか、お戻りください。どうかっ――おかえり下さい」
嗚咽を漏らした、その瞬間、真っ向から突風が吹く。
堪らず和書で顔を覆うが、辺り一帯の異変に気付き、風を諸共せず和書を下ろす。
風に揺れるヒガンバナが、一斉に色を変えていく。純な白が色づき、生命を感じさせる鮮やかな紅へと変わっていく。
九十九年、一度も色づくことのなかったヒガンバナが紅に色づいた。その意味に気付いた青葉は和書を落とし、弾かれたように表の参道に飛び出す。
参道の脇に芽吹いていた、ヒガンバナのつぼみ達が次々に花開く。天を仰げば無数の光が空を翔けていた。流れ星ではない。あれは、あれは。
「翔殿……翔殿!」
作業をしていた妖達が歓声を上げる中、青葉は妖達の身を避けながら、一目散に参道を駆け、拝殿の奥にある建物を目指した。
途中で銀狐と合流する。彼女も異変に気付いたのだろう。大切にしている黒衣を宙に放り出し、銀の毛並みを靡かせて風に乗っている。
厳かな本殿が見えてきた。上がる息をそのままに加速していく足。勢い余って縺れて転んでしまう。ギンコが足を止めて振り返ってくる。
「大丈夫です」
それより神主代行を務めた少年を、青葉はギンコに訴えた。なおも自分を待ってくれる銀狐に苦笑を零す。不器用ながらも優しい姉だ。
巫女装束が転んだ際に擦れて汚れてしまったが、構わず身を起こし、姉と共に本殿へ。
注連縄の入り口扉を押し開くと、それを合図に空を翔けていた光が、眩い色を放ちながら本殿に飛び込み、眠り人となっている少年の体に溶け消えていく。
次から次に光は筋となり、扉を潜って一室を明るく照らし出す。
色すら感じさせない、その光を恍惚に見守っていると、異変に気付いた北の神主が北の巫女と守護獣を従えてやって来る。
「これはぼんの御魂か」
砕けた魂が、何らかの拍子により、意志を宿し本体に戻ろうとしている。
比良利の驚愕に青葉も眼を見開き、履物を脱いで急いで少年の下に駆け寄る。
体を明滅させる翔の手を取り、台に乗り上げようとするギンコを抱えて、青葉は泣き顔を作る。
「お帰りください。貴方様の家は此処に在りますよ」
光が弱弱しくなると、強く手を握り締めた。
「お願い。帰ってきて! 私達を置いて行かないで」
青葉は声音を張った。
やがて光は消える。本殿内のぼんぼりの明かりがぼんやりと一帯を照らす中、青葉は静かに少年の様子を窺う。
相変わらず、抜け殻は呼吸をしていない。砕けた御魂が収拾されたところで、それが修復できるかといったら否である。
けれど、ヒガンバナは確かに紅に色づいた。これはきっと少年の目覚めを教えてくれている。それを信じ、青葉は彼の手に頬を寄せた。腕の中にいるギンコと共に、いつまでも目覚めを待つ。
「翔殿」
蚊の鳴くような声で名を紡ぐと、彼の手におさめられていた白の宝珠の御魂が光り輝く。白い光は少年の身を包み、その身なりを白張から浄衣に変えた。
光が弾ける。彼の体に掛かっていた浄衣は消え、目の前には立派な神主の姿の妖狐。手中におさめられている宝珠の御魂は未だに強い光を宿している。
ふと青葉の手が握り返された。冷たい手先がぬくもりを求めるように、そっと握ってくる。
あ、声を上げそうになる青葉と腕の中にいるギンコの耳に、小さな小さな呼吸が聞こえた。そして閉じられていた瞼が持ち上がり、濁った瞳が此方を捉える。
下唇を噛み締めて相手を見つめ返していると、幾度も瞬いていた瞳に光が宿る。彼は力なく笑った。
「また、泣いてんの? 青葉」
今度はどうしたのだ。質問してくる翔に嗚咽を漏らし、とめどない雫を流して体に縋る。気付けば、大声で泣いていた。その傍らでは、上体を起こす翔の胸部に、腕から抜け出した銀狐が頭を押し付け、スンスンと鳴く。
「なんだよ。姉妹揃って泣くなよ。泣くなって」
まだよく状況が分かっていない彼だが、同胞を慰めるために、長い尾を妖狐達に伸ばして一緒に抱き締めた。いつまでも抱き締めた。
踵返して本殿を出る比良利は微笑を浮かべ、北の巫女、北の守護獣と共に熱気に包まれる参道へ赴く。
もう本人の口から聞かずとも、北の神主には彼の行くべき道が分かっていた。
自らの意思で浄衣を身に纏っていることが、彼の、魂からの、なによりの決心の表れなのだから。
紅のヒガンバナの開花に歓喜し、南の神主の誕生を待ちわびる妖達に向かって一礼。爆ぜそうな喜びを前に、比良利は目覚めた十代目南の神主を祝して宣言する。
「今宵、十代目南の神主が目覚めた。鬼門の祠に結界を張り、瘴気を消してこの地を守った代行が、十代目として名を轟かせる夜の目覚めがやってきた」
この地に新たな南の神主が誕生する。
北の神主である、我の新たな対が産声を上げる。南の地を導く頭領が妖達の前に現れる。なんと喜ばしいことか。
「妖よ、同胞よ、愛すべき我が身内よ。九十九年、よくぞ辛抱してくれた――さあ、祝す準備を始めようぞ。十代目南の神主、三尾の白狐。南条翔のために!」
高らかに響く北の神主の声音と、妖達の拍手喝采。
月輪の社に響く喝采は鳴り止まない。嗚呼、妖達の喜びは鳴り止む事を知らない。