<二十一>目覚めぬ友よ、お待ちしております(弐)
日が傾き、夕暮れに空模様が変わっていく。
微熱の飛鳥のために、手頃の喫茶店で休息を取ることにした朔夜は、注文したアイスレモンティーで喉を潤し、顔を紅潮させている相棒の身を気遣う。
「飛鳥、家に帰った方がいいんじゃないかい?」
そう言うと仲間はずれはヤダ、と彼女。
メロンソーダに浮かんでいるバニラアイスを匙で掬いながら、自分はまだまだやれると鼻息を荒くする。
「後でガトーショコラを頼もうかな」
メニューを一瞥している時点で、かなり元気なのかもしれない。
(女の子って見た目によらずタフな生き物だな)
ついつい感心してしまう。
「しかし参ったね。ショウの行きたい場所がもう思いつかない」
お手上げだ。朔夜は現状に苦い顔を作る。
翔は三人の中で誰よりも我が儘を言う、素直な奴だが、それは自分達の傍にいたい時のみ発揮する性格で他面に関してはまったくの無頓着だ。遊びたい場所は、いつも自分達の要望に合わせてくれていた。
そのおかげで今、苦労している。幼馴染の分身は一体、何を思って自室を飛び出したのだろう?
テーブルに頬杖をつき、ぷかぷかと浮かぶレモンの輪切りをグラスから取り出す。それを口に銜え、酸味と仄かに広がる苦味を楽しんだ。ああレモンが美味い。
「なんか、こういうのも薄情かもしれないけど……ショウが危篤って言われても、現実味を抱かない僕がいる」
レモンを銜えたまま、朔夜は己の本音を飛鳥に明かす。
幼馴染が危篤。それはとても恐ろしく悲しい事態な筈なのに、片隅で他人事のように相槌を打つだけの自分がいる。
それだけ現実味がないのだ。幼馴染の姿を見ていないから、そう思えるのかもしれないが、今のところ、危篤という現状をにわかにしか信じられずにいる。
だって彼がすぐ近くにいるような気がするから。妖の世界に帰ったあの日よりも、今この瞬間の方が強くそう感じる。
「少し探せば見つかりそうな距離にいる。僕はそう信じて疑わない。どうしてだろうね? 単に現実逃避しているのかな」
朔夜の苦笑に飛鳥はかぶりを横に振る。
「私もだよ」
危篤と聞かされても、不思議とショックを受けない自分がいると飛鳥。呼んだら出てきそうな、そんな近い距離にいる気がしてならない。おかしなことに。
「ショウくんのことだから、どこかで走り回っているんじゃないかな。早く捕まえないと」
彼女が頬を崩してくる。つられて朔夜も頬を崩す。まったくもってそのとおりだ。
休息がてらシラミ潰しに赴いた場所を挙げて二重線で消しておく。二度も三度も赴かないように。また、彼と遊びに行った場所も挙げて候補にしておく。少しでも可能性がある限り、幼馴染を探しに赴くつもりだ。
最後に形代そのものを調べることにする。陰陽師や神主が使用する形代のことについて詳しく知っておけば、なにか手掛かりが掴めるかもしれない。身代わり人形としか知識がないため、その道に詳しい人間に電話することにした。
長や両親には聞きづらいため、同業者であり和泉家の次男でもある、朔夜の兄に電話を掛けることにした。
現在大学四年の次男、和泉 秀夜は開口一番に形代に興味を示す朔夜に、「お前じゃ作れないぞ」と釘を刺してきた。
どうやら形代を使用して、学校生活を楽にしたいのではないかと疑念を抱いているらしく、自分もそういう憧れはあったなどと昔話に花を咲かせる始末。
確かにあれば便利そうだが、遺憾なことに今は兄の昔話に付き合っている暇はない。朔夜は仕事に深く形代が関わっているのだと伝え、形代の特性について尋ねた。
例えば主が意識障害で倒れ、それによって身代わりをしていた形代が勝手に動き出すという事例はあるか?
秀夜に質問すると、『よくある話だな』と返事をされた。
『形代は主の身代わりだ。本体が倒れても、その主が死なない限り、形代は消滅しない。好き勝手に動き出すことはよくあることだ』
「どういったことで動き出すの? その契機は?」
『形代が動き出すのは一つしか考えられない。本体に強い未練が残っている場合だ。意識を失う前に、どうしてもしたかったことが心残りとなって形代に宿る。だから形代は動き出す。形代は主のために、少しでも未練を解消としようとしているんだな』
未練。
朔夜は電話を切り、遠巻きに話を聞いていた飛鳥に視線を送った。
「ショウくんの未練……形代が動き出すほどの未練って何だろう?」
妖関連であれば、お手上げだと彼女は意見する。どう足掻いても自分達は人間。妖の世界に赴くことは不可能だ。
「妖の社の場所さえ分かれば足を運ぶんだけど」
唇を尖らせる飛鳥が、おもむろに携帯を取り出す。時刻を確認しているようだ。
「六時半か」
相手の独り言を合図に、朔夜も携帯を取り出す。ディスプレイを開き、メッセージなどが着ていないか確認。ついでに雪之介から連絡がきてないか、幼馴染の携帯でも確認する。
と。
幼馴染の携帯が勝手に起動した。驚きの声を上げる朔夜は、一体何が起きているのだとテーブルにそれを置いて飛鳥にも見せる。
起動されたアプリはLINE。幼馴染と名目されたグループに画面が切り替わり、『待ち合わせは五時だったよな?』と勝手に文字が打ち込まれていく。
奇怪な現象に二人は見合わせる。間もなく自分達の携帯に、その連絡の通知が届いた。この連絡の意図は。
「もしかして、これ」
飛鳥がLINEのログを辿る。
約二ヶ月前。四月に入ってすぐ。春休み最終日に自分達は約束を交わしていた。それは自分達が企画し、幼馴染が行きたいと強く望んだ場所。
「そうか、あいつの未練は……」
形代の未練を導き出した二人は、急いで会計を済ませると一目散に大通りを駆け抜け、所定のバス停へと走った。
途中で通行人とぶつかりそうになり、その都度頭を下げることになったが、それこそ中年リーマンから舌打ちをされたが気に留める余裕はなかった。
暮れてしまった空の下、二人は鉛のように重い体に鞭を打って、ようやく待ち合わせのバス停に到着する。
閑静としているベンチには、つくねんと学ランを着た少年が座っていた手持ち無沙汰なのだろう。欠伸を噛み締めている。
ああ、久しく見る彼の制服姿。ヒトのかたちをしている幼馴染が、ぼんやりと待ち人となっている。
「ショウ」
声を掛けると弾かれたように顔を上げ、やっと来たと言わんばかりに鼻を鳴らす。
けれど。それ以上に、ドタキャンをされなかったことが嬉しかったようだ。次のバスに乗ろうと無言で笑顔を作り、時刻表を指差した。もうすぐバスが来ると言いたいらしい。
本当に楽しみにしてくれていたようだ。暦はもう五月だというのに、彼は花見に行く気満々らしい。
佇む二人の腕を引き、無理やりベンチに座らせる幼馴染の強引さは懐かしい。こんな風にして自分達を引っ張りまわしていたっけ。
妖の器となり、自分達に一線を置いてしまった彼。
そんな彼が、あの頃のように自分達と何処かへ行きたがっている。そう、あの頃のように。
程なくしてバスがやって来る。
来た来た。ベンチから飛び下りる、彼の元気の良さに朔夜は目を細めたが、すぐに笑みを浮かべ、「行くよ。飛鳥」と相棒に声を掛ける。
どうしても形代は花見に行きたいようだ。計画したのは自分達なのだから、とことん付き合わなければ。
「そうだね」
何かを感じ取ったのだろう。飛鳥は朔夜に笑顔を向けた。
「なんだよショウ。飛鳥は取らないよ」
ぶすくれている形代の視線に気付き、朔夜は苦笑を零す。
「ショウくん。拗ねてるの?」
飛鳥が頬をつつくと、別に拗ねていないとかぶりを振り、耳を赤らめていた。こういうところまで本人とそっくりだ。否、本人そのものだ。
バスに乗る。ICカードを翳した形代は、そそくさと奥に進み、三人分の座席を確保するために最奥の席に腰を下ろす。
そして窓辺を陣取ると、形代がおいでおいでと手招き。飛鳥、朔夜の順で隣に座ると彼は待ち遠しそうに窓の向こうに視線を流した。子供のようなはしゃぎっぷりである。見ているこっちまで嬉しくなってしまった。
(そうか)
朔夜は気付く。常に幼馴染が企画を受け持っていたのは、この気持ちを得たいためだったのか。
人を喜ばせることが大好きな、幼馴染ならではの小さな至福を知り、思わず笑声を漏らしてしまった。
何がそんなにおかしいのだ。キョン顔を作る形代に、なんでもないと手を振る。真ん中に座る飛鳥が人知れず笑っていたため、自分の気持ちを察したに違いない。
ゆらりゆらりとバスに揺れて二十分。
花見で有名となっている、池の畔の広場入り口でバスが停車する。
バスを降車した朔夜は、幼馴染二人を従えて、広場に足を踏み入れた。
池の畔を囲うように作られた人工芝の上では、ストレッチをしている人々の姿が見受けられる。夜が更けていくこれからの時間に、ジョギングを楽しもうとしているのだろう。外灯に照らし出された小さなコースが目を引く。
芝の感触を足の裏で確かめながら、桜の並木道があると有名な池の畔を訪問する。
闇が広がる一帯は静寂に包まれており、側らの大きな池の水面には外灯の明かりがぽつんぽつんと反射している。此処にもヒガンバナが見受けられていた。つぼみを膨らませている花は、まだまだ硬そうだ。開きそうにない。
お目当ての桜だが、予想していた通り、すっかり花弁が抜け落ちていた。青々としている若葉が自分達に向かってお辞儀をしている。
形代は酷く残念そうに肩を落としていた。どうしても桜の花が見たかったようで、どこかに遅れ咲きしている花はないかと探すほどである。
はしゃぐ姿を知っていた分、形代の落胆する姿には心を痛める。
けれど、これで良いのだと朔夜は思った。
誰も時を止めることなどできない。桜は季節に合わせて己の姿を変えている。また来年が来れば、美しい花々を咲かせて、見る者を魅了させることだろう。
自分達を置いて桜の並木道を歩く形代に、「待っているよ」と、声を掛ける。
足を止めて振り返ってくる幼馴染が首を傾げる。
突然何を言うのだ。物言いたげな面持ちに向かって力なく笑う。
「君の未練は花見じゃない。僕達の関係そのものだろう?」
そう、南条翔は自分達と交わした約束を、未練としているのではない。
花見を通してもう一度、あの頃に戻りたかったのだ。人間だったあの頃に。三人で過ごしたあの頃に。妖も代行も種族もすべて忘れて、幼馴染の自分達とひと時を楽しみたかったに違いない。
思いの丈が強くなった結果、形代は目覚めた。
けれど形代に伝えたい。人間の幼馴染は、もう世界の何処を探そうともいない。いなくなってしまったのだ。自分達の知る幼馴染は妖なのだ。
「妖になったお前は変わったよ。ちっとも人の話は聞かないし、逃げ足は速いし、時に僕達に向かってくる時もある。無茶ばっかりしてさ。心配ばかり掛けて」
それでも、彼は幼馴染なのだ。ヒトであろうと、妖であろうと、翔は翔なのだ。
「ショウは変わった。でも、変わらないものだってあるよ」
足を止めて等間隔に植えられている桜の一本を仰ぐ。
つられて桜を仰ぐ形代を一瞥し、彼に歩み寄った。
「また来年咲くよ」
めぐりめぐって、また春の季節に桜は咲く。その時、此処を訪れよう。三人で一緒に。
無理に人間でなくとも良い。妖の儘、有りの儘に自分達と肩を並べれば良い。妖祓の自分達だけど、それこそ時に妖を祓うこともあれど、妖を受け入れる覚悟も決めている。自分達はいつも南条翔の帰りを待っている。並行して探している。
「こんなところで彷徨っていても、お前の未練は解消されないよ。きっとみんな、ショウの目覚めを待っている。違うかい?」
相手に問い掛け、ちゃんと皆の下に戻るべきだと朔夜。翔を待ってくれている同胞の下へ戻らないと、皆が心配している。勿論、ヒトの世界で生きる自分達も。
少しは皆が心配していることを自覚するべきだ。他者を優先する翔の悪い癖だと朔夜は注意する。
「ショウ、このまま終わるのだけは許さない。ちゃんと帰ってきてよ。そして僕達と向き合ってよ。僕達は随分逃げ回ってきたね。最初は僕達が、次は君が、種族を口にして逃げてきた。いい加減、決着をつけよう」
もう終わりにしよう。こんな鬼ごっこ。
「終わるつもりで、僕達に会いに来たなら、僕は全力で拒絶するからね――ショウ、待ってる。お前の帰りを、いつまでも」
真顔で相手に訴えると、形代が瞬きしながら此方を見つめてきた。
泣き顔を作る形代に、飛鳥が微笑みを送る。
「信じてるよショウくん、私達の下に帰って来てくれることを」
すると形代の表情に晴れ間が差した。
くしゃくしゃに笑うと、嬉々溢れた足取りで駆け出し、朔夜の腕を、離れて立っていた飛鳥の腕を掴み、自分達をしっかり捕まえて軽く抱擁してくる。それに抱擁を返したところで、冷たい夜風が吹き抜ける。
形代が二人から離れた。夜空を見上げると、二、三歩下がり、軽く手を振ってくる。それは物寂しそうであり、満足気な顔でもあった。時間なのだろう。
「いってらっしゃい。あんまり待たせないでくれよ」
手を振り返すと、それが合図になったのか、彼は夜の並木道を駆けていく。徐々に体が透けていく形代に気付かぬ振りをして、彼の背を見送る。
やがて形代から一筋の光が立ちのぼり、身代わりの紙人形は夜空へと舞い上がった。
「朔夜くん。見て。流れ星」
紙人形を受け止めた飛鳥が、シャワーのように流れる幾千の筋を指さす。
まるで目的があるかのように、流れていく星は夜の空を翔けていく。あれは本当に流れ星なのだろうか。もしや。
いや、無用な詮索はよそう。
いま、朔夜にできることは待つこと。それだけなのだから。
翔の携帯を取り出し、雪之介に電話を掛ける。三度目のコールで出てくれた雪童子に、こう告げた。
「錦。ショウの形代が見つかった。うん、うん、形代はね。ただの紙人形に戻ったよ。きっと主の下へ戻ったんだろうね。思い出を抱えて。今頃、心配を掛けた仲間に叱られているんじゃないかな」
流れ星を見守る、朔夜と飛鳥の傍で花が咲く。
それは妖達がこよなく愛している、ヒガンバナ。祝福を知らせるために、ああ、ヒガンバナ達は一斉に咲き乱れていく。