<十九>北の神主、覚醒する
※ ※
日輪の社・憩殿にて。
第四代目北の神主のこと、比良利の意識が戻ったのは、多くの妖達が眠りに就く朝方のことであった。
高い熱に魘され昏睡状態となっていた彼の体重はすっかり減り、目覚めても暫くは思考を回すことができずにいた。介抱していた紀緒に声を掛けられても薄い反応を示し、
再び瞼を下ろしてしまう。それだけ気力と体力が削られていたのだ。
回復の兆しが見えたのは、半日経ってのこと。
浅い眠りに就いていた比良利は、ようやく言葉を思い出し、瞼を持ち上げて傍らにいる紀緒に水をくれるように声を掛ける。
彼女は安堵した表情で、水差しを口元に運んでくれた。頭を支えて、器用に水を飲ませてくれる。
「すまぬ。手を煩わせた」
「何をおっしゃいますか。こういう時こそ、甘えて下さいまし。まだお熱もあるのですから」
紀緒が濡れた手拭いで、額の汗を拭ってくれる。
「随分、長いこと眠っていたような気がするのう」
熱帯びた吐息をつくと、彼女は間を置き、本当に長い眠りに就いていたと返す。暦はもう五月だと教えてくれた。心なしか、声は泣きそうであった。
「五月。早いのう」
相槌を打つ比良利だが、徐々にその事実に驚き、布団を蹴り飛ばして身を起こした。
「な、何をしているのですか。比良利さま」
まだ起きては駄目だと驚きかえる紀緒の肩を掴み、あれから幾日経ったと尋ねる。
比良利の記憶では、暦が四月だった。なのに、いまの暦は五月とは。ああ、悠長に寝ている場合ではない。
「紀緒。至急、翔を呼んでほしい。鬼門の祠の様子が知りたい。瘴気はどうなっておる」
矢継ぎ早に尋ねると、紀緒が微かに顔を歪めた。それはどことなく喜びと、悲しみを宿した、曖昧な表情であった。
彼女は一歩分、間を空けると、手をついて頭を下げる。
「六尾の妖狐、赤狐の比良利さま。ご心配には及びませぬ。すでに瘴気は消え、此の地には平穏が訪れました。九十九の年、我らを苦しめていた禍根は消え去ったのです」
「なに、消えた?」
目を白黒させる。それはつまり。
「鬼門の祠に結界が張られました。貴方様の双子の対、三尾の妖狐、白狐の南条翔さまによって。彼の先導によって、この地は救われたのです」
報告する紀緒の声が震えていた。握り拳を作り、もう心配は要らないのだと繰り返す。それは喜ばしい話であった。神職の誰もが望む、吉報である。
なのに紀緒は、悔しさを露わにしていた。細い指を丸め、拳を作って、こみ上げる感情を抑えている。
「わたくしは何もできませんでした。申し訳ございませぬ。まことに、申し訳ございませぬ。比良利さま」
「紀緒よ。申している意味が分からぬ。何が、何が遭った」
そっと頭を上げた紀緒に代わり、返事したのはツネキであった。お前は大変な寝坊助だな、と皮肉ってくる金狐は縁側に座り、中庭に咲き乱れる赤きヒガンバナを眺めている。
足や胴に包帯を巻く狐の姿は痛々しかった。
しかし。なによりも、その背中が物悲しい。
ツネキが振り返り、比良利に告げる。
目覚めたお前がはじめにする仕事は『ハナタレ狐を褒めてやる』ことだ。あれはよくやった。幼いながらによくやった。腹立つ奴であったが、ひたむきな姿は感銘を受けた。
願わくは、また目覚めて欲しいもの。
比良利は嫌な予感がした。まさか。
「……翔さまが御魂封じの術を使われました」
紀緒に視線を戻す。彼女は沈鬱な面持ちで、比良利に言うのだ。三尾の妖狐、白狐の南条翔が御魂封じの術を使った。その御魂と引きかえに、溢れかえっていた瘴気を消し去った、と。
頭部を土器で殴られたような衝撃に襲われる。
あれを使ってタダで済む筈がない。
では、幼き白狐は。
「比良利さま。南の地は今、紅のヒガンバナのつぼみで満たされています。それを見た妖達は口を揃えてこう仰っています。十代目南の神主の誕生が近いと。しかしながら――」
久しぶりに浴びる五月の日差し。
随分、憩殿に篭っていたのだと比良利は気付かされる。
重たい体を引き摺って参道に出ると、昼間にも拘らず妖達が集っていた。
南の地から避難した妖達だと紀緒から聞かせているため、驚くことはない。彼等は比良利を見るや否や、わらわらと集まって声を掛けてきた。心配してくれる妖達に微笑みを向けながら日輪の社を後にする。
紀緒とツネキに支えられながら月輪の社に足をのばすと、此処にも妖達が集っていた。
彼等は嬉々した面持ちで、歪んだ石畳や破損した拝殿などの修繕にあたっている。
九十九年、放置されていた社が、妖達の手によって修繕されていく。次の十代目の誕生に備えて。それに目を細めつつ、妖達の心配してくれる気持ちに感謝した。
妖達に頭を下げながら本殿へ向かう。
木造の階段をあがり、そっと扉を開いた。そこに十代目南の神主となる、幼き妖狐がいると聞いていたから。
中には月輪の社を守る、南の巫女の青葉と、守護獣のギンコがいた。
比良利の登場に大層驚いた様子だったが、それもすぐに消え、沈鬱な面持ちに変わってしまう。
「比良利さま……申し訳ございません」
目を充血させている青葉が開口一番に謝罪をする。その隣ではギンコが蚊の鳴くような声で鳴き、しゅんと耳を垂らしていた。
何も返せない比良利は、視線を中央へと向ける。
祭壇の前には台が設置されていた。本来、設置されることのない台の上に寝かされているのは、噂の十代目南の神主の姿。真新しい白張を身に纏っている神主の手には、大切な白の宝珠の御魂がおさめられている。
組んだ手の間にそれを挟まれ、深い眠りに就いている翔を目の当たりにした比良利は、意味を成さない言葉を零してしまう。
支えてくれる紀緒の手を離れ、のろのろとした足取りで台に歩む。
一人前の妖となった翔の前に立つと、震える手を伸ばして、擦り傷の目立つ頬に触れた。血の気のない頬は氷のように冷たく、肌が粟立つ。
宝珠を持つ小さな手に己の手を重ねる。そこも頬と同じ温度だった。
「この、戯け者が」
気丈に振る舞おうとするが、すぐに綻んでしまう。
「ぼん。お主はとんだ戯け者じゃ」
比良利は詰まる息を吐き出すように悪態をつくと、その手をしっかり握り締める。
紀緒からすべて耳にした。成しえた大業のことを。並行して、自分の教えていない術を使用した身勝手な行為のことを。
果たしてこの状況は、喜べば良いのか、怒れば良いのか。比良利には分からなかった。
「御魂封じの術なんぞ、わしは一つも教えてなかろう。何をしておるっ、何をしておるのじゃ。翔よ」
よりにもよって、先代が死ぬ間際に使用した術を代行が使用するなんて。
「何処で術の存在を知った」
苦い感情を噛み締める比良利は、御魂封じの術により、己の御魂を砕いてしまった子の頭を抱き、声音を張った。
「たわけものっ。何故、わしの目覚めを待たず、術を使った!」
我が身を案ずることも、時に大切だと言ったではないか。無茶だけはして欲しくない一心で手向けた己の言葉を、ぞんざいに蹴るなんて。
比良利は少年を何度も責めた。成しえた大業を褒めるべきなのに、比良利はどうしても相手を叱りたかった。叱り飛ばしたかった。
「憐れもない姿になりよって。お主は代行としてどれほど無茶したのじゃ。嗚呼、どうしてわしは、もっと早く目覚めなかったのか」
妖達のために奔走したであろう生傷が、乾いた状態で体に刻まれている。それだけ体を酷使したのだろう。
「すまぬ……わしのせいじゃ」
幾度も頭を撫で、詫びを口にした。自分が早く目覚めていれば、齢十七の子どもに負担など掛けずに済んだというのに。
顔を上げ、彼の尾っぽを確認する。
三尾あった尾っぽは一尾に減っており、ただの妖狐を示していた。体内に宿していた宝珠の御魂は、彼の手元で静かに輝いている。
九十九年ぶりに見る白の宝珠の御魂は、青葉曰く翔の体に宿らなかったという。
それはきっと、彼の魂がそこにないせいだろう。
「……肉体はかろうじて、宝珠の加護を受けておるようじゃが、それもおざなりにすぎぬ」
虫の息とも言えない翔の状態は、すべては御魂封じの術による副産物と思っていい。
御魂封じの術は己の魂に禍根を封じ込め、己の妖力で浄化する諸刃の術。神主の切り札として使用される術なのだ。
比良利ですら、御魂封じの術は最後の手段としている。三代目から、そう教わった。
未熟な妖狐が御魂封じの術を使った結果、禍根共々翔の魂が砕けてしまった。
目前の少年は魂を失ったもぬけの殻なのだ。
こればかりは宝珠の御魂もどうすることもできない。
名の通り、魂が在ってこそ宝珠の御魂は持ち主に宿るものなのだから。
かろうじて、翔の肉体は宝珠の加護で守られているが、呼吸は絶え、生命の鼓動は止まっている。生きているといえば、まだ生きていると言わざるを得ない。
魂が戻れば、再び目覚めることもあろうが、それがどれほどの確率であるか、考えることも恐ろしい。
「宝珠が肉体を守っているということは、まだお主は生きたいと強く願っておるのかのう」
眠っている少年に尋ねる。
返事はない。眠っている彼は、いま何を持って眠っているのだろうか。生きたいと願っているのだろうか。それとも、お役を果たそうと夢の中で走り回っているのだろうか。比良利には判断しかねる。
しかしながら、彼が目覚める可能性はきわめて低い。
「わしは不甲斐ないのう。肝心なところでいつも間に合わぬ」
魂を引きかえに瘴気を消滅させた、翔の寝顔に見つめ自嘲する。
かつての対の危機にも間に合わず、今の対の危機にも間に合わなかった。北の神主失格だ。声を窄める。
南の神主は皆、短命だと言われているが、彼こそ短命だと呼ぶに相応しい。齢十七にして危篤だなんて、なんと世知辛い世の中だろう。
参道にいる妖達は、この少年が眠りに就いていることを知っている。
けれど彼等は知らない。少年の目覚める可能性が零に近いことを。
信じているのだ、再び少年が目覚め、代行から本物の神主に花開く日が来ることを。こよなく妖を愛し、ヒトを愛した若き神主代行の昇格を。
だが比良利は目覚めてほしい思いより、ゆっくりと休んでほしい思いの方が優った。
あどけない顔で眠る翔に、比良利は泣き笑いを零し、頭をまた一つ撫でた。
「ぼん、お主は一度たりともわしの前で弱音を吐かなかったのう。厳しい稽古を乗り越え、代行の重みに耐え、妖達を先導した。その小さな体躯で、よくぞここまでしてくれたのう。若すぎるお主がよくぞここまで。さぞ辛かったであろう」
ようやく、褒めの言葉を口にすることができた。
頭領の辛苦を知っているからこそ、若すぎる神主代行、いや、少年神主を褒めちぎる。慈悲溢れた面持ちを作り、子どもに感謝するのだ。
「赤狐の比良利は感謝してもし切れぬ」
頬に触れ、短い白髪を撫ぜる。
「白狐の南条翔、またの名を十代目南の神主。わしはお主と対になれて、まことに鼻が高い。心の底から誇りに思うぞよ」
慣れない激務に疲れたことだろう。どうかゆっくり体を休めて欲しい。
比良利の起こした微動により、少年の組んだ手がずれる。
それを組みなおしてやり、吐息を零す。
「このような状態で、器の体がいつまで持つのか」
いっそのこと、本当に眠りに就かせた方が良いのかもしれない。それこそ永遠に休ませてやるのが今、双子の対としてできる、最後の優しさなのかもしれない。
冗談じゃない。
台の側らで丸くなっていた銀狐が喧しく鳴いた。
ギンコは言う。
まだまだ彼に休める時間はない。彼には守ってもらわなければならない約束がある。自分と交わした約束があるのだ。
彼はきっと目覚める。自分との約束を果たすために。誰でもない、彼が約束してくれたのだ!
少年は生きている。まだ生きている。これからも自分達と共に生きるのだ。
だから白狐の南条翔を過去形にしないで欲しい。必ずや、彼は目覚めると訴え、銀狐は抱えていたぼろい黒衣を銜えると、脱兎の如く本殿を飛び出してしまった。重々しい空気に耐え切れなかったのだろう。
ツネキが慌てて追い駆ける中、彼等の背を見送った比良利は、苦い記憶が蘇ってしまったと苦言する。
先代が死んだ時も、似たようなやり取りがあった。
あの時も結局、ギンコの願いは泡沫となって消えた。繰り返される悲しみに比良利は言いようのない哀愁を抱く。無常な世だ。
ふと足元からネズミの鳴き声が聞こえた。
視線を落とすと、七匹の幼い旧鼠が比良利を見上げている。どうやら勝手に本殿に上がり込んだようだ。
「可愛い客人じゃのう。お主等は?」
本来ならば咎めるべきなのだが、比良利は構うことなく屈んで子供達に声を掛けた。
揃って鳴いてくる。兄ちゃんはまだ起きないの? と。
「はて、兄ちゃんとは」
疑問を浮かべる比良利に、暗い顔をしていた青葉が答える。この子らは、翔によって救われた旧鼠の兄弟だと。
瘴気の一件によって親を失った彼等の身柄を社で引き取り、翔が率先して世話していたそうだ。
「翔殿は、それはそれは旧鼠達を可愛がっておりました。多忙な身の上なのにも関わらず、時間を作っては子どもらの相手をしていたのです」
旧鼠達も少年を慕っており、翔を『兄ちゃん』と呼んで、彼の後ろをついて回っていた。青葉は声を裏返す。
なるほど。だから眠りに就いている、翔の様子を見に本殿へ忍び込んだのか。
「すまんのう、まだぼんは眠っておる」
優しい子供達に微笑を向けると、旧鼠達が手に持っていたものを差し出す。
比良利の糸目が微かに見開く。
彼等が持っていたのは名もなき白い小さな花、赤い木の実、菜っ葉や芋の欠片などといったもの。
少しでも少年に元気になってもらおうと、見舞い品を持ってきたらしい。末子であろう旧鼠にいたっては米を持ってきたと得意げに見せるものの、その量は少量も少量。来た道に米粒を落としている始末である。
少なくなっている米の量にあれっと旧鼠が首を傾げた。
兄姉に零すなと注意されるが、自分は頑張って持ってきたと主張。きっと兄ちゃんは褒めてくれると不貞腐れてしまった。
ついつい噴き出してしまう。
「お主、ぼんが好きか?」
比良利は末子に問う。うん、旧鼠は大きく頷き、これくらい好きだと諸手で大きさを表した。拍子に散らばってしまう米粒。
尾っぽを立てて焦る旧鼠に綻び、そうか、と比良利は相槌を打つ。
「ぼんは幸せ者じゃのう。お主等のような優しい子供達に慕われて。お主等の気持ちは、きっとぼんに届いておることじゃろう」
こんなにも可愛い子供達に慕われていては、少年もゆっくり休むに休めないだろう。
見舞い品を置いて良いか。旧鼠達が尋ねてきたため、比良利は許可を出し、台に向かう子供達を見守る。
台によじ登って四隅に見舞い品を置いた子供達は、物珍しげに眠り人の顔を覗き込んだ。
チュー。
七匹が一斉に鳴き、顔に頭をこすりつける。早く起きてね、元気になってね、また遊んでね。それまでいい子に待っている、と子供達がさみしげに鳴いた。
子供は敏感な生き物だ。翔の寝顔に何かを感じ取ったのだろう。その表情は不安にまみれている。
頃合を見計らい比良利は、彼等に手を差し伸べる。
足軽に腕を伝って肩に飛び乗る旧鼠達が尋ねてきた。兄ちゃんは、ちゃんと目を覚ましてくれるよね? と。
目を配り、小さく頷く。
「ぼんは時期に目覚める。北の神主は嘘をつかぬよ。目覚めたら、お主等が待っていることを、しかと伝えてやろうのう」
確証のない言の葉を並べ、一匹ずつ頭を撫でる。
すると純粋な子供達は、比良利の言葉を真っ向から受け止め、嬉しそうに鳴いた。それがとても辛い。
「さあ、もう一眠りしてくるが良い。まだ昼下がり、子供は寝ている時間じゃ。子供の仕事はよく食べ、よく遊び、よく眠ることじゃぞ」
本殿の扉まで送ってやると、旧鼠七兄弟は腕を伝って床に下り、行儀良く整列。比良利に頭を下げて参道の方へと駆けて行く。
「比良利さま」
それまで傍観していた紀緒が、物言いたげな面持ちを作って声を掛けてくる。比良利は苦笑いを零した。
「ひどい嘘をついたものじゃ。しかしながら、わしには失望させることなど出来なかった」
目覚めると信じている子供達の期待に応えてやりたかった。無垢な瞳を向けられると余計に、そう思ってしまう。
「少し見ぬ間に、ぼんは妖に愛されるほど、大きく成長しておったのじゃのう。幼い子供達にまで愛されよって。これではぼんも休むことなどできぬのう」
さすがは白の宝珠の御魂が定めた妖狐。
彼は十代目に相応しい資質を持っている。
「砕けたぼんの御魂は、もしかすると彷徨っているかもしれぬのう。でなければ、とっくに黄泉の国に旅立っておることよのう」
負けん気と根性だけは人三倍強い子供だ。
意地でも目覚めようと、躍起になっているかもしれない。
なにより十代目南の神主誕生を心待ちにする妖達がいるのだ。
その生き生きとした表情は、少年の妖を想う気持ちが届いた証拠。五方結界を張り、瘴気を霧散させた翔の無茶振りが、妖達の心に花を咲かせた。
「みな、待っておる。翔の目覚めを……十代目の誕生を」
これは意地でも目覚めなければ、少年の愛した妖達がまた涙することになる。
そんなの、翔の本意ではないだろう。
「亡き惣七よ。お主なら、鬼才のお主なら、このような時、どうする? 先を見据え、目覚める可能性の低い妖狐の真実を妖達に知らせるか。それとも一時の夢物語を続けるべきか――お主なら、どうする?」