<四>狐のギンコ(参)
油揚げに疑問が残ったまま、真夜中を迎える。
ベッドで浅い眠りに就いていた翔の耳に、小さな小さな音が聞こえた。
かりかり、かりかり。
かりかり、かりかり。
それは壁を引っ掻くような音であった。
翔はゆるりと瞼を持ち上げると、耳をすませて音の出所を探す。
(ギンコのいたずらか?)
音はクローゼットから聞こえてくる。ギンコの仕業に違いない。
(まずいっ)
親に見つかれば一大事だ。
急いでベッドから下りた翔は、ギンコのいるクローゼットを開ける。
「ギンコ。静かにっ、うわ!」
弾んだゴム鞠のように、ギンコが飛び出してきた。
驚きの声を上げる翔をよそに、狐は両前足を浮かせ、二足立ちして翔に寄りかかってくる。
いつもは聞き分けが良いというのに、翔が注意しても力なく尾っぽを揺らし、忙しなくクンクンと鳴くばかり。鼻先を体に押しつけ、何かを訴えてくる。
「どうした。ギンコ……怖いのか?」
狐は答えない。当たり前だ。獣なのだから。
しかし、なんとなくギンコの気持ちが伝わってくる。翔は甘えてくる狐に小さく微笑むと、獣の身を抱き上げて、優しく体を叩いてあやす。
「大丈夫。だいじょーぶ」
何も怖くない。
ここに怖いものなどない。
繰り返し、繰り返し、大丈夫だと伝えると狐がじっと翔を見つめてきた。安心させるように、もう一度、大丈夫だと伝える。
「お前のことは俺が守ってやる。怖くなったら、俺がいつでも傍にいるから」
それこそ飼い主が見つかるまで、ギンコが家に帰るまで、しっかりと守る。約束する。
そう狐に語りかけると、少しだけ、ギンコのこわばった体から力が抜けた。
約束の証として、獣の鼻先に自分の鼻を押し当ててやる。
ギンコの垂れていた耳が、ぴんと持ち上がった。気持ちが伝わったようだ。
(落ち着いたみたいだし、ギンコを戻すかな)
クローゼットに足先を向けた翔だったが、ギンコが嫌がるようにスウェットを銜えてくる。いつまでも銜えて放そうとしない。
翔は親に見つかる危険性と狐の気持ちを天秤に掛け、後者を選択した。
ギンコを抱えたままベッドに入ると、壁側に狐を置き、そっと毛布を掛ける。
そして翔も潜り込み、ギンコの隣に寝転んだ。
ひょっこりと毛布から顔を出す狐の頭を撫で、夜はいっしょに寝ようと言葉をかける。
「昼間は狭いところに閉じ込めているから、夜は自由にさせないとな。暖房をつけているとはいえ、クローゼットの中は寒いから」
賢い狐は翔の言葉を理解し、嬉しそうにすり寄ってくる。獣特有のニオイがしてくるが、不思議と不快にはならない。自分より体温の高い獣に安堵をおぼえるほどだ。
すっかり目が冴えた翔は、ギンコと話すことにした。
なんとなく喋りたい気分だったのだ。
「ギンコ。俺さ、昨日から不思議なことばっかり目にしているんだ。お前のこともそうだし、それに幼馴染のことだって……」
耳を傾けてくれているのだろう。
獣が顔を覗き込んできた。
「俺には大切な幼馴染が二人いる。近くに住んでいる奴らで、名前は和泉朔夜と楢崎飛鳥。ここに引っ越して来た時、最初に仲良くしてくれた奴らなんだ」
引っ越してきたばかりの翔は、その土地に馴染めずにいた。
母曰く新しく通い始めた幼稚園では、いつもひとりで滑り台にいたそうだ。
もう思い出が擦り切れてしまっていて、自分では上手く思い出すことができないが、毎日のように一人で遊んでいたという。
今では考えられないほど、内気で人見知りの激しい園児だったらしい。
それはそれは手のかかる子どもだったとか。
そんな翔に、声をかけたのが同じ組にいた朔夜であった。
あまりにも翔がさみしそうにしていたのだろう。彼の方から歩み寄り、仲間の輪に入れてくれた。そうして、彼伝いに飛鳥と仲良くなり、小中高と共にいる。
今では彼ら以外に多くの友人を得ているが、それでも気の置けない友人といえば、真っ先に幼馴染二人だと言える。
朔夜と飛鳥は翔の自慢であり、失いたくない者であった。
その気持ちがあまりにも強いせいで、近年彼らに迷惑を掛けるようになってしまっている。
「ギンコは、大好きな奴らができたらどうする? いっしょにいたいか?」
問いかけに、うんっと一つ狐が頷いた。
本当に賢い狐だ。
「俺もだよ。いっしょにいたい。だからあいつらの行くところに、俺も絶対について行きたがる。そんな性格になっちまった。うざいくらい、二人といっしょにいたがるんだ」
高校選びの時もそうだった。
二人が同じ高校に行くと知るや、翔もそこに行かなければいけないと使命感に駆られた。足りていない偏差値を上げるために猛勉強を重ねた。
それほどなまでに翔は『幼馴染』というものに執着していた。
不純な理由で選んだ進路は両親にばれていた。
母は呆れを通りこして落胆していたものだ。少しは自分のことを自分で決めたらどうだ。いつもいつも、幼馴染といっしょにいようとしてどうする。
そんな嫌味を投げられた記憶も真新しい。
「分かっているんだ。これじゃ駄目だってことくらい、ぜんぶ」
けれど、自分では決められないのだ。
選んだ道の先に何が待っているのか、それがとても怖い。
どうしても一人では進められず、誰かと共に進むという楽な道を選んでしまう。
悪い癖だと思っていたが、何も変えられずにいる。二人がいれば一人になることはない。そう思う安易な自分がいるのだ。
「だからかな。秘密にされて傷付いたのは。秘密にされると一緒に進めねえもんな」
疎外感を抱く女々しい自分に、翔は自嘲気味に笑う。
「昔から気づいてはいたんだ。朔夜と飛鳥、そして俺の間には大きな壁がある。違う“もの”を持っている。それに気づいていたはずなんだけど……きっと認めたくなかったんだな。俺たちはいつまでも、兄弟のように何でも話せる幼馴染だって思い込みたかったんだ」
こう思う自分は重いのだろう。
決して、二人には明かせない感情をギンコに赤裸々と明かす。
信じられない化け物を目にしたこと。どろどろとした疎外感に苛んでいること。漠然とした不安に駆られていること。
ぜんぶ狐に吐き出した。
「俺……ちっぽけだな」
自己嫌悪に陥っていると、ギンコが慰めるように頬を舐めてくる。ざらついた薄い舌で二度、三度、頬を舐めてくれる狐の優しさに目尻を下げた。
「あんがと。元気が出た」
胸に抱えているものが、少しだけ軽くなる。ギンコのおかげだろう。
「ギンコは賢い上に優しいんだな。毛並みも綺麗だし美人だ……どこの狐なんだろうな?」
うんっと首を傾げるギンコが可愛くて仕方がない。
「絶対に家に帰してやるからな。ギンコ、なにも心配いらないぞ」
先ほどの約束を繰り返す。
反面、別れが惜しくなったが、それは顔に出さず、翔は狐におやすみと言って瞼を下ろす。
間もなく、獣も大きなあくびをこぼし、翔の隣で安心したように身を丸くした。