<十六>知らぬが其の心(肆)
「結界の中に入るには」
出入り口を探すのも惜しい翔は、完全に解け切れていない結界に向かって、大麻を振り下ろした。いとも容易くヒビが入り、それはバラバラと砕けて、ぽっかりと穴ができる。
急いで穴を通り抜ける翔だったが、敷地に足を踏み入れるや、口元を白張の袖で覆った。
(なんて瘴気の濃度だ)
鬱蒼としている雑木林を覆い隠すほど、結界の内は瘴気が立ち込め、視界も空気も濁している。気体である瘴気に触れるだけで肌が粟立ち、息を吸うだけで肺にぴりっとした痛みが走った。呼吸すらも儘ならないとは。
(急がないと)
月明かりすら届かない、雑木林の前方を睨み、翔は一目散に駆け出す。前を遮る木の枝や茂みを大麻で振り払い、懸命に息を押し殺して宙を切る。
(朔夜。飛鳥、本当にごめん。ここまで俺を追って来てくれたのに、結局手を振り払って。でも今の俺じゃ、どうしても……お前らの気持ちを受け取ることができない)
それだけ重い役を背負っている。
私情で代行を降りるわけにもいかず、またそれを理由に行動することはご法度。
ならばせめて、妖達を守る名目で人間の町も守ろう。白狐の名の下に、妖とヒトが諍う元凶を断とう。それが二人の気持ちに応えられる、唯一の恩返しだ。
暗紫に濁っている空気を突っ切り、翔は祠の場所を目指す。
場所は比良利から事前に教えられている。また、あまり憶えてはいないが、以前自分の足で赴いたこともある。そのせいか、脳みそがこっちだと急かした。
進む方角に道という道はない。鬱蒼としている茂みを、ただただ突き進むばかりだったが、程なくして獣道に飛び出す。
左右を確認し、左の道を辿る。通りやすいように土で固められている、その道を走っていくと最奥にたどり着いた。
人工的に切り開かれた場所の出入り口には、七つの地蔵が左右に置かれ、此方に合掌している。向こうに見える石畳の道、その先には洞窟の入り口。注連縄で二重三重に結界が張られているものの、その縄は何者かによってすべて断たれている。
(あれが鬼門の祠)
翔は上がった息を整えようと呼吸を繰り返すが、濃度の高い瘴気によって咽てしまう。肺に鋭い痛みを感じた。眩暈によって足元がふらつく。
「くそっ、凄い臭いだ」
例えようのない異臭に吐きそうだ。翔は顔を顰める。これを吸って力を得ようとする、悪しき妖達の気が知れない。
観察したところ、目に見える瘴気は洞窟の穴から溢れ零れている。ドライアイスのように、もくもくと零れている気体に目を細め、翔は早足で祠に通じる穴へと足を向けた。
第一結界と呼ばれている注連縄の門を潜ると、大麻を構える。
此処の結界の張り方は比良利から教わっていたが、不思議と体が結界の張り方を憶えている。ゆえに翔は左、右、左に大麻を振ると額に二つ巴の証を浮かべ、引き千切れた注連縄をそれで撫でた。
注連縄の縄が宙に浮かぶ。千切れた身を再生するように断面から麻糸が伸び、目にも止まらぬ速さで編み込みがされ接合。しっかりと結ばれた。
こうして第一結界である注連縄の修繕が終わると、翔は縄を潜って洞窟を進む。
進めば進むほど瘴気の濃度は高くなり、呼吸が難しくなる。
(……此処は目が霞むな)
執拗に襲う眩暈を振り払い、冷たい岩壁に手を添えて伝い歩き。
相変わらず視界は利かない。強い夜目を持っているのにも関わらずだ。満目一杯の瘴気が視界を遮っているせいだろう。
しっかりと袖で口を覆いながら、細い一本道を進んでいくと、祠を囲っている第二結界が見えてきた。
第二結界も注連縄の結界だ。
祠を囲うように張られていると比良利は言っていたが、確かにその通りだった。小さな切妻屋根、紙垂を備えた祠を囲うように注連縄の結界がぐるっと一周している。
質素な祠に歩む。岩窪に溜まった水を踏んだせいか、草履と白張が濡れた。
水気を飛ばすように足を振りながら、まず第二結界を確認。引き千切られてはいないものの、今にも切れそうだ。悪しき妖たちは此処まで足を伸ばしたのだろう。
翔は大麻を構え、しっかりと補強する。妖達が安易に祠に触れないように。
(禽はこいつだ)
第一、第二結界を張り終えた翔は、観音開きの小さな戸を恐々開ける。比べものにならない、濃い瘴気が噴出してきた。
「わっ!」
驚きの声を上げてしまったせいで、目一杯肺に瘴気を取り込んでしまう。涙目になってむせ返る翔は、何度も嘔吐き、その場で両膝を突いてしまった。
「ぐ、グズグズしてると、本当に倒れる。早くしろ、俺」
太ももを大麻の柄で突くと、気合で立ち上がり、再び戸の奥を確認する。
その地の神であろう、九尾を持つ狐の像が祀られていた。
像の手前には陰陽勾玉巴。本物の勾玉で描かれているそれは、白い部分が見事に欠けていた。きっとこれが妖とヒトの世界を保つための媒体なのだろう。破損部分の向こうを覗き込むと、底知れぬ異空間が渦を巻きながら翔を見つめ返した。
この陰陽勾玉巴を取り外したら、一体どんな異空間が自分の前に現れるのだろう? 妖の世界は今以上に混沌に放られてしまうのだろうか?
好奇心を抱く翔だが、ハッと我に返り、恐ろしいことを考えるものじゃないとかぶりを振る。
(やばい。瘴気の毒が回ってきたか?)
祠から二、三歩、距離を置くと大麻を構えた。
比良利から口頭で教わった“五方結界”。
それは大麻に、すべての宝珠の力を注ぎ瘴気を容れる器、勾玉を具体化させ、そこに封ずるというもの。説明では簡単に聞こえるが、比良利の五方結界を目の当たりにしている翔は、並大抵の力では成功しないだろうと考えていた。
宝珠の力をすべて大麻に注ぎ込むのだ。制御するなど至難の業。宝珠を持つ翔だからこそ分かる。
亡き九代目南の神主の未練となっている五方結界。これのせいで九十九年、北の神主は二人分の仕事を請け負うことになった。
大麻を持ち上げ、勾玉に焦点を当てる。そっと瞼を下ろし、大麻に宝珠の力を注ぐため、体内の宝珠に呼びかける。自分に結界を張りなおすだけの力を貸して欲しい、と。
腹部がじんわりと熱くなった。みなぎる妖力が宝珠の力と掛け合わされ、大麻に流れ込んでいく。
風通りの悪い洞窟に風が生まれる。
使い手を中心に螺旋に風が吹きすさんだ。右の手で持っていた大麻が震え始める。翔は両手で大麻を握り締め、どうにか制御に踏み切ろうとするのだが、力が強すぎて言うことを聞いてくれない。
まだ術の発動させる段階にも入っていないのに。
「うわっつ!」
制御できない宝珠が放出。大麻から生み出された衝撃波によって、翔は壁に叩きつけられた。ずるずるとその場に滑り、膝を折って倒れる。
再び多くの瘴気を吸ったものの、持ち前の根性で立ち上がると、もう一度、五方結界を発動させるために大麻を両手で構えた。
白い紙垂を破損した勾玉に向け、体内の宝珠の力と己の妖力を掛け合わせる。制御する前に爆ぜてしまう宝珠の力により、翔は幾たびも岩壁に叩きつけられた。
体力の限界まで試そうと気張るが、気力も底を尽きそうである。己の思考を蝕んでいく瘴気が翔を苛み、自我を奪おうとする。必死に自我を保とうと、力任せに大麻で太ももを突くが、それもそろそろ無意味となりそうだ
やはり、ぶっつけ本番は無理があったか。
片膝をついて荒呼吸を繰り返し、霞む視界をどうにか見据える。
自分にもっと力があれば、それこそ九代目のような鬼才であれば、結界などすぐに張れただろうに。
神主代行として、あまりにも未熟な己の非力さを呪い、せめて瘴気だけでもどうにかしなければと思考を回す。
この瘴気を霧散させれば、あと数年は南の領地も安泰だろう。妖達を苦しめる瘴気を――そこで思考が途切れる。起こしかけていた上体から力が抜け、その場に崩れる。もう限界であった。
「しっかりしろ!」
力強く体を引かれたことにより、限界まで達していた翔の意識が浮上する。
重い瞼を開き、のろのろと顔を上げる。濁っていた瞳に光が戻った。自分の目が確かなら、己の腕を掴んでいるのは。
「まったく。君って男はほんと……どこまで僕達を走らせれば気が済むんだい」
朔夜――。
「それは勿論、ショウくんが走る限り、じゃないかな」
飛鳥――。