<十五>知らぬが其の心(参)
口腔に広がる鉄の味が、翔の体を不思議と軽くさせる。
今しかない。あらんばかりの力を振り絞って、朔夜の体を突き飛ばす。相手がよろめいた隙に腕を立て、素早く身を起こして地面を蹴った。
垂直に天へ昇る翔の体は、再び垂直に下降していく。彼らに捕まらぬよう、己の周りに狐火を召喚すると、青い炎をまき散らした。
おかげで狐火を回避する妖祓達と、距離を取ることができたものの、翔自身も着地に失敗して両膝をつく。呪符のせいで体が思うように動かない。
どうにか片膝を立て、肩で呼吸をすると、火傷を負っている左腕を押える。
「ショウ。もうやめろ。お前は限界なんだ! お前の体には呪符が貼ってある。妖力を出すことさえ苦痛な筈だ」
限界? 翔は自問自答する。本当に限界なのだろうか。
口元に付着した血を手の甲で拭う。その血痕を目にして、薄ら笑いを浮かべた。何が限界だ。寧ろ、その逆じゃないか。
ゆらりと立ち上がり、右の手を持ち上げる。呪符が動きを封じようと、邪魔をしてくるが、片目を瞑って痛みに耐える。
「俺は甘いよなぁ」
和傘の柄を受け止めると、翔は幼馴染達と向かい合う。
妖祓相手に、半妖でいる自分が甘い。和傘で挑む自分が甘い。彼らに呼びかける度に、尻込みをする自分が甘い。笑えるほど甘い。これで勝てるとでも思ったのだろうか。
翔は自分自身を笑い飛ばしたくなった。
「なにが頭領代行。無様にやられちまっているじゃないか」
負けられない立場にいるというのに、大麻を使わないとは何事だろうか。
使いこなす以前に、二人に使用したくない思いが優った結果がこれだなんて、とんだお笑い種だ。代行と名乗る価値もない。
「人間の俺がまだ此処にいる。だから、お前等に本気を出せない」
大麻は妖を守る刃であり、盾であり、時に身を滅ぼす諸刃の剣。二人に致命的な傷を負わせる可能性がある。どこかで自分はそれを恐れていた。人間の翔が恐れているのだ。
「俺は化け狐。赤狐の比良利さまに、南北の地を任される者――敗北は許されない」
額の二つ巴を妖しく開示させる。妖と社を守らなければ。瘴気を、結界を張りなおさなければ。
和傘を縦に振る。すると骨組みが見る見る紙垂と変わり、それは神主だけが持つことを許される大麻へと形を変えた。
「何をする気だ。ショウ。お前の体はもう」
笑みを深める。それは彼等に見せる、今日一番の笑顔であった。
「我が名は三尾の妖狐、白狐の南条翔。またの名を九代目代行南の神主――今宵、神に捧げる神主舞を主等に見せようぞ」
嫌な予感がしたのだろう。朔夜が飛鳥に呪符の効力を再び強めるよう告げ、地を蹴って翔の下に向かう。
言われた通り、彼女は指を立て、捕縛術の威力を強めた。それによって翔の顔が引き攣るものの、表情には余裕があった。
「ショウ!」
数珠を撒いた右の手を振り翳し、朔夜が強引に動きを止めようとする。紙一重に回避した翔は、軽やかな足取りで大きく飛躍した。
「さあ、とくとご覧あれ。我が神主舞」
痛む体すら忘れ、白張の袖を靡かせると、紙垂を流して宙を切る。普段は扇子で表現する繊細な動きを、大麻の紙垂で大胆に表し、観客である妖祓に魅せていく。
後を追い駆けてくる朔夜が、拳を振り下ろして仕掛けるが、翔は流れるように回避した。舞以外、眼中にもない。飛び跳ね、体を捻ってその場を回り、大麻を放って軽やかに手中へ戻す。
察しの良い朔夜は、これが足の動きで術を発動させる、禹歩の一種だと気付いたようだ。
「飛鳥、最大限まで術の効力を上げてくれ! ショウは舞踏することによって力を得ようとしている!」
もう遅い。神に捧げ、己の士気を高める舞は始まっている。
翔は大きく弧を描きながら、無心に陰陽勾玉巴を動きで模っていく。
中心の曲線を描くために一層大きく跳ぶと、舞い手の額に二つ巴が神々しく光り、足元に陰陽勾玉巴が顔を出した。見る見る呪符が剥がれ、翔を拘束していたそれは、紙切れとして夜の空に舞い上がる。
白と黒の勾玉が組み合わさった陰陽勾玉巴は、翔の動きに連動して次第にはっきりと姿を現していく。
大麻で流れを作り、尾を靡かせると額の二つ巴が強く発光した。陰陽勾玉巴の輪郭が金色に輝き、翔もその光に身を包む。
妖気の気流が、地から天に向かって吹きすさぶ。
「ショウくんから離れて、朔夜くん! 凄い妖力の渦だよ!」
追っ手が視界から消える。
より舞いやすくなった翔は、再び中心の曲線に戻り、滑らかに体を捻って飛躍した。
つま先を地につけ、踵を浮かしたまま宙を返る。描かれた陰陽勾玉巴は風の螺旋を生み、舞い手を軸につむじ風を起こした。それは、なんびとも舞の邪魔をさせない壁となる。
黄金に輝く大麻の紙垂が、闘志を宿したように紅に染まる。
すると陰陽勾玉巴の輪郭も紅に染まり、舞い手に同色の光を宿した。
“五方魂・南ノ書”によると、神主舞は神に捧げる舞、そして己の士気と宝珠の力を高める舞だそうだ。
神に幸福を捧げる舞は扇子を使用していたが、大麻を使用するこれは敵を打ち砕くための舞であり、神に闘志を捧げる舞だという。なんでも宝珠に神が降りるとのこと。
詳しいことは一切記されていなかったが、持ち前の妖力が上がるのだろうと翔は予想していた。
そして、この予想は的を射る。
以前はギンコに叱られ断念せざるを得なかったが、実際に舞ってみて分かる。これは妖力を上げる舞だ。火炎に身を投じたような妖力が、己の中で昂ぶっているのだから。
神主舞によって高められた宝珠により、体内で循環している妖の血がヒトの血を呑み込んでいく。ひとの血が消えていく音が聞こえる。濃い妖の血が全身を巡っていく。
勾玉の目となる中央の点へ優美に着地し、終幕を示すため、右手に持つ大麻を掲げた。
神々しく輝いていた陰陽勾玉巴が、ゆるやかに弾けると、翔の取り巻いていた光も弾ける。
舞い終わった体は灼熱帯びている。これは舞踏のせいではない。血管を滾らせる妖の血のせいだ。
(なんて力。比良利さんが教えたがらない筈だ。正直、妖力が制御できるか分からないぞ、これは)
どうやら無理やり妖力を上げる舞だったようで、体が既に悲鳴を上げている。
滴り落ちる汗をそのままに、閉じていた瞼を持ち上げる。
みなぎる妖力に握り拳を作り、翔は妖祓達を見据えた。
黒だったその髪は、完全にヒトの血を消滅させ、白狐の毛並みと同じ色に染まっている。人型ですら八重歯、否、犬歯が目立った。三尾に溜めている妖力は、以前とは比べられものにならない。
三尾を前後左右に揺らし、紅の眼を眇めて小さな唸り声を上げる。
宝珠の力を得て一人前の妖と変化した翔は、右の手におさめている大麻を構えると左、右、左にそれを振り始める。
「宝珠の主である我が声を聞け。その焼き尽くす御身を我に委ねよ。炎火解放!」
声音を張り、一刀両断する如く大麻を振り下ろす。
翔を軸に空気の波紋が生まれる。気温を上昇させる風圧と共に、大麻から目の眩むような火炎が四方八方に駆け抜けた。
「封魔結界!」
両手を合わせた飛鳥が朔夜を庇うように、その手の平を出して身を護る結界を張る。隙を逃さず、翔は再び大麻を左、右、左に振る。
「白の宝珠に集え、命の母となる恵の粒達よ。我に力を貸し給え。奔流解放!」
大麻を天に翳すと、紙垂から勢いよく水柱が昇る。
やがてそれは水龍の風貌となり、燃え盛る駐車場一帯を呑み込むように地面へ潜る。
炎と奔流がぶつかり合うことで互いを相殺し、勢いある水蒸気が生まれる。瞬く間に駐車場は白濁の霧に包まれた。
翔は霧を突き進む。
立ち往生している飛鳥を見つけたが、それは罠だと気付いた。
「そこか!」
翔は大麻を左に構え、数珠を持った朔夜の拳を受け止めた。妖力と霊力が衝突することで、反発しあうように静電気が生まれる。まるで今の自分達のようだ。
宙を返って体勢を整えると、朔夜が猪突猛進に懐に入ろうとする。間一髪のところで大麻を振った翔は、数珠の絡まった拳を弾くと、お返しがてらに柄で腹部を突いた。
「ちっ。止めたか」
かろうじて左の手で受け止める、朔夜の身体能力の高さに驚くが、攻める手を緩めるつもりはない。大麻で突きを繰り返す。
右に左に体を逸らして攻撃を避ける朔夜が、数珠を張り、向かってくる大麻を受け止めた。
しかし余裕はないようだ。朔夜のこめかみから、つーっと汗が流れている。
「なんて妖力だ。冗談にしてはきつ過ぎるよ」
一丁前に、悪態はつけるようだ。
「馬鹿野郎、今さら冗談にできっかよ!」
人間の血を捨てたのだ。無かったことになど、できるはずもない。
「朔夜くん!」
朔夜を助けるために呪符を放ってくる飛鳥の姿が視界の端に映る。翔は素早くしゃがんで、その呪符を避けると、成りを獣型に変え、颯爽と二人から距離を取った。
素早い動きができるのは、狐の姿となる獣型だ。物理的にごり押す場合は妖型。そして事細かな術を繰り出したい時は、人型が適していると翔なりに把握している。
これ等を如何に使いこなせるかどうかによって、勝敗が決まるだろう。
なにせ相手は歴の長い妖祓。幾ら翔が一人前の妖になれたからといって、彼等の上を取っているわけではない。ようやく力が追いついたと言ったところだ。
だが翔の目的は、妖祓の二人と決着をつけることではない。結界の起点を壊すことにある。
時間は限られているのだ。急いで結界をどうにかしたいのだが。
人型に戻って大麻を構える。
「こうして、お前等と対峙するのは三度目だな」
一度目は北の神主と対面した公園。二度目は自我を失いそうになった鬼門の祠前。そして三度目はこの駐車場だ。
がしゃどくろが導いた、あの夜はノーカウントとしよう。あれは、優先すべきことがあった。
嗚呼、恐れていた対峙を、三度も味わうとは。これも天命か。
しかし、今ならすんなり受け入れられる。妖の器であった時と違い、今の自分は妖そのもの。ヒトと相容れない存在なのだから。
「いくら実力を見せつけられようが、宝珠の御魂は渡さない。鬼門の祠にも手を出させない。これは妖達の問題だ。お前ら、そこを退け!」
声音を張り、幼馴染達に敵意を見せる。
「どうでもいいね。そんなこと」
たった今まで拳を交し合っていた朔夜が、その能面を崩し、激情を露にする。
「僕等の目的は、お前だと言っただろう。ショウが関わっているから、僕等は首を突っ込む。妖祓として首を突っ込む。これは僕等の意志だ」
今まで誰に言われて妖祓をしていた。しかし、今回に限っては条件付きで妖祓の職に戻り、こうして白狐を追っている。
「この意味が、お前に分かるかい?」
朔夜の問いに、翔は訝しげな眼を作った。
一番性格を熟知しているから、だろうか。相手をよく知っておけば動きも取れやすい。それ以上もそれ以下もないだろう。
思ったことを口にすると、朔夜が一層怒りをあらわにした。
「ショウは本当に分かっていない! 腹が立つほど分かっていない!」
口調を荒くする彼は、声音を張って数珠を構えた。霊力を集約することによって数珠全体が明滅し、見る見る暗紫に発光していく。
翔も大麻を左、右、左に振り、地に紙垂を向ける。数珠から放たれる相手の霊力の塊と、己が生み出した土の壁は同着で発動され、見事に術がぶつかり合った。
立ち込める砂埃が舞い上がる中、翔は軽自動車に飛び乗って向かってくる朔夜の拳を避ける。
少しでも体勢を崩そうと、援護する飛鳥が呪符に念を込め、それを大地に向かって放つ。次から次に放たれる呪符は地に貼り付いて数秒も経たない内に爆発。視界が砂礫で覆われた。
空に誘い込む手は、もう食らわない。
翔は大麻を蛇の目模様の和傘に変えると、それを開き、柄を軸に傘を回した。
一帯の空気を吸い込む和傘の先で風が舞い、やがて渦を巻き始める。小さな竜巻を作り出すと妖祓達に向かって放つ。
「九字の刃」
人差し指と中指を立てた飛鳥が宙を切り、妖力を纏った竜巻を斬って散漫させる。
「あれを消したか」
飛鳥が翔に向かってくる。
近距離で呪符を放たれたため、和傘を大麻に戻すと、呪符を一枚一枚叩き落とす。
しゃがんで足払いしようとする彼女から逃れるために宙を返り、背後を取った朔夜に視線を流す。
数珠を伸ばしてきたため、大麻で迎え撃つ。
柄に絡まってくる数珠を掴むと、彼の霊力が皮膚を焼いた。負けじと翔も妖力を注いで、相手にじわりじわりとダメージを与える。
力強く引いて体勢を崩そうと試みる、翔のこめかみから汗がとめどなく流れた。
短時間で多大な妖力を得た代償は大きい。無理やり一人前の妖になってはみたものの、成熟してきっていない体は限界に近付いている。
まさしく諸刃の神主舞だったようだ。
けれども、こうでもしなければ二人に太刀打ちできる術はなかった。後は自分の気合と根気が物を言う場面だ。
(早くこいつ等をどうにかして。杭をっ、結界をっ)
妖と社と共存が懸かった未来を背負っているのだ。
何が何でも二人を振り切りたいのだが、此方の思いを嘲笑うかのように、妖祓達が食い下がってくる。しつこい自分が言うのもなんだが、相手も大変しつこい。
朔夜が数珠を引いてくる。翔は口角を持ち上げた。
「力だけなら、単純に俺の方が強いぜ。朔夜」
数珠を握りなおし、渾身の力を篭めて、数珠ごと朔夜を向こうに投げた。相手は地面に叩きつけられる前に片腕で倒立すると、見事に着地を決めて回避する。
その拍子に彼の眼鏡が落ちた。砂だらけの手を払うこともせず、朔夜はぞんざいに眼鏡を拾うと、翔に毒づく。
「まったく大したものだよ。戦いのセンスはイマイチなのに、気合と根性で妖祓の僕達に張り合うなんて、本当にお前らしい」
三人の中で最も粘着質が高く、諦めが悪いのも頷ける。正直見くびっていたと朔夜。
「それだけショウの覚悟が強いということかな」
彼は目を細めた。
「でもね。僕等も覚悟を背負って此処に立っている。例え怨まれようとも、幼馴染を捕縛すると心に決めているんだ」
「はっ。宝珠は渡さねぇよ」
これは妖の重宝だと翔、大麻を前に持ち上げる。
「そんなのどうでもいい!」
宝珠など長達が狙っていることであって、自分達の目的はそれではない。朔夜は両手で拳を作った。
「寧ろ、僕達はそれを止める側の人間だ! いま、お前から宝珠を抜けば死んでしまう。そうだろう?!」
彼の怒声に翔は瞠目し、息を呑んで怯んでしまう。
何故、それを朔夜が知っているのだ? 人間側には、誰一人教えていないと言うのに。
どこまでも感情に素直な翔が露骨に驚くと、朔夜はくしゃっと顔を歪めた。
「言ったろ? 目的は白狐だって。お前だって」
白狐は南条翔であり、自分達の幼馴染。白狐が一件に関わっているから、自分達は首を突っ込む。妖祓として首を突っ込む。
本当は翔の正体が分かった時点で、妖祓を辞めるつもりでいた。身近な人物に恐れられる苦い思いなど、絶対に噛み締めたくなかった。
それこそ同胞殺しと思われたくなかったのだ。
「……なのに、お前は妖の世界に行ってしまった。ヒトの世界を捨てて。一時は腹を立てたよ。意地でも妖祓を辞めてやろうと思った」
けれど、朔夜は幼馴染が神主代行に就いたと知り、妖祓を続けようと思った。
自分達の知らないところで、幼馴染が妖の頭領代わりとなり、その身を危険に曝している。妖を狂わせる瘴気に自ら関わろうとする立場に就いたと知り、居ても立ってもいられなくなったのだ。
神主代行になれば、当然身内は宝珠を宿す白狐を狙うだろう。
幼馴染の命が危ぶまれるかもしれないと知りながら、それに見て見ぬ振りすることなど、自分達にはできなかったのだ。
なによりも怖かった。本当の意味で、幼馴染を失うことが怖かった。
「だから無理やりにでも捕縛して説得しようと思った。ショウを守るには、もうこの手しかないと思ったから」
「なにを、言って……」
「おかしいかい? 妖を守りたいと言う妖祓なんて。でも、本心さ。瘴気に当てられて狂うショウを見たくなかったんだ。二度と幼馴染に会えないなんて、やっぱり嫌なんだよ」
だから捕縛したかった。白狐の南条翔を。
「力のない僕等にできる精一杯は、これしかなかったんだ。お前を傷付けても、僕達はショウを守りたかった」
翔は呆けてしまう。
言っている、意味がよく分からなかった。
守るとはどういう意味だ。彼は誰を守りたいのだ? 同族であるヒトではないのか?
あからさま動揺する翔は力なくかぶりを振る。惑わされては駄目だ、と己に言い聞かせるが、冷静を上回る混乱が翔を襲う。
「分からない……人間の言葉など分からない」
ついには種族を盾にして逃げる。
「分かってよ。僕達がここまでする理由なんて一つしかないじゃないか」
朔夜は幼子に語りかけるように言葉を重ねた。
「ショウを失いたくないんだよ。僕も、飛鳥も」
うそだ。虚言だ。翔は力強くかぶりを振った。
「俺は、ショウじゃない。お前の知るショウじゃない」
人間のショウはもういないのだ。相手の気持ちを拒絶する。
「いい加減、戯言はやめろ!」
耳障りだと怒号を上げても、向こうは努めて冷静だ。
「うん。君は僕達の知るショウじゃない」
自分達は人間の南条翔しか知らない。朔夜は力なく微笑。
目前にいるのは三尾の妖狐、白狐の南条翔だ。妖となり、妖の世界を好むようになった幼馴染のことを自分達は何も知らない。
知らないから、いつの間にか相手を傷付けていた。
「以前、僕は君にこう言ったと思う」
心はヒトのままでいて。妖になるのはしょうがない。けれど心はヒトのままでいて欲しい、と。
「これはショウを苦しめる言葉でしかなかった。妖の血を持つ君は、既に心も妖と化していた。僕はそれを受け入れられなくて、今の君を否定するような発言を繰り返した。随分君を苦しめたんじゃないかと思う。僕の願いは自分の存在を否定されているようなものだからね」
「う、るさい」
「僕達はあの時、こう言ってやらなければいけなかった。妖であろうと人であろうとショウは」
「煩いっ、聞きたくねぇ! もう黙れ! 俺は化け物だっ、お前等とは別の生き物なんだよ!」
感情のままに大麻を地面に叩きつけた。
紙垂から風が放たれると二重、三重と波紋が生まれ、たちまち駐車場に砂埃が舞い上がる。
何も聞きたくない。聞けば自分の心が揺らぐ。それが分かっていたから、翔は彼等から逃げることにした。
急いで杭を壊し、妖祓の張っている結界を解こう。
第一心配される義理なんてないのだ。
これは自分が選んだ道。彼等の気持ちを先に裏切ったのは自分なのだ。怨まれていて当然と思っていたからこそ、二人の気持ちなんて聞きたくはなかった。
必死に代行の仮面をかぶり、標的の杭に向かって大麻を振る。
その直前で真横から抱きつかれた。完全に冷静を欠いていた翔は気付けなかったのだ。飛鳥が傍にいることに。呪符を放り出して己に向かって駆けていることに。
彼女と共に転倒してしまう。大麻を握ったまま倒れる翔は、すぐさま体勢を整えようと上体を起こすのだが、己の身に縋ってくる彼女のせいで立ち上がることができない。
「退けっ、放せ飛鳥!」
無理やり引き剥がそうとしても、彼女のしがみつく手の強さは増すばかり。躍起になって頭を押すが、やはり彼女は離れようとしてくれない。
「ショウくんは、妖でいいんだよ」
顔を上げた飛鳥が主張した。
「どんなに変わっても、ショウくんはショウくんだよ。私達の幼馴染に変わりはないよ!」
最悪だと翔は思った。
必死に代行の仮面を被ろうとしていたのに。していたのに。
「ずっと、謝りたかった。ショウくんを人間に強いていたことや、妖のショウくんを認めてあげなかったこと。ショウくんは優しいから……私達を傷付けないように、自分の気持ちを隠していたんだね」
気丈が剥がれ落ちてしまった。たった幾つかの言葉で、自分の目指していた道も、努力も、覚悟も、立場もすべて揺らいでしまう。
「一番傷付いていたのはショウくんなのに。ごめんね」
どうして今、言うのだ? 自分が望んでいた言葉を、どうして今、言うのだ?
「大好きなのは自分だけだと思っているでしょう? ショウくんのことだから、あいつ等は自分のことなんて忘れて前進している頃だとか思っていたんじゃないかな?」
そう思っているなら、訂正させて欲しい。
飛鳥の右手が右頬に触れてくる。大慌てでその手を振り払い、翔は彼女を引き剥がして、その場から逃げた。
「聞こえない。何も、俺は聞こえねぇ」
頑なに聞こえないを繰り返す翔は、妖祓から距離を取り、杭から退くよう二人に喝破する。妖の価値観は人間の価値観よりも残酷だ。同胞を守るためならば、異種族の殺傷も厭わない。自分は頭領の代わりなのだ。
だから。
強気な言葉も、朔夜の苦笑いによって崩れる。
「泣きながら殺す、と言われても説得力がないよ。ショウ」
翔は呆然と置かされた状況を見つめる。なぜ泣く必要がある。
「なんで俺……確かに決めたのに。比良利さんと約束したんだ。頭領の代わりを務めきるって。人間の俺は捨てるって決めたのに、なんで、なんで」
「ショウが覚悟をして決めたことだ。捨てても良いよ。ただね、僕等は捨てない。例え、君が化け狐になっても、幼馴染の君を捨てることはしない。あの時、言えなかったことを此処で言おう」
発言者を黙らせるために駆け出す。
大麻が振り下ろす、その瞬間、彼は微笑んだ。数珠を構えることもなく、翔がなにより望んでいた言葉を送る。
「妖でも、ヒトでも、君は僕達の幼馴染だ。ショウ、もういいんだよ。妖の自分を悪だと、僕達に見せつけなくていいんだよ。一緒に帰ろう」
勢いのなくなった大麻が、朔夜の肩に止まる。
「それじゃあ殺すどころか、気絶も無理だね」
軽く体を小突かれた翔は、卑怯だと顔を歪めた。ぽろぽろと涙が落ちていく。神主代行の顔が作れない。
「ふざけるなよ。まじ、俺がどんな覚悟で、お前等に背を向けたと、向けたと思ってるんだよ!」
子どものように癇癪を起こした翔は軽自動車に飛び乗り、それを台にして、外灯のてっぺんに乗った。彼等に背を向け、今まで溜めていた感情を吐き出す。
「人間でいて欲しいって言ってたくせに。今さら認めるとか、ふざけたこと言うんじゃねえよ! だったら、なんであの時、そう言ってくれなかったんだ。どうしてあの時っ……」
「ショウ……」
「俺は化け狐なんだ。もう人間じゃないんだ……」
翔は堰切ったように吐露する。なんで自分を追い駆けるのだと、なんで自分を怨まないのだと、なんで自分を嫌わないのだと。
自分は妖祓の不倶戴天の敵、人間を襲うやもしれない危険で歪な生き物。それは幼少から妖祓をしている二人なら、よく知っている筈。
なのに、なんで。自分を追い駆けたところで、メリットなんてないではないか。
「俺はいつもお前等を困らせてばっかだった。幼馴染に執着ばっかして、餓鬼みたいに駄々捏ねて。俺が妖狐になることで、これから先、もっと困らせることになる」
「死なれる方が困るよ。言ったろう? ショウを失いたくないって。あんまり言わせないでくれよ。照れる」
聞いているこっちだって照れる。毒づきたい言葉も、喉元で引っ掛かってしまう。
「いっそのこと、お前達に嫌われた方が楽だったかもしれねぇ」
恨みつらみをぶつけられた方が楽だった。誰よりも嫌われたくない相手に嫌われることで、自分の覚悟は揺るぎないものとなっていたことだろう。
こんな言葉で揺らぐことなどなかった。こんなにも情けない面になることもなかった。自分がどれだけの覚悟を持って、妖の世界に飛び込んだと思っているのだ。
「寂しかった。お前等と一緒にいられない未来を歩むことはとても寂しかった」
翔は頬を伝う雫をそのままに、胸の最奥に秘めていた感情を吐き出す。
「私達もだよ。おかしいね、種族は違うのに寂しい気持ちは一緒なんだよ。そして一緒にいたい気持ちも」
見上げてくる飛鳥の涙声に、嗚咽を噛み締める。白張の袖で雫を拭うものの、どうしても雫の量は減らない。自分は止める術を知らない。
「俺は妖狐だ。お前等とは一緒にはいられない」
何度も汚れた白張の袖で目元を拭い、クンと鳴いて、昼夜が逆転している生き物だと示唆する。
「そんな問題、どうってことないよ」
答えたのは朔夜だった。自分達だって夜に行動する妖祓。夜に動く生き物だと上擦った声で伝えてくる。
「俺には耳や尻尾が生えている。人間には生えていないものがある。だから傍にはいられない」
無理やり傍にいられない理由を作ると、飛鳥が大きな声で答えた。
「だったら私達もつけるから! 耳と尻尾!」
斜め上の返事であった。
しかし、彼女はしごく本気のようだ。翔が帰って来るのならば、狐耳でも猫耳でもつけると宣言する。
些少の羞恥心はあるだろうが、そんなこと二の次、三の次、優先すべきことは目の前の白狐だと飛鳥。隣で朔夜がしかめっ面を作っているが、彼女はどうとなる問題なのだとしゃくり上げる。
傍にいられない理由など本当は何処にもない。結局は自分達の気持ち次第なのだ。
「忘れないでショウくん。私達もショウくんのことが大好きなんだよ。自分だけと思わないでっ、寂しかった気持ちも、悲しかった気持ちも、大好きな気持ちも、それぞれ抱いていた気持ちなんだよ。他に心配事がある? あるなら言って欲しいよ。全部答えてあげるから」
どう翔が足掻いても、自分達の気持ちは変わらないし変えようとも思わない。
今まで人間の南条翔しか知らなかったのであれば、これからは妖の南条翔を知ろう。妖祓と妖という異色の組み合わせでも、自分達は胸を張って言おう。南条翔は自分達の大好きな幼馴染だと。
「だから、帰っておいでよショウくん」
飛鳥が翔に手を差し伸べた。
妖でいい。妖狐でいい。そのままでいい。また一緒に三人で過ごせるよう、努力すればいい話。妖の翔と肩を並べる覚悟を決めた。
そう言って、彼女は泣き笑いを浮かべる。
「お前等、最悪だな。本当に最悪だ」
翔が泣き面のまま、目を細めて笑った。
自分のことなど諦めてしまえばいいのに、執拗に追い駆け回すのだから始末が悪い。二人のせいで諦めようとしていた、寂しい未来を受け入れ難くなってしまったではないか。どう責任を取ってくれるのだ。
(……朔夜も飛鳥も、引き下がってはくれねぇんだろうな)
いつの間にか種族を盾にして逃げていた自分。その自分を捕まえようと、執拗に追い駆けて来る妖祓の人間に、力ではなく、ひた向きな気持ちで負けてしまうとは。もう駄目だ。どんな理由を述べようと彼等はそれを飛び越して来るに違いない。
ヒトと妖は相容れない。だから自分達も相容れず、寂しい未来を手繰り寄せてしまった。それは仕方がないことだと諦めをつけていた。
ああ、二人の気持ちが胸に浸透する。
願わくは、彼等と共にまたあの頃へ。
「ショウ。捕縛なんて言葉を使うのは不快だろうけど……僕達と来てくれないかい。瘴気の問題についてよく話し合おう。これ以上の衝突は無意味だ。じいさま達と、いま一度真剣に話し合う必要があると思う」
されど、されども。円満に二人と帰ることなどできない。
自分はただの妖狐ではない。赤狐の比良利に任命された。九代目代行南の神主なのだ。二人の気持ちを容易に受け入れることなどできない。
止まらない涙をもう一度、袖で拭うと大麻を二人に向ける。
「天の怒りは雨となり霰となれ――雷鳴解放」
瞠目する朔夜と飛鳥に、稲妻を落とした。
わざと軌道を逸らしたこともあって、術は簡単に避けられる。その一瞬に外灯から飛び下りると、妖祓を杭から遠ざけるために大麻で砂を巻き上げた。
構えていなかった二人が怯んだ隙に、大麻で鉄の杭を払う。護りの結界で弾かれる。諦めず、何度も大麻で杭を叩く。
『翔殿!』
駐車場に妖狐が飛び込んできた。青葉だ。一人前の妖となった翔の風貌に驚いている様子。
「青葉、狐火だ! これが結界の起点だ!」
宙を返って距離を取り、大麻を構える。
人型に変化する青葉が両手を出した。
「同時にいきましょう。翔殿、今です!」
周囲に小さな光の玉を召喚した青葉が、尾っぽにそれを纏わせ、勢いよく青い狐火を放つ。翔も大麻を振り下ろして火炎を解放。両者から生まれる灼熱で杭の結界を撃つ。
間もなく、硝子が砕けるような音と共に霊力の縄が焼き千切れた。
それによって雑木林を囲っていた結界が揺らぎ始める。
並行して瘴気が外界に漏出する。結界が解け始めているのだ。完全に解けるまで時間を要しそうだが、自分達の目的の一つは達成された。
後は瘴気と五方結界のみ。向こうの結界が解け切る前に、五方結界を張らなければ!
隣に並んでくる青葉に、自分は鬼門の祠に行くと告げる。
「青葉はギンコとツネキの回収だ」
翔は青葉に命じた。妖祓の長を相手にしている金銀狐と共に避難して欲しい、と。
此処にいると、瘴気に当てられかねない。宝珠という護身を持たない妖にとって、結界内の瘴気は危険過ぎる。
今の瘴気は結界に阻まれ、濃度も高くなっている。一刻も早く避難して欲しい。その際、瘴気を目的としているごろつきは、あらかた片付けて欲しいと付け加えて。
「駄目です翔殿。この結界が完全に解けてから共に入りましょう。今の瘴気は濃度が高く、宝珠を持つ翔殿でも危険です。あれの脅威はご存知でしょう?! 比良利さまがあれに当てられ、昏睡状態に陥っているのですよ!」
自分も一緒に行く。頑なに主張する青葉に避難しろ、と翔は強い口調で命じた。
その剣幕に彼女はたじろぐが、嫌だと何度もかぶりを振る。
「私だって南の地の巫女です。妖達を守るお役を持っています」
「分かっている。だから、お前達には避難して欲しいんだ」
翔は目尻を下げ、青葉やギンコ達には無事でいてもらいたいと一笑する。
もしも自分に何か遭った時、月輪の社を守れるのは青葉とギンコだ。皆が揃って倒れてしまっては元も子もない。
「まあ。青葉はしっかりしているから、俺が倒れても大丈夫だろうけど」
見上げてくる青葉に、後は頼んだと両肩を叩く。
「結界が解け切る前に五方結界を張らないと。瘴気が散漫して町にいる妖達が、人間達がまた苦しむ。これ以上、妖祓達と溝を作らないためにも俺は祠に行くよ。大丈夫、ちゃんと帰ってくるから」
満面の笑みを浮かべると、青葉の呼び止めを無視して、翔は雑木林の方角へ駆け出す。
「ショウくん!」
「あの馬鹿!」
背後から聞こえてくる悪態も聞き流し、ブロック塀を飛び越して結界へ向かった。




