<十三>知らぬが其の心(壱)
※ ※
翔の決断はすぐさま日輪の社へと知らせた。
瘴気問題は南の地のこととはいえ、妖祓の起こしている行動は、北の地を統べる日輪の社にも密接に関わってくる。月輪の社のために動いてくれている紀緒達には、報告しておかなければならない。
「翔さまが結界を張りに、ですか」
事を聞いた紀緒の返事は肯定半分、反対半分と曖昧なものだった。
北の神主が倒れている以上、代行を務めている翔に倒れられるのは本意ではない。最悪の事態を考えると、翔には安全な策を取って欲しいと紀緒。
けれど妖祓の行為は見逃すことができない。宝珠の御魂で管理している鬼門の祠に他者が手を出せば、どんな事態が起こるか予想すらできないと言う。
そこで紀緒は妖祓の張る結界を破壊次第、すぐさま社に戻ってくるよう提案した。
無理をして祠の結界を張ろうとしなくとも良い。試みることは大切だが、我が身も大事である。
「無茶と無謀は違いまする。貴方様は、南の地を統べる者。できる許容をいま一度、よくお考え下さいまし」
紀緒は妖祓の実力と翔の未熟さを説き伏せ、妖達のためにも無理だけはするなと、しっかり釘を刺してくる。
「分かった。紀緒さん、覚えておくよ。無謀なことはしない」
翔は彼女の意見を受け入れる。
しかし可能性がある限り、諦めないつもりだった。
比良利ならきっとそうする。実力がなくとも、その気持ちで天城惣七と肩を並べてきた彼ならきっと。しつこさには定評があるのだ。幼馴染を苦労させた粘着質の高さを、今こそ見せる時だ。
また紀緒は妖祓が作り出している包囲網は“五行星の結界”であろうと推測する。
妖祓達が使う上級結界の一つで、封印の点と点を結び合わせることで芒星形を描き、 あらゆる魔物を封じる。捕縛されている同胞達は皆、それにやられていることだろう。神職を携えている自分達ですら食らえば。タダでは済まないと語り部は説明する。
翔自身も、その結界は長達から受けたことがあり、身を持って経験済みである。
「あの結界は厄介だ。閉じ込めれば最後、妖気を持つ限り出られないから」
唸る声を漏らすと、紀緒が五本の指を立てた。
「結界は五点が結ぶことで初めて発動します」
ならば、その点のどれかでも破壊すれば、結界は解ける。鬼門の祠を囲う結界は、きっと祠の敷地全体を覆うほどのものだろう。
幾ら妖祓とはいえど、瘴気が充満している祠に直接足を運ぶ可能性は少ない。
瘴気は霊力を持つ人間にも影響が出るのだ。危険を冒してまで、鬼門の祠に近付くとは思えない。また、その付近には悪しき妖達が集っていることだろう。
「予測するに、妖祓は鬼門の祠がある鎮守の杜ごと囲い、余裕を持たせて結界を張ろうとしているのではないでしょうか」
規模は大きい分、術の発動には時間を要する。とどのつまり、結び合う点の一つでも壊せば幾日は時間が稼げる。
「規模の大きな結界を張る場合には、術者の霊力を物に篭める必要があります。恐らくは五点それぞれに杭を打ち、そこに霊力を注いで結界を張っているのではないかと思われます。その杭さえ壊せば」
「結界が解けるってことだね?」
紀緒はこくりと頷き、妖祓達に気付かれないよう杭を壊すことができれば一番良いと助言した。
しかし妖祓は賢い。杭を無防備に晒すとは、到底考えられず、何かしらの術を仕掛けていることだろう。
「彼等も我々の動きはある程度、予測しているはずです。油断してはなりませぬ」
彼女は眉を顰め、できることなら自分も赴きたいのだが……と、言葉を濁した。
「駄目だよ。紀緒さんは、いま北の神主代行じゃないか」
現在、紀緒は北の神主の代行を務めている。比良利の介抱をしつつ、社に赴く妖を世話しつつ、北の地の様子も見ている。連れて行くわけにはいかない。
翔は紀緒に、青葉とギンコを連れて行くことを伝え、月輪の社を任せてよいかと顔色を窺った。
本当ならば青葉を残し、神主代行と守護獣で鬼門の祠に赴かなければならないのだろうが、なにぶん翔は妖の器。守護獣のギンコを怪我させるわけにもいかない。どうしても青葉の力が必要だ。
すると紀緒はなんてことないと言った口振りで、任せておけと頷いた。
「翔さまに比べたら、わたくしのお役などまだまだ軽いもの。それこそ身を危険に曝すのですから」
「でも、紀緒さんには負担ばかり掛けさせて……」
「どうか、わたくしにも重荷を分けて下さいませ。同じ神職ではございませぬか」
紀緒は微笑んだ。
ただし、やはり若すぎる翔達だけでは不安だったようで、彼女はツネキを連れて行くよう促した。ああ見えて、金狐の妖術は比良利直伝。実力もある。必ず役立てることだろう。
なにより、彼が許婚を放っておけるわけがない。翔がいるなら尚更、引っ付いていくはずだ。
「すっかり好敵手にされていますね。仲が宜しいことで」
小声でからかわれた。翔もつい苦笑い。それは前々からだ。
月輪の社のことを紀緒に任せると言ったが、基本的には社に手を貸してくれる善意ある妖達に留守を任せるつもりである。
避難している妖達を一緒になって世話してくれる者達に、今夜は留守にすることを伝え、何かあれば紀緒を頼るよう伝えた。
また、翔は毎日のように足を運んでくれる妖一番の友人に声を掛け、鬼門の祠に関する事情を説明する。いつも支えてくれた彼にだけは、すべてを話しても良いと思ったのだ。
「そっか。翔くんが決めたことなら、僕は応援するよ。でも……」
雪之介はひどく情けない顔を作る。
「妖祓と一戦交えるんだね」
うん、強く頷き、翔は覚悟していると返事した。これは避けられない戦だと思っている。
「そんな顔をするなって。俺は大丈夫。何が遭っても、気持ちを曲げるつもりはないし。妖祓と鉢合わせしても根性でどうにか乗り切っ……やばくなったら、根性で逃げるから」
「あはは、翔くんらしいね。分かった、留守は任せておいて。君は無事に戻って来るんだよ」
どんなことが遭っても、自分は味方だと胸に拳を当てた。嬉しくなった翔も同じ行為を返し、雪之介に出逢えて良かったと心の底から感謝した。
「お前には、ほんと世話になりっぱなしだな。逢えて良かった」
「うわっ、やめてよ。ジジくさく遺言に言うの。翔くん老けた?」
散々な言われようである。
翔は冗談じゃないと頓狂な声を上げた。
「勝手に俺を殺すなよ! 俺の純粋な気持ちを、遺言だなんて失礼な奴だな」
「あれ違った? ここは涙を誘うシーンだと思ったんだけど?」
大袈裟に目元を拭っておどける雪之介に、翔もおどけて、再び拳をぶつける。
「だったら俺の友情に泣いてくれよ。いま、超クライマックスだから」
「なんて盛り上がりのないクライマックス! B級映画も真っ青だね」
「ほんっと、お前って失礼な奴」
笑い声が二つ上がった。
※
ネズミが齧ったような月が真上に昇った頃。
翔は愛用の和傘を片手にギンコに跨り、青葉と共に月輪の社を飛び出した。遅れて翔けて来るツネキと合流し、向かうは南の領地にある鬼門の祠。
地上の人工的な光と、天の仄かな光に挟まれながら、妖狐達は夜の空を翔ける。
「どれくらいで着くんだ?」
翔は己以外、妖型になっている同胞に目を配り、青葉に目的地まで時間を尋ねる。
『空を翔けている我等です。この速度であればすぐに着くことでしょう』
障害物もなにもない空を翔けていけば、十五分も要さないと告げてくる。
確かにそうだ。地上での生活に慣れ切ってしまっている翔は、空の交通の便の良さに納得する。此処には渋滞というものがない。近場に空港もないため、飛行機の心配もないだろう。
あるとすれば妖鳥の群、くらいだろうか。
翔は前方を睨み、闇に紛れて此方へ向かってくる妖鳥に舌を鳴らした。
瘴気を吸って妖力を高めているであろう妖鳥は、自我を失わず、その悪知恵を使って群で行動しているようだった。
これは厄介だ。一羽でも時間を食らうのに、群で来られると余計に時間を使う。一刻も早く鬼門の祠に行きたいのに。
和傘を構え、迎え撃つと目を眇める。
すると、傍らにいたツネキが、呆れたように鼻を鳴らす。まるでお前は引っ込んでいろと言わんばかりの態度である。
「ツネキ?」
横目で金狐を見やると、持ち前の美しい毛並みを靡かせ、ツネキは先頭に出る。
くわっと口を開け、鋭い犬歯を見せる金狐は、額の勾玉を眩く光らせると風の如く走り出した。金の尾っぽが輝くと、彼の周囲に青白い恒星のようなものが生まれ、それは星々と共に同化する。
勢いづくと、ツネキは群の前を横一直線に過ぎり、その球体を放つ。
寸の間、前線にいた妖鳥達の身が次々に青く燃えた。
断末魔を上げる妖に、ツネキは咆哮する。
同胞を傷付けるために力を得た、お前等は同胞でもなんでもない。そう、怒りの咆哮を上げ、金狐は瞳孔を膨張させると、群の中に飛び込んで颯爽と駆け抜けていく。
体毛に覆われた妖達は、放たれた炎に身を包まれていく。そして己の身から出る油により、その火力はより一層強められる。
燃え盛る炎は相手の身を焼き尽くすまで決して消えず、妖鳥達は飛ぶことを忘れて次々に地へと落下。黒い蒸気をあげて消滅していく。
「すげぇ臭い。なんだこれ」
焼けるその異臭と、きな臭さに思わず袖で口元を覆ってしまう。異臭は硫黄に近い。堪らない臭いだ。
『翔殿、吸ってはなりませぬ。これは瘴気の成れの果てです』
説明する青葉は苦言を漏らし、グルルと唸り声を上げた。彼女も異臭に鼻が曲がりそうなのだろう。
「ツネキは大丈夫なのか?」
心配を寄せるも、それは不要だったようだ。
異臭に諸共せず、妖鳥の群を全滅させたツネキは優美に自分達の下へ戻り、落下していく化け物を冷然と見下す。
なんてことのない敵だった。得意気にに鳴く金狐に、翔は凄いと褒めたたえる。
「お前は、こんなにも強い狐だったんだ。見直したよ」
すると、ツネキが尾っぽで翔をシッシと払う。通訳してくれる青葉曰く、あれくらいの敵も倒せないお前なんて自分の敵ではない、らしい。
まったくもって未熟な神主代行だ。赤い舌を出す金狐の性格の悪さに、翔はついついぶすくれてしまう。
「ちぇ。なんだよ。素直に褒めたのに」
と、ギンコがふてぶてしそうに鳴いた。
これまた通訳してくれる青葉曰く、実力はあれど、結局は浮気性なオス狐だと皮肉っているらしい。
浮気性と称されたツネキはぶわっと身の毛を逆立て、ぶんぶんとかぶりを振り、自分にはギンコだけだと耳を垂らして彼女の顔色を窺う。
途端にギンコは吠えた。
『うそおっしゃい。貴方からまた知らないメス狐達の匂いがする……と、オツネは言っていますねぇ。社を出る前に、メス狐達に囲まれていたのでしょう。呆れました』
言葉にならないと青葉。
ぎくりと体を震わせるツネキの視線は泳いでいる。否定の鳴き声は上がらなかった。
「ツネキ……お前って狐は」
翔は遠目を作る。
この金狐、緊急時まで何をしているのだ? その女癖をなおさない限り、ギンコと晴れて結ばれる日は来ないだろう。嗚呼、まったくもって、守護獣達が結ばれる日は遠い。
妖鳥の群を突破した一同は、鬼門の祠があると言われている一帯までやって来た。
翔は近くに鬼門の祠があると、誰に言われずとも察する。
何故なら、ここ周辺の空気が毒々しい。薄っすらと暗紫に染まっている空気は、町で暮らす一般の人間には見えないらしく、誰もが能天気に夜道を歩いている。
その様子を遠くから眺めていた翔だが、異変に気付き、固唾を呑んだ。
突然吹いたつむじ風が、次から次に通行人を襲い始めたのである。
人間は何がなんだか分かっていないようだが、翔の目にはしっかりと映る。カマキリのような前脚を構えている、イタチの群れを。
『あれはカマイタチです』
つむじ風に乗ってヒトを斬る悪戯者だと青葉。決して致命的な傷は負わせず、また傷口から出血させないよう配慮して斬る妖だそうだ。
けれど、地上の人間達は衣服を切り裂かれ、腹部や脚部からとめどなく血を流している。配慮も何もあったものではない。
満足げに人間を斬ったカマイタチの群れは、つむじ風に乗って姿を消してしまった。次の標的を探しに向かったのだろう。
「あれも瘴気の影響か」
翔はしかめっ面を作る。カマイタチを追い駆けたいが時間がない。後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にした。
ヒトの町は安寧に包まれているようで、水面下では瘴気を吸った妖達がはびこっている。
カマイタチを筆頭に幾つもの妖を目にしたが、ある者は建物を壊さんばかりに体をぶつけ続け、ある者は罪のない人間を虎視眈々と狙い、ある者は同胞に襲い掛かり、その身を食らっていた。
おぞましい光景を目にしたのは、電柱や電線を利用して巣を作り始めている土蜘蛛と呼ばれる妖である。
鬼の顔、虎の胴体、長い蜘蛛の手足。まさに歪な出で立ちをしている巨大な蜘蛛の化け物は、尻から糸を出して巣を作りつつ、その胴に夥しい数の卵を抱えていた。
青葉曰く、土蜘蛛は妖や人間を好んで食らう生き物だという。
翔は血の気を引かせた。土蜘蛛を何匹も目の当たりにしたからである。
「どいつもこいつも卵を抱えてる。嘘だろ」
『不味いですね……すべて孵化してしまえば、ヒトの町は瞬くに血の町と化します。土蜘蛛の数も異常です』
これも瘴気の影響だろう。青葉が推測する。
『あの卵が孵化すれば、大惨事を招きかねない。妖祓が動くはずです』
そう説明する彼女は、『ほら。あれを』と、言って鼻先を地上に向けた。
翔が地上を見下ろすと、二人の人間が土蜘蛛に呪符を放っていた。見覚えのある人間の顔ぶれ。あれは飛鳥の両親だ。
スーツに私服と生活感溢れた身なりではあるが、土蜘蛛を祓う姿はまさしく妖祓。
溢れ零れる霊力に肌が粟立った。土蜘蛛達に集中している彼等は、自分達の姿に気付かず、経や呪符を放って、土蜘蛛並びにその卵を調伏しようと奔走している。
「なるほどな。妖祓が結界を張りたがるわけだ」
ヒトの町から顔を背け、翔は妖の社と正反対の位置にある鬼門の祠を目指した。
クオン。前を走る金狐が一同に向かって鳴いてくる。鬼門の祠が見えてきたようだ。
ギンコから身を乗り出すと、小さな雑木林が目に映る。
町のど真ん中にある雑木林はうっそうとしており、規模的に大きくはない。
周辺に住宅は少なく、テナント募集のチラシが貼ってある空店舗や、駐車場ばかりが目立っていた。
またそこには妖のごろつきが集っており、我先にと雑木林に侵入しようと試みている。
しかし、雑木林には入れないようだ。 一目で結界が張られていることが分かる。
薄い硝子のような壁が雑木林をぐるっと囲っており、それに触れようとした妖達は、ことごとく弾かれ、その痛みに唸っていた。
結界の壁の向こうには、濃度の高い瘴気が立ち込めている。禍々しい黒い霧だ。あそこだけ奈落のように見える。
あれを吸い、比良利は倒れてしまったのだ。
(……あの中に入らないと鬼門の祠に行けないんだよな。想像以上なんだけど)
翔は細心の注意を払いながら、五行星の結界を結ぶ点を目で探した。
紀緒の仮説では、雑木林の周囲に杭が刺さっているとのこと。その杭を媒体に点と点を結び、大規模な五行星の結界を発動させている。
だったら、とてつもない霊力を使っているはずだ。
「青葉。杭の場所は分かったか?」
『ええ。場所はある程度把握しました。これほどの結界なのです。把握自体は、そう難しくありませぬ』
頼もしい巫女がいると心強いものだ。
翔は早速五点が結び合うポイントに案内してくれるよう頼む。五点の内、どれかを破壊すれば結界は解ける。鬼門の祠が封じられる可能性は低くなるだろう。
ただし、結界の中で立ち込める瘴気には要注意しなければならない。結界に阻まれ、外界に出ることができなくなった瘴気は、中でより濃度の高い毒と化している筈だ。
それに当てられれば、自分達の身は危ぶまれ、ヒトの町に潜む妖達にも影響が及ぶ。結界の周辺に集まるごろつき達は、その瘴気を吸い、力を得て人間や同胞に襲い掛かることだろう。
そう思うと、あの結界を壊して良いのかと、心が揺らいでしまう。
(もし失敗したら多くの犠牲が出る……だから、失敗は許されねーぞ)
もたもたしていたら、妖の社が危ない。社には多くの妖達が避難しているのだ。また、聖域が失われたら妖達はどうなってしまうのか。
翔は覚悟と、正しい判断を自分で導きださなければならなかった。
代行として何を優先すべきかを考え、道を選ばなければならない。楽な道などないのだ。少しでも楽を取ろうとすれば、きっと大変な過ちを犯してしまう。
「必ず結界を壊す。そして俺達は鬼門の祠に行く。俺は五方結界を張る」
翔は一切の邪念を捨て、同胞達と共に結び合う五点のポイントを目指した。
雑木林の周りをぐるりと翔け、周辺を観察してみる。
と、青葉が先頭を翔ける金狐に鳴き、何やら相談を持ちかけている。
如何せん、獣語を喋れない翔だ。彼等がどんな会話をしているか、まったく分からない。鳴き声で言葉を交わす妖狐達の会話を待っていると、突然、地上から天に向かって眩い光が放たれる。
瞬く間に光が金鎖と形を変え、それは牙を向くように翔を乗せているギンコの胴にしっかりと巻きついた。
驚きの悲鳴を上げる銀狐の体が、凄まじい勢いで地上に引き寄せられる。
「気付かれたか!」
翔は素早くギンコから飛び下りると、地上から伸びる太い光の鎖を和傘で断った。
並行して、許婚の危機にツネキが踵を返す。銀狐の体を押しのけ、背後に避難させると、落下していく翔の体を拾うため、電光石火の如く駆け出した。
「ツネキ、妖祓の姿は見えるか」
翔は宙を返って金狐の背に着地すると、改めて地上を見下ろす。
輩の姿を確認する前に、次から次に金鎖が放たれた。ツネキがしっかり掴まっていろと低く鳴き、術から逃れるために天へと昇った。
「くっ。まだ追ってくるか」
追ってくる金鎖は空気を裂き、次第に加速して向かってくる。
翔は身を乗り出し、追いつこうとする金鎖を和傘で払う。なおも、金狐を捕縛しようと、金鎖は四方八方の行く手を塞ぎ、一斉に襲い掛かってきた。
「舐めんなっ!」
翔は大きく飛躍してツネキの前に出ると、蛇の目模様の傘を広げ、渾身の限り横一線に振る。
それによって生まれた風は、うねりをあげて鋭い刃と化し、地上に連なっている鎖の輪を断ち切った。
「今だツネキ!」
狭いながらも道が開かれ、金狐はその間を通り抜けた。
落下する前にツネキの左後ろ足に掴まった翔は、その状態のまま地上を見下ろす。
紅の瞳の奥に潜む瞳孔を膨張させ、敵の姿を隈なく探す。やがて微かに見えたのは、妖祓であろう人間二人。風貌を捉えた翔は、妖狐達に告げる。
「気ぃ引き締めろ! 術を掛けているのは妖祓の長だ!」
声音を張ったと同時に、地上から眩い光が立ち昇り、無数の鎖となって天空にいる妖狐達の後を追う。
妖を捕らえるための金鎖は、身を捻りながら宙を舞い、大きく旋回して翔に、青葉に、金銀狐に狙いを定めた。
地上とは随分距離があるというのに、一寸の狂いもなく自分達を狙える腕前は、さすがだと思わざるを得ない。
金鎖が執拗に追ってくる。捕らえようとする鎖を紙一重に避けたツネキが、持ち前の牙で金鎖を噛み砕いた。
翔も応戦するべく、和傘で金鎖を振り払うも、鎖の数が多すぎる。いくら振り払っても、新たな金鎖が現れる。
「し、しまった」
右の足首にそれが巻きつき、勢いのまま地上に引き寄せられる。
ツネキの足から手を放した翔は、足に巻きつく金鎖を振りほどこうともがくが、金鎖はきつく巻きつくばかり。それどころか、動きを封じようと、次の金鎖が襲い掛かってくる。
間一髪のところで、風に乗ったギンコが翔を捕らえる金鎖を、持ち前の鋭い牙で断った。目にも留まらない速さで白張を銜えると、銀狐は翔を背に乗せて、それらから逃げる。
「ギンコ。助かったよ。ありがとう」
安心するのは早い。ギンコが背後を一瞥する。
「……狙いは宝珠を持つ俺か」
誰よりも金鎖の向けられる数が多いことに気付いた翔は、長達の狙いが宝珠の御魂なのだと察する。
これは絶対に奪われるわけにはいかない。宝珠は代行の名の下に管理しているのだ。奪われれば最後、本当の意味で人間と妖の双方が血を流してしまう。そんな恐ろしい日々が訪れてしまう。
『宝珠は渡しませぬ』
同じように、敵の目論見に気付いた青葉は、妖狐の姿を残したまま人型に変化した。両手の指の間に癇癪玉を持つと、惜しみなくそれを地上に投げる。
小さな癇癪玉だが威力は十二分にある。空中で爆ぜる煙幕は、地上にいる妖祓の視界を見事に奪った。
隙を突いて逃げ出すものの、ツネキが大きく鳴いて自分達に指示する。
固まって動いても効率が悪い。二手に分かれるべきだと。だから、自分があの妖祓の相手をしよう。時間を稼いでいる間に結界を解け。
そう勇ましく告げる金狐は大きく眼を見開き、額に埋まっている守護獣の証を開示する。
勾玉は眩い光と共にツネキの体を包み、溢れんばかりの妖力を与えると、尾っぽに炎を宿した。黄金の毛並みを風に靡かせ、彼は翔達から離れて地上へと向かう。
「ツネキ! お前だけじゃ危険過ぎる!」
夜の喧騒を上回る声音で叫ぶと、翔の身がギンコによって持ち上げられる。
白張の襟首を銜え、クンと鳴いてくる銀狐に眼を見開く。まさか。
構わず銀狐は伝える。
あれでも自分の許婚。ツネキが行くならば自分も行かなければ。これが終わったら、またご褒美に接吻をしておくれ。
甘えたに鳴くと、ギンコは翔の意思に関係なく、その身を青葉に向かって放り、煙幕が張られた地上へと踵返す。
「待てっ、ギンコ――っ!」
手を伸ばすものの、それに意味は成さない。
溺愛してやまない銀狐は、金狐の後を追い、その白い煙幕の中に身を投じてしまった。
嗚呼、幾ら守護獣であれど、相手は妖祓長。タダでは済まない。最悪、捕縛されかねない。
それでも金銀狐は、承知の上で危険な役回りを買って出たのだ。
(もし、ギンコとツネキがおばばのように捕縛されちまったら)
二匹の覚悟に奥歯を噛み締める。
「俺の役立たず!」
守るつもりが守られてしまった!
その悔しさを叫ぶと、昂ぶった感情に身を委ねる。
込み上げる激情は、やがて妖力となり、己の力となる。人型から妖型に変化した翔は、同じく妖型に変化した青葉に声を掛け、急いで結界を壊そうと告げた。
守護獣達が作ってくれた機会を逃すわけにはいかない。五点が結び合うポイントのどれかを早く壊さなければ。同胞達のためにも。
低く唸る翔に青葉は賛同し、自分が先導すると先を翔けた。後を追うために翔も白く美しい三尾を靡かせ、空を翔ける。
遠くでは凄まじい妖力と、霊力がぶつかり合っている。
ツネキとギンコが長達と衝突しているのだろう。どうか無事でいてくれ、参戦したい気持ちを抑えながら、青葉と共に結界が結び合っているであろうポイントの一つを目指す。
高度を下げ始めた青葉に倣い、翔も高度を下げる。
結界の周辺にいる悪しき妖達が自分達の姿を捉え、一斉に牙を向いてくるが、時間は惜しい。襲い掛かる輩を避け、その存在すら無視して夜風と同化。闇と共に結界沿いを翔け続ける。
やがて青葉が速度を落とした。
ポイントが見つかったらしい。あれだと鼻先で前を見るよう促してくる。
後ろを走っていた翔が、彼女と足並みを揃えると、指された方角に目を眇める。
テナント募集と表記されている空き店舗の裏口。硬そうな砂利の土に、深く銀の杭が刺さっていた。
その杭からは四つの縄のようなものが結ばれている。霊力の縄で結ばれているそれは、結界を張るための媒体。あれを壊せば結界は解けるのだ。
『翔殿。私は杭を壊します』
『なら、俺は縄を切る』
媒体そのものとなっている杭を壊すと告げた青葉に、翔はその媒体から伸びている縄を断つと返事した。
役割分担を決めて、各々杭と霊力の縄に向かって狐火を放った。
しかし杭も縄もびくともしない。それどころか青白い炎を吸収し、杭は翔達の攻撃をそのまま返してきた。
かろうじて避けた二人は、宙を返って空き店舗の入り口に立つと、もう一度、狐火を放って結界を壊そうと試みる。
けれど何度しても結果は同じ。
これでは壊すどころか、術が跳ね返って自分達の身が危ぶまれる。
『なんだよこれ』
苛立ちを募らせる翔は、思案している青葉に説明を求める。
彼女は間を置き、恐らく結界の結びを強化しているのだろうと仮説を立てた。
ある一点に集中して霊力を注ぐことで、他の点を強化し、なんびとも寄せ付けない力を発揮しているとのこと。
それは妖力が強ければ強いほど、攻撃が跳ね返る仕組みとなっている。だから無防備に杭を放置することができるのだ。周囲に妖祓が見当たらない筈だと青葉は唸る。
『じゃあ、どうすりゃいいんだよ! このまま何も出来ずに、妖の社には帰れねーよ!』
翔の主張に分かっていると青葉。
落ち着くよう促してくる彼女は、冷静を欠いては何も出来ないと返した。
ついつい熱くなっていた翔は、自分の先走った愚行に気付き、青葉の言うとおりだと持ち前の耳を垂らす。気ばかりが焦っていた。今のは完全に八つ当たりである。
反省する翔を慰め、青葉は自分の説明を思い出してほしいと視線を流してくる。
先ほど自分は、ある一点に集中して霊力を注ぐことで、他の点を強化しているであろうと言った。きっと一点を霊力の起点として、他の点に順繰り霊力を回している。
「言い換えれば、起点がすべての要であり弱点です」
これだけ大規模な結界を張っているのだ。起点まで強化すると霊力が足りず、また妖祓達も制御できないだろうと青葉。術は大きければ大きいほど、致命的な弱点ができる。
つまり、この五行星の結界の弱点は霊力を注ぐ起点だ。
『あくまで推測にですが、迂闊に手が出せない以上、他の点を調べる必要性があるかと』
青葉の説明になるほど、と相槌を打つ。
だったら話は早い。起点を探そう。
『結び合う点は、結界一帯のどこかに必ずあるんだろ? なら俺は結界を時計回りに、青葉は反時計回りに沿って起点を探そう。その方が時間も短縮できる』
『名案ですが……翔殿。妖祓は弱点のことも熟知している筈。起点に罠がないとも限りませぬ』
妖の器である翔を、単独行動させるのは危険だと青葉は判断したらしい。
しかし、危険なのは自分だけではない。此処を赴いた全員が危険であり、無事でいられるかどうか分からないのだ。
翔は宝珠の心配をする青葉に大丈夫だと伝える。危険が迫っても空に昇って逃げる。そして起点が見つかったことを青葉に知らせるため、あらんばかりの遠吠えをすると約束した。
その代わり、青葉も同じことをして欲しい。
置かされた条件は皆一緒なのだ。こうしている間にも、金銀狐は長である妖祓達と戦を交えている。
宝珠を宿す己の身を心配してくれる気持ちは分かるが、これのことばかりに気を注いでも事態は変わらない。
『宝珠はヒトの手に渡さない』
約束すると言葉を重ね、翔は先に行くと地を蹴った。
『翔殿!』
振り返ると、尾と耳を垂らし、青葉がクンと鳴いてくる。らしくない姿に驚いてしまう。まだ不安でもあるのだろうか? 嘆いても時間が過ぎるだけなのだが。
『これが終わったら一緒に帰りましょう』
『えっ?』
『……ですから、これが終わりましたら、一緒に帰りましょう。妖の社に』
青葉は恐々と言う。あの社は自分達の我が家であり、翔の第二の我が家。自分達は同胞であり、家族だと。
まるで拒絶を恐れているかのように、身を小さくして訴えてくる。本当に青葉らしからぬ態度だ。
けれども翔は純粋に嬉しくなった。
まさか彼女がそんなことを言ってくれるなんて、ゆめゆめ思いもしなかったのだ。他者と距離を置くばかりの青葉を知っているため、その気持ちに嬉々し、三尾を千切れんばかりに振ると強く頷いた。
『ああ一緒に帰ろう。そして、これが終わったら俺達のばあちゃんを迎えに行こう。早く迎えに行かないと、おばばに叱られちまうぜ』
『翔殿……』
『迎えに行ったら、おばばは俺達にこう言うんだぜ。ぬるい茶と煎餅を用意しておくれ。煎餅は砕いて、茶に浸すんだよ……ってさ』
おばばの真似をした翔は今度こそ地を蹴って、空き店舗の敷地から飛び出すと青葉と別れた。迎えに行く約束を果たすためにも、起点を壊さなければ。