<十二>白狐、南条翔の決断(弐)
※
逃げるように自室に飛び込んだ青葉は、悪化する事態に恐れおののき、やはりあの少年では無理だったのだと嘆いた。
文机に上半身を預けると、やりきれない現状に涙する。
代行になった彼に期待を寄せていたわけではないが、比良利が不在の間、どうにか社を守るだけの力は見せてくれると思っていた。
それだけに、込み上げる失望感が拭えない。
何故、宝珠は彼を指名したのだろう? もっと別の逸材がいたのでは? ただのヒトの子でしかなかった彼を生かして何になったのだろうか?
若すぎる代行の実力など高が知れていると分かっていながらも、青葉は誰かに八つ当たりせねば気が保っていられなかった。
自分を支える祖母は傍におらず、自分を愛してくれた先代も、九十九年前にこの世を去った。大きな孤独感が青葉の胸を占める。
嗚呼、社を失えば今度こそ自分の居場所がなくなってしまう。
親に売られ、女郎屋に縛られ、苦痛にまみれた毎日から命辛々逃げ出し、ようやく掴んだ幸せ。それが脆くも崩れ去ろうとしている。
(どうにか妖の社を守らなければ。どうすれば)
青葉の行き着く答えは一つだった。
代行を務めている彼に、瘴気を封じてもらう。
それしかない。それしか方法が無い。妖祓が瘴気を懸念し、結界を張ろうとしているのならば、諍いの根源である瘴気を封じてもらうしか他に手が無い。
(翔殿に御魂封じの術を使わせれば、瘴気は彼の御魂に封じられる)
しかし、それを使えば術者は……いや、些少の犠牲は仕方がないこと。それで多くの妖と神聖な社を守れるならば、心を鬼するしかない。
今昔、南の神主は天城惣七しかいないと思っている。彼のぬくもりはいつまでも残しておきたい。これから先も彼のことを忘れられないよう守り続けたい。
(まずは翔殿を一人前の妖狐にしなければ)
大丈夫、妖の器を妖にする手は残っている。
北の神主や祖母は不在だ。目を盗んで薬を調合すればいい。
それを記した和書は行方が分からないが、内容はほぼ覚えている。これは社の、妖の、未来のために必要な行為だ。そして神主は九代目以降、不要なのだ。
思い余った感情を抱いていると、部屋の障子から夕陽が射し込んできた。顔に日差しが当たり、伏せていた青葉はおずおずと顔を上げる。
「オツネ……」
半開きとなっている、障子の向こうに立っていたのは銀狐だった。
自分と喧嘩ばかり繰り広げる彼女が、自室に赴くなど大層珍しい。
「何の用です」
不機嫌に尋ねるがギンコは、冷然と青葉を見つめるばかり。数歩、部屋の中に入るとクンと鳴いて彼女はこう聞き返した。此処で泣いて何をしているのだ、と。
ギンコの問いに、関係ないではないかと青葉は素っ気無く返す。
能天気な守護獣は、まだ事態を知らないことだろう。いつだってこの守護獣は、肩書きだけで何もしてくれない。常日頃から不満を抱いている青葉は、お前には関係ないと言わんばかりに鼻を鳴らす。
すると銀狐がくるっと尾を向け、廊下に出る。呆れて出て行ったのかと思いきや、ギンコはついて来いと澄ました声で鳴く。
嫌だと態度で示すと、ギンコは強い口調でついて来いと鳴いた。
お前の探し物が何処にあるのか教えてやる、そう言って低く鳴く銀狐に青葉はたじろぐ。探し物、その単語に自然と鼓動が高鳴った。
(まさか、オツネ……いいえ、私の罪を知るわけが無い)
知る者は片手で数えられる程度だ。
密かに抱える罪を隠すように袴を握り締めていると、ギンコが再び鳴いた。重い腰を上げざるを得ない。
手の甲で涙を拭いながらギンコに歩む。
こっちだと先導する銀狐の後を追い、向かった先は中庭のヒガンバナ畑。誘われるがまま白い花々を踏み分けると、ギンコが苔の生えた一本の灯篭に立つ。
しゃがんで窪みを覗くよう命じられたため、青葉は息を殺しながら膝を折り、そっと中を覗く。
そこには小さな壷が身を潜めていた。震える腕を露にしながら、それを手繰り寄せ、蓋を開けて中身を確認する。探し求めていた物達が身を寄せ合っていた。
(オツネに知られていた、私の罪を……)
畏怖の念を抱きながら佇んでいると、見上げてくる銀狐が素っ気無く鳴き、青葉に教える。それを持っていたのは神主代行だと。
「か、ける殿が?」
呼吸を忘れてしまった。
何を言われたの分からず、青葉はギンコを凝視する。構わず銀狐は繰り返す。これを見つけ、隠し持っていたのは神主代行だと。
自分の用事はこれだけだと告げ、銀狐は青葉から去るため長い尾っぽを向ける。
「ま、待ちなさいオツネ。意味が分かりませんっ。何故これを翔殿が持っていたのですか?」
簡単ではないかとギンコ。と動きを止め、短く鳴く。
彼はすべてを知っていた。ただそれだけだ、と。
激しく混乱してしまう。知っていた? 薬を盛った輩が誰なのか、この狐も、神主代行も知っていた?
では揃いも揃って、自分の罪を知っていたということか?
言葉を失っていた青葉だが、息を吹き返すや、噛みつくようにギンコに詰問する。
「なら何故、私を問い詰めなかったのです。それこそ命を脅かしたことに対して、何故責を問わなかったのですか!」
自分はそれだけのことをしている。被害者は勿論、彼を愛している銀狐だって、思うことがあるだろう。
怒りは感じないのかと青葉。責め立てない理由が見えず、ますます畏怖してしまう。
責められたいのか、ギンコが尋ね鳴く。
なら安心するがいい。彼はきっとお前を責めなどしない。自分も責めてなどしてやらない。
これから先も罪は明るみに出ないと言う銀狐に、青葉は卑屈になった。
「偽善ですか。揃いも揃って、私を憐れんでいるのですか」
その言葉に銀狐が振り返り、青葉に歩むと地を蹴って飛躍。体をひねり、銀の尾っぽで右の頬を張った。
呆ける青葉に対し、ギンコが激昂したように吠えた。
お前はいつもそうだ。
妖の社を守るだの、巫女としての務めだの、なんだの皆を想う振りをして、結局は自分のことばかり。何をするにしても自分のためだけに動いている。
社を守りたいのは永遠に先代を想いたいから。想うことで独りではないと感じられるから。自身の居場所をいつまでも確保したいから。
だから、お前は簡単に犠牲を考えられるのだと銀狐は主張した。
お前を想う周りの気持ちを知らないから“犠牲”という道を容易に選べる。先代を忘れたくない一心で動いている行為に理解できる一方、どうして今の現実から目を背けようとするのか自分には分からない。
お前は神主代行のなんだ? 支える巫女だろう? そして自分は支える守護獣。共に支えあわなければならない存在だ。
何故、お前を責め立てないかなど。分かりきったことではないか。
お前を信じたいから。同胞だと思っているから。同じ神に仕える家族と思っているから。
行為を知ってもなお、お前を想い続けた彼と自分の気持ちなど知らないくせに。
お前と喧嘩ばかりしても、姉妹のように思い育ってきた自分の気持ちなど知らないくせに、偽善などと安い言葉を向けないで欲しい。
誰かに想われていることを知れ。今の現実から目を背けるな。自分が何をすべきか考えろ。
まったくもって腹立たしい、ギンコは唸るように鳴く。
独りで社を守ってきたと思う青葉にも、無茶ばかりして体を酷使する翔にも、自分達を置いて捕縛されたおばばにも腹立たしい。
何かあれば誰かが悲しまないとでも思っているのだろうか。心痛まないとでも? 本当に腹立たしいとギンコは唸る。
一呼吸置くと、銀狐は青葉にこう伝えた。
誰も犠牲になどさせない。
神主代行も、巫女も、同胞も、共に未来を歩めるよう守護獣として皆を導き、務めを果たす。それが自分の天命だとギンコ。
ようやく、そう思えるようになった。先代の死にとらわれ、憎むことで己を保っていた自分がようやく前に進めるようになったのだ。
お前だけが先代の死を引き摺っていると思ったら大間違いだ。
二度も悲しい思いはしたくない。
あの頃のように力の無い自分ではない。
成長した自分は、少しでも神主の支えとなる。誰かを守護できる妖狐となる。愛しいあの人に見合うだけの妖となる。
だから、自分はお前を責めてやらない。責めて欲しければ、他の相手を見つけることだ。罪から逃げたければ逃げればいい。誰も止めはしない。
――しかし、このオツネ。神主や妹のお前と共に社を守ると、覚悟を決めている。
銀狐は強く宣言すると、呆ける青葉に鼻を鳴らして参道に向かって駆け出した。
残された青葉は赤く腫れた頬を擦り、腕に抱えている小壷に目を落とす。
誰も自分を責めてくれない。責めてくれた方がまだ気が楽なのに。
誰も自分を責めようとしない。遠まわしに行動を諌めた北の神主も、気持ちを聞いてくれた祖母も、被害者の翔も、姉妹同然の銀狐も、誰も責めようとしない。
「周りの気持ちを知らないから犠牲を簡単に選べる――か」
中庭に佇んでいた青葉は徐々に冷静を取り戻し、その壷を自室に置くと、神主代行を探すことにした。
口汚く罵ったことについて詫びようと思ったのだ。
さすがにあれは子供染みた罵声だった。妖の器でありながら、懸命に代行を務めようとしていた彼に申し訳ないことを言ってしまった。
嗚呼、でも百も違う少年になんて詫びよう。
しかも自分の行いを知ってもなお、親しく接してきた少年にどの面を下げて会えば。
また青葉には、心に引っ掛かるものが残っていた。
それはギンコが今の今になって、行いを知っていたと白状したことだ。
今まで知らぬ存じぬ振りをして青葉に接していた彼女が、今になって罪を知っていたと、和書や調合用の薬種が入った壷を自分に返してきた。その意図は?
あくまでギンコの怒りは、偽善と口にした言葉であった。薬を盛ったことに対しては頑なに触れようとしなかった。責めて立てない理由が、どうしても見えない。
自然と重くなる足を奮い起こし土間に入る。
彼を置いて飛び出した土間にその姿はなく、青葉の落とした薬草が、丁寧に台に置かれていた。彼の部屋や参道、拝殿に赴いても姿はない。疲労の色を見せている妖達に、目を配り、懸命に姿を探す。
「ここにもいない。どこに行ったのだろう」
大抵、参道で妖達の世話をしているのだが、やはり姿はない。
残るは本殿だ。
本殿に赴いた青葉は、神主代行が建物の中にいると確信する。木造の階段の前で草履が揃えられていたのだ。彼は中にいる。
息を呑んで段をのぼり、厳かな扉を押し開く。
視界に飛び込んだのは、守護獣の姿。自分を張り飛ばした後、神主代行の傍にいたらしい。
その神主代行は、ぼんぼりが照らす祭殿の前で足を折り畳んでいた。背を向けているため、彼の表情は一切見えない。
「翔殿。ここで何をしているのですか?」
「青葉か。丁度良かった」
恐々声を掛けると、そろそろ本殿を出て、探しに行こうと思っていたのだと翔。扉を閉めて、中へ入ってくるよう促してくる。
「誰にも会話を聞かれたくないんだ」
そう告げてくる少年の指示に従い、青葉は履物を脱いで一室へ。
扉を閉めて翔の下に歩み、彼の後ろにつくような形で足を折り畳む。
それを合図に翔が体ごと振り返る。青葉を捉える黒い瞳はやけに澄んでいた。一点の曇りもない眼を受け止める勇気が持てず、視線を床の目に落としてしまう。
詫びなければ。この場の空気を裂くために重い口を開く、が、その前に翔が口を開いた。
「青葉。今宵、俺は鬼門の祠に赴く。妖祓達の結界を壊すために。そして五方結界を張りなおすために」
息を呑んでしまった。
固まる青葉を余所に、翔は言葉を重ねる。
今の妖の社は不安定だ。日月の神主は不在、妖達が頼りにしている代行も未熟。瘴気は拡大し、妖祓達の打つ手も強まるばかり。
それによって妖達がより不安を抱く。時間が経てば経つほど、その不安は大きくなる。このままでは、いずれ避難した妖達の不安が爆発してしまう。身内同士で傷付けあってしまう。南北の領地はもっと荒れてしまう。
紀緒の案で妖達を避難させ、一人でも多くの同胞を救おうとしているが、結局のところそれもおざなりにしか過ぎない。
もはや月輪の社総出で動かなければならない事態に追い込まれているのだ。
日輪の社にも負担を掛けている。この状況を打破したい。
「南の鬼門の祠の結界は、白の宝珠の御魂を持つ者にしか張れない。だから俺は行く。今夜、鬼門の祠へ」
北の神主が張れなかった結界を、白狐が張りに行くと申し出た。
口頭ではあるが、結界の張り方は比良利から教わった。また記憶はおぼろげだが一度、結界の補強をしている。試す価値はあるだろう。
「しかし翔殿」
淡々と説明する翔に、青葉が真っ向から意見した。
今の翔は不安定ながらも、妖達の支えの柱。神主代行に希望を寄せ、皆が頼りにしている。鬼門の祠に赴いて、無事でいられる保証もない。翔まで倒れては、それこそ妖達を不安に貶める。
なにより翔は妖の器、確実に結界が張れると言えないではないか。
「貴方様の行おうとしていることは、無謀にございます。おやめください」
翔の提案は呑めない。青葉は異議を唱え、比良利が目覚めるまで待つよう促した。
それに対し、彼も真っ向から意見する。
「比良利さんの回復を気長に待っていたら、妖達の不安が爆発する。待つ間、妖祓が次の手を打ってくるかもしれない」
なにより北の神主が目覚めても、すぐに結界を張れるとは思えない。彼は鋭く指摘する。
「比良利さんはいま、昏睡状態だ。元々北の地を統べる神主なのに、南の地に気を回して、倒れてしまった。そんな彼に、俺は目を覚ましてすぐに頼る、なんて出来ないよ」
彼は南の地の頭領ではない。北の地の頭領なのだ。長期間、北の神主が不在になれば、北に住む妖達が不安を抱く。そして南の地に不満を抱き、両者の諍いの種になるだろう。
そうなれば最後、南北問わず、妖の世界は混沌に放り込まれる。
自分が赴かなければならないのだ。南の神主代行である白狐が。
「勿論、未熟な俺に結界が張れる保証は何処にもない。最善は尽くすつもりだけど、所詮俺は半人前。妖祓すら、まともに相手にできるかどうかも分からない。それによって青葉とギンコに迷惑も掛けると思う。それでも、妖の社が失われるようなことだけにはなって欲しくない。手遅れになる前に手は尽くさないと。比良利さんが俺の立場なら、きっとそうすると思う」
だって此処は妖の聖域であり、青葉とギンコ、おばばの家。誰だって帰る家が失われるなんて嫌ではないか。彼は微笑む。
「平和になったらおばばも、きっと帰って来る」
その時のためにも、我が家は守り抜かなければならない。
家に帰りたくとも帰れなくなくなった、神主代行ならではの言葉は、慈悲に溢れていた。
「俺も一妖としてお前等の悲しむ顔は見たくない。社を失いたくない」
クン。鳴いて擦り寄るギンコの頭に手を置き、彼は銀狐を優しく撫でる。
「此処は俺を成長させてくれた、素晴らしい神社だ。大好きな場所だ」
妖の社があったから、自分は青葉達に出逢えた。大切なことを沢山学べた。多くの妖と繋がりを得ることができた。個人の気持ちとしても、社を守り抜きたい。
彼は柔和に頬を崩す。
「妖祓と全面的に対峙すれば、翔殿も無事では済みません」
輩は宝珠の御魂を狙う人間。
妖にも詳しく、霊力を刃と変えられる逸材達ばかり。そのような輩と対峙すれば、神主代行の翔も無事では済まない。
そう意見する青葉だが、片隅でじゃ偽善な言葉だと自嘲した。あれほど代行に、瘴気を封じてもらおうと思い描いていたのに、今は相手の身を案ずる。ただのお笑い種ではないか!
分かっている。分かっているのだが、青葉は止められずにいられない。自分でも理解できないほど、大きな恐怖に駆られていた。
彼の取り巻く、静かな空気が己を狂わせているのかもしれない。
「七代目南の巫女、妖狐の青葉殿。これは三尾の妖狐、白狐の南条翔の天命。比良利さまから代行を享け賜ったあの晩から腹は決めている。同意を願いたい」
ぼんぼりの中で揺らぐ蝋燭の炎が、じりっと音を立てた。
いつまでも見つめてくる澄んだ瞳に、青葉は返す言葉も見つからず、ただただ視線を返す。
気付けば首を縦に振っていた。
「ありがとう。青葉、俺の我儘を聞いてくれて」
彼は嬉しそうに礼を告げると、右の手をギンコの頭に置いたまま、左の手で青葉の手を取り、優しく握ってくる。
「妖の社は必ず守る、約束するよ。神主代行として、青葉達の家は精一杯守るから」
嘘偽りない笑顔、一方で恐怖を押し殺していると分かる手の冷たさ。
彼は明らかにやせ我慢している。
当たり前だ。痛みを恐れない輩などいない。ましてや彼は十七。若すぎる代行が恐怖しないわけないのだ。
なのに、おくびにも出さない。
どうして。彼はここまで他者が想えるのだろうか。
「翔殿はっ、なにゆえにそこまで妖達を。元はヒトの子なのに」
問いに翔。
「大好きだから、かな。今も人間は好きだ。そして同じくらい妖も好きだ。俺は欲張りだから、どっちが大切かなんて選べない。どっちも大切だと選びたい。できることなら妖とヒトが共存できるような、そんな日常を送って欲しい。なんかヤじゃん? 大好きな奴等の喧嘩を見るのって。仲良くなってくれたら、俺は気兼ねなく、妖とヒトの世界を行き来できる。それこそ家に帰ることができる。ま、簡単に言えば、お節介を焼きたいだけだよ」
節介猫又ババアの影響だろう。翔はへらりと笑った。
(……大好きだから、それは私も入っているんですね。罪を犯した私も)
彼の優しさが、あまりにも純粋すぎて泣きたくなった。
直球過ぎる気持ちが胸を貫く。詫びを口にしようと思っていたのに、それすら喉が詰まって言葉が出なくなった。
泣き顔を作ると、翔が長い尾っぽで背を擦ってくる。
「大丈夫。青葉達の家は守り抜くよ。先代との大切な場所なんだろ? 壊させないよ」
違う、違うのだ。
この感情は先代に向けるものではなく、目前の神主代行に向けるもの。
青葉もギンコも大好きだと笑う、彼の気持ちが心苦しい。誰かに想われることが、こんなにも心苦しいとは思わなかった。
「よし、行く前に少し腹ごしらえしようか。まずは食べて元気をつけないとな」
重々しい空気を取り払うように腰を上げた翔は、青葉とギンコの頭を軽く叩き、祭壇に二度頭を下げると一番に本殿を出た。
颯爽と後を追うギンコが立ち止まり、クンと一声鳴く。
べそを掻いていても始まらない。何か思うことがあるのならば、それを忘れるくらい行動を起こしてみろ。自分達のついて行くべき今の頭領は、彼、三尾の妖狐、白狐の南条翔だ。
これだからうじ虫娘は嫌いだ。ギンコは鼻を鳴らす、小生意気に舌を出した。姉なりの不器用な励ましであった。
言葉を残し、足軽に本殿を出て行くギンコは、入り口で草履を突っかける翔に飛びつく。
「うわっつ!」
突然のことに彼は驚きの声を上げていたが、ギンコは構わずフンフンと鼻を鳴らして抱っこをねだっている。
「ほんと、私達は気の合わない姉妹ですね」
青葉は微苦笑を零す。
惜しみなく感情を出せる、ギンコが羨ましいものだ。本当に羨ましい。先代から同じように育てられたのに、自分達はどうしてこうも違う生き方をしているのだろう。
「青葉、何しているんだ? 早く来いよ」
当たり前のように翔が青葉を呼ぶ。
甘えてくるギンコを腕に抱き、入り口で自分を待つ翔は、いつまでも此処にいたら飯が食えないではないかと茶化してくる。
口汚く罵ったことなど忘れているようだ。
青葉がそのことについて謝罪したところで、翔はきょとんとした顔で首を傾げるばかり。仕舞いには受け流されてしまった。
「ほら早く。俺、腹減ったんだって」
彼は片手で銀狐を抱きなおすと、空いた手を青葉に差し出す。
当たり前のように自分を必要としてくる神主代行。その手を掴みたい一心で、青葉は腰を上げた。
これは許されないことかもしれない。
邪まな鬼と化した自分には、決して許されないことかもしれない。
けれど、差し伸べられた手を握りたかった。自分を想ってくれる神主代行の手を、どうしても握りたかった。