<十一>白狐、南条翔の決断(壱)
【月輪の社・参道前にて】
九十九年間、閑静としていた月輪の社は賑わいを見せていた。賑わい、は語弊かもしれない。
日が昇る空の下、古びた参道には沢山の妖達が、身を寄り添うように腰を下ろしていた。
ある者は夫婦で肩を寄せ合い、ある者は赤子を抱き、ある者は自分の財を抱え、各々近場の者と会話。どの内容も悲しみや怒り、先行き揺らぐ未来についてばかり。
これからどうなるのだと、妖達は口々に疑問を投げかけていた。
玄米で粥を拵える青葉を手伝い、率先して配布役を務める翔は一人ひとりに声を掛けて身の安否を確認していた。
連日のように夜通し妖達の誘導を行っていたにも関わらず、その疲労を表に出すことはなかった。
意地張っていると言えばそれまで。
弁解をするならば、自分は代行である。
翔は己の置かれた位を理解していたため、努めて笑顔で一妖達に声を掛けていた。
時に妖からこれからどうなるのだ、と尋ねられることがある。それこそいつまで社に避難していれば良いのかと尋ねられ、翔は内心途方に暮れたが、表向きでは「必ず我等が守ります」と、答えた。
漠然とした答えであり、質問者にしては不満だったであろう。
けれど妖達は頼りにしていると微笑を向けて翔の意を酌んでくれる。
勿論、すべての妖がそういう態度で応えてくれるわけではない。泣きたくなるような辛辣な言葉を漏らす者もいたが、翔は妖達の気持ちを酌み、なるべく彼等に本音を吐かせた。それで苛立ちが緩和できるなら良いと思ったのだ。
思った以上に神主代行は頼りにされているため、参道を歩くだけで妖達から声を掛けられる。
配布兼聞き手となっていた翔の休める時間は少なく、ようやく配布を終え土間に戻って来たほんの少しの時間に腰を下ろせる程度だ。
引き戸の前に座り込み、そのままうたた寝をすることも多い。青葉やギンコから体を揺すられ、自室で休むよう起こされるまでそこで眠ってしまう。
目覚めるとまた、参道に赴かなければいけない使命感に駆られるのだが、あまり休まないようだと青葉達から揃ってお叱りを受ける。
何度、自室に強制送還されたことだろう。
目を盗んで参道に出ようとすると、見張り役のギンコから大層吠えられる。
可愛いギンコから怒られるのは本望ではないため、渋々布団に入って身を休めるのだが、どうも気持ちが昂ぶって眠れない。
それは力のない妖達から頼りにされているから、北の神主が昏睡状態に入っているから、自分が代行指導者だから。
なにより、こうしている間にも外界では妖達が嘆き、苦しみ、また一つ尊い命が失われているのでは?
翔が体を酷使してまで動いていたのは、暗い思考に落とされたくなかったからだ。こうして休んでいると、様々な未来を想像してしまい、気が滅入ってしまう。
こういう時、心頼れる大人がいれば良いのだが、自分を常に支えてくれた祖母はいなくなってしまった。嗚呼、聡明な祖母に守られてしまった。彼女は今、どうしているだろう? 祓われていないだろうか? 痛い思いはしていないだろうか?
「おばばっ……俺、どうすりゃいいんだ」
妖の器になった頃から、常に自分を見守り、支え、あたたかく接してくれた。自称お節介ババアと名乗り、いつも面倒看てくれた。
「おばばがいないと、俺、どうすればいいか……分からねーよ」
自分はおばばのように、知恵がある方ではない。いざという時に、頼れる者がいなくなってしまった。それだけではない、おばばは心の支えだった。
捕縛されたであろう猫又を思い出す度、幼馴染達の姿が脳裏に過ぎる。
大好きな祖母を捕縛した彼等を怨みたくない一方、どうしておばばを捕縛してしまったのだと理不尽に怒りを抱く自分がいる。
分かっている、彼等の目的は白狐であり、捕縛したがったのは誰でもない自分だ。おばばではない。
翔の身代わりに捕縛された猫又を想い、白狐を捕縛すると宣言した幼馴染達に悩み、入り混じる感情に葛藤する。
本当は嘆いている場合ではない。自分は頼りにされている。多くの妖達が頼りにしてくれている。代行をしたいのは自分だ。悲しみに暮れている暇なんてないのだ。
しかし。
(何が代行だよ。大見得切ったくせに何もできてないじゃんか!)
自己嫌悪に陥ることも少なくない。
翔は若すぎた。人生経験の少ない翔にとって、代行という重役が鉛のように感じられる。
何かあれば責任を負わなければいけない負担、期待に応えなければならないプレッシャー、大切な者達が少しずつ消えていく恐怖。どれも心労となって翔に襲い掛かった。
でも弱音は吐けない。吐きたくとも吐けない。自分にお役を託した比良利に叱られてしまう。
「翔殿。お食事にしましょう。私達も体力を蓄えなければ」
みな、そんな翔の心情を見透かしているようだ。
「翔殿、食べて元気を出しましょう。時にはお休みになることも、大切ですよ」
いつの間にか布団で眠っていた翔を起こし、玉子粥を運んでくれる青葉は、幾度となく己を励ましてくれた。
「でも俺、食欲なんて……」
すると、ギンコが一緒に食べようと言わんばかりに尾っぽを振って膝に乗ってくる。
「ふふっ。オツネもそう言っていることです。私達と一緒に食べましょう」
仲間である月輪の巫女と、守護獣の何気ない優しさが翔のささくれ立った心を癒してくれた。辛いのは翔だけではない。寧ろ、おばばを失って自分以上に辛いのは付き合いの長い青葉とギンコだろう。
なのに、二人はとても優しい。神主代行である翔を懸命に支えてくれる。
翔は泣きたいような、叫びたいような、情けない気持ちに駆られた。
自分ばかりが責を負わなければいけない、妖達を守らなければいけない、期待に応えなければいけない。そう傲慢に思っていたため、すっかり仲間の存在を失念していた。
一人で代行などできる筈がないのだ。分かっていた筈なのに、いざとなるとこれだ。恥ずかしい。
「あんがと」
玉子粥を手渡してくる青葉と、膝に乗るギンコに礼を告げ、翔は二人の前で素の自分を出すことにした。
精神を支えていたおばばがいなくなって途方に暮れているものの、自分にはまだ頼れる仲間がいる。百年は生きている頼もしい仲間達がいる。
木の匙で玉子粥を掬い取り、口に運ぶ。醤油で味付けされている玉子粥は心を安堵させてくれた。
「美味いや」
安心したように青葉とギンコが表情を緩める。多大な心配を掛けていたようだ。
「食べたら、少しお眠りになって下さいね。死人みたいな顔色ですよ。気張り過ぎですね」
笑い話にする青葉。うんうんと頷くギンコ。
双方の揶揄に気恥ずかしさを覚えつつ、翔は仲間がいる現実を再度認識し、玉子粥を頬張った。少しでも体力が回復するように。
そうそう。翔を元気付ける、こんな小話があった。
それは同刻、玉子粥を食べている最中のこと。
前触れもなしに自室の障子が開いたので、部屋にいた翔達は驚き返る。関係者以外立ち入り禁止のそこに侵入してきたのは、翔が助けた旧鼠七兄弟。
大人の拳ほどある体躯を持つ彼等は、親を亡くした悲しみを表に出すことなく、行儀良く横一列に並ぶ。
そして一匹ずつ頭を下げ、手に持っていた、小さな白い花を翔に差し出してきた。
「これ……俺に?」
翔は何度も瞬きをし、感謝の意が篭められた花を一輪ずつ受け取る。
すべてを受け取ったところで一番上の旧鼠が一声鳴き、再び頭を下げた。順に頭を下げていく旧鼠達。末っ子であろう旧鼠に至っては、兄姉の様子を窺いながら、慌てて頭を下げようとする。
けれども、勢い余り、末っ子旧鼠は、その場ででんぐり返し。翔のいる布団の前で目を回していた。
なんとも可愛い失敗に噴き出してしまう。
「ありがとうな。これ、大切にする」
見上げてくる末っ子旧鼠の頭を人差し指で撫で、名も知らぬ花をその手で優しく包んだ。
すると、気を良くした末っ子が、翔に向かって大きく跳んだ。つられて他の旧鼠達が跳んでくる。
しっかりと旧鼠七兄弟の体を受け止めると、子ども達が体をよじ登り、頬を寄せてくる。一匹一匹、大好きだと主張するように、何度も頭をこすりつけてくるのでくすぐったい。
「なんだよお前ら。くすぐってぇな」
無垢な子供達から元気を分けてもらった翔は、やや涙声になりながら感謝を口にする。
「本当にありがとう、ありがとうな。俺、頑張る。もっと頑張るから」
泣きたくなるほど嬉しい贈り物を貰ったのは、生まれて初めてだった。
※
月輪の社が妖で賑わうように、日輪の社にも避難してくる妖は多く、その対応に北の巫女・紀緒と、守護獣のツネキは追われていた。
北の地も統べらなければいけない彼等にとって、南の領地で起こる問題は負担でしかならない。
本来、南の領域で起こった問題は、月輪の社で解決すべきなのだ。しかも現在、北の神主が昏睡状態に陥っている。妖達の不安は一層募り、頼る気持ちは二人に重く圧し掛かっていることだろう。
だが彼等は、弱音を吐くことはしない。
当然のように仕事を受け持ち、妖達に慈悲を向け、不安の芽を摘もうと努めている。
南が危機ならば北が手を差し伸べ、北が危機ならば南が手を差し伸べる。そうして古くから支えあってきたのだろう。対と称されるだけある。
未熟な南の神主代行に苦言はなく、寧ろ、紀緒から重荷を背負わせていることに謝罪を述べられる始末。謝罪したいのはこっちなのに。
こうして着実に南の地に妖達を避難させていく中、鬼門の祠から溢れる瘴気の量は増していく。比例して妖祓に捕縛される妖も増えていく。鬼門の祠の瘴気を得ようと、そこに集う悪しき妖が、連日のように結界を破ろうとする。
匙を投げたくなる状況だった。
ある日、翔は捕まった同胞を助けて欲しいと、老いた垢なめに縋られた。
それは風呂桶の垢などを舐める化け物なのだが、曰く、孫に当たる垢なめが捕縛されたという。あの子はまだ幼い。失いたくない。死ぬには早い。祓われる前にどうか、同胞を、家族を、孫を。そう言って泣き崩れる垢なめに、翔も泣きたくなった。
助けると言って安心させるのはしごく簡単だが、それを実行するとなると骨である。
翔とて大切な祖母を妖祓に奪われた身。縋ってくる妖の気持ちは痛いほど分かった。
結局、翔は陳腐な慰めしか掛けられず、苦い思いを味わうことになる。
また、多くの妖達を社に集わせているものの、長期間の避難生活は不可能だろうと痛感した。
時間が経てば経つほど不安は膨張し、妖達の心労が増し、それはやがて諍いが起きる。
実際、参道の一角でとある妖達が小さなことで口論を起こし、青葉と仲裁を買って出る羽目になった。口論を起こす側も、傍観する側も、仲裁を買う側も揃って心労が募るのは言うまでもない。
(まずいな……人間と対立しているのに、身内でも対立が始まったら)
このままでは、妖同士で諍いを起こしかねない。翔は大きな危機感を抱いた。
参道にはヒトの世界で、息を潜めるように暮らしていた妖達ばかりが集っている。彼等は一刻も早く、住みなれた土地に帰りたいことだろう。
避難所にも問題がある。石畳に毛布や敷物を敷き、少しでも妖達の憩の場を作ろうと励んでいるのだが、毎日をそこで過ごせば疲労もする。
昼間は闇に身を潜め、眠りに就く妖が多いため、夜行性の妖には昼の参道は酷だった。善意で自分達を手伝ってくれる者もいるが、決して良い環境とはいえない。
かといって今、避難を解除することもできない。
妖祓や瘴気の件がある。妖達を帰せばまた身が危ぶまれる。一方で悪しき妖達が領地を統べようと虎視眈々と闇を待っている。
どうすれば良いか分からず、翔は途方に暮れた。
(少しでも状況を良くしたいのに……もし比良利さんなら、どんな風に皆を安心させるんだろう。代行として、もっとやれることがあるんじゃ……)
無理に行動を起こさずとも良い。それは知っている。自分の許容など高が知れているのだ。下手に動いたところで、迷惑しか掛けないことだろう。
けれどもっと、やるべきことがあるのでは。やれることがあったのでは。
若すぎる神主代行は思い悩んだ。そして常に、解決の道を模索していた。気付けば四月の暦は終わっていた。
※
「翔殿。大変ですっ、鬼門の祠が!」
時は申の刻下り。
日輪の社に薬草を貰いに出掛けていた青葉が、血相を変えて帰宅する。
抱えた笊から薬草が零れ落ちていくのも目に入らないのか、落ちたそれを無慈悲に踏み潰し、表参道に駆けて来る。
「青葉?」
新たに避難してきた同胞の手当てをしていた翔は、包帯を巻く手を止めた。
血の気を失くしている青葉の面持ちに驚きつつも、先に土間へ行くよう促す。動揺している青葉の感情が他の妖に伝染したら不味い。
意図を酌んだ彼女が土間へ向かう。翔も包帯を巻き終えると、妖に声を掛けて会釈し、急いで土間へ走った。
中に入るや、首を長くして待っていた青葉が、また事態が急変したと泣き顔を作る。
まさか、鬼門の祠の結界がすべて破られたのでは。
最悪の結末を想像する翔を余所に、青葉は早口で報告した。
「妖祓が鬼門の祠に、包囲網を作り始めています。大規模な結界を張っているようなのです」
「結界を?」
眉を寄せる。
頷く青葉は、妖祓が結界を張っているのだと繰り返し、きっと悪しき妖が安易に近づけないようにするための策だと苦言した。
それによって、瘴気も些少ならず抑えられるだろう。耳にする限り、こちらにとっても吉報に思えるのだが、青葉はこう話を続ける。
「どうやら妖祓は宝珠の御魂抜きで、鬼門の祠を封印しようと目論んでいるようなのです」
目をひん剥いてしまう。
翔は彼女の両肩を掴み、真実なのかと問う。
「妖の社と鬼門の祠は一心同体。祠が封印されたら、この社は」
「社は消滅してしまいます。祠はヒトの世界と、この空間の調和を保つためのもの。封印されたら、参道にいる妖共々私達は」
なんてことだ。
翔は手足の末端を冷やした。
妖祓は同胞の捕縛だけでなく、宝珠の御魂なしで祠を封じようというのか。宝珠があってこそ祠の管理が成されるため、簡単に成せることではないだろうが……。
まさか、こんな展開になろうとは。
裏を返せば、それだけヒトの世界で、妖達が傍若無人な振る舞いをしているのだろう。瘴気の影響は、翔が想像していた以上に深刻なのだ。
同胞を避難させている間にも、ヒトの町が妖に襲われ、妖もまた自我を失って妖祓達に祓われる。もしかすると、善意ある同胞だったかもしれないのに。
瘴気はすべてを狂わせてしまう。
(……これを避けたくて、俺は今まで稽古をしてきたのに)
妖と人間の諍いを見たくない。
その一心で妖の世界に飛び込んできた翔にとって、この事態はあまりにも残酷だった。足掻けば足掻くほど妖はヒトを襲い、人間は妖を祓う。
これでは、何のために妖の世界に飛び込み、神主代行として稽古に励んでいたのか分かったものではない。
何もかもが水の泡になるような、虚しい絶望に突き落とされた気分だ。
青葉は言う。
宝珠なしに祠が封印されることは万が一の確率だろう。
されど、相手は霊力を持つ人間である。ヒトの手が加えられることによって、祠にどのような影響が出るのか、想像もできない。
「もしかすると、祠が無くなってしまうかもしれませぬ」
そうなれば妖の社は消滅してしまう。九十九年、妖の社を守っていた自分にとって耐え難い現実だ。青葉は笊を落として身を震わせた。
「惣七さまの遺志を継ぎ、今日までお守りしてきたのに」
嗚呼、言葉にならない声を漏らし、青葉は両手で顔を覆った。努めて支える立場に回っていた彼女が、初めて翔に弱い心を見せてくる。
「青葉。落ち着けよ」
慰めようと声を掛け、手を伸ばしても、勢いよく弾かれてしまった。
「翔殿に何が分かるのですか! 独りで社を守り続けてきた、私の気持ちなど分からないくせにっ!」
状況を変えることもできないくせに、下手な慰めはやめてくれ。
涙声で翔の優しさを突き飛ばし、彼女は家屋に上がってしまった。完全に冷静を欠いているようだ。
「青葉……」
翔は冷静を取り戻し、薬草の入った笊を拾うために片膝をついた。
散らばった薬草を束ね、笊に戻してそれを持つと音を立てないように台に置く。
どうして上手くいかないことばかり続くのだろう。
頼れる比良利は倒れ、おばばは捕縛され、避難させた妖達は疲労し、自分達は新たな展開に言葉を失くす。心苦しいことばかりだ。青葉の言うように、今の自分は無力だ。解決する力はない。
もういっそのこと、挫折してしまいたいものだ。代行を投げることが出来たら、どんなに楽だろう?
「おばば、比良利さん。ぼんぼんの俺には無理だよ」
小さな弱音を漏らすものの、すぐにその下唇を噛み締めて何もなかったことにする。
「俺が決めた道だろ」
投げるものか。絶対に投げるものか。これは自分が決めた道。大好きな幼馴染達を振り切ってまで。この道を貫くと決めたのだ。
手の甲で強く目元を拭い、自分に言い聞かせる。
だから。
「泣くな。まだ泣くな馬鹿。まだやれる。俺はやれる」
止まらない悔しさを、何度も白張の袖でぬぐい、翔は早足で本殿へ向かう。
そこで頭を冷やすために、悪化する事態を改善する策を考えるために、己にできることを導き出すために。