<十八>南条翔の春休み(弐)
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春休みに入ると、翔の日常に余裕が生まれる。
学校が休みになった分、睡眠時間を得られるようになったのだ。母親からは多大な反感を買ったが、夜行性の翔にとって、朝昼の睡眠はとてもに貴重である。昼過ぎまで十二分に睡眠を取り、体力を温存した。
起床すると口やかましい母親を黙らせるため、机に着いて勉強をする。無論、振りである。教科書を開いたままPSPをしたり、スマホのゲームアプリを開いたり、友人とLINEをしたり、Twitterを眺めたり、と有意義な時間を過ごす。
「夕方になった。そろそろ出かけるか」
夜が近くなると、形代で分身を作り、翔は外へ飛び出す。
向かう先は“妖の社”。あそこは妖の器となった自分の、第二の居場所であり、素が出せる気兼ねない場所。そこで妖として生きる術を学び、少しずつ妖の自分を受け入れようと努力している。
「また失敗したか。変化は難しいな」
ここのところ、ギンコなしで狐に変化できる確率が上がってきた翔だが、成果はあまり宜しくない。十の内、三は失敗してしまう。加えて、妖型や妖術はまだ使えない。欠かさず稽古をして、この結果だ。さすがに、己の要領の悪さに落ち込んでしまう。
すると、見かねた青葉が、こう励ましてくれた。
「妖の器期で、それだけできれば上等ですよ。半妖で変化は難しいことです」
そういえば。自分は妖ではなく、妖の卵だった。すっかり失念していた翔は、持ち前の明るさを取り戻し、これくらいできれば十分だろうと思い改めた。
さて、休みの影響で社に泊まることも多くなった。形代のおかげで、家のことを気にする必要もない上、青葉達は泊まることを勧めてくれる。宝珠の御魂のことがあるため、翔には極力、妖の世界にいて欲しいようだ。
翔が泊まることを、誰よりも喜んだのはギンコである。可愛い狐は、翔が来る度に妖術の稽古に付き合って欲しいとねだり、その成果を披露してくる。ギンコなりに頑張っているようで、翔がいない間もさぼることはしていないらしい。
妹の青葉も驚くほど、真面目に励んでいるようだ。おばば曰く、『坊やに対する愛だろうねぇ』とのこと。一端の男として、いやオス狐として、これは喜ぶべきだろう。たぶん。
そんなギンコと翔の距離は、以前よりもぐっと近くなっている。元々仲は良かったのだが、休みに入ってから毎日のように構っているので、自然と距離が縮んでいるのだ。本当の意味で分かり合えたからこそ、掴めた距離なのかもしれない。何処に行く時も、ひょこひょこと銀狐がついて来るので、とても可愛いものである。
しかし、仲が良過ぎるせいで、このような騒動があった。
それは、入浴での出来事。
もうすぐ夜が明けるため、入浴をするよう青葉に促された翔は、風呂に入るための準備をしていた。通学鞄から下着、ジャージ、タオルと順に取り出していると、ギンコが手ぬぐいを銜えてやって来た。自分のために用意してくれたのかと思いきや、それは二枚も三枚もある。
「なんだ、お前。一緒に入りたいのか?」
行儀良く座って、尾っぽを振っている狐の目は期待に満ちていた。翔が聞くと、何度も首を縦に振ってくる。猫かわいがりしているギンコに対しては、砂糖よりも黒蜜よりも甘い翔である。当然、狐のお願いは叶えてやりたい。
「分かった。じゃあ一緒に入ろうぜ。綺麗に洗ってやるよ」
「な、何を仰っているのですか! 翔殿!」
物申したのは、金切り声を上げた青葉であった。とんでもない発言をしたらしく、彼女は顔を真っ赤にして、破廉恥だと罵ってくる。ついでに、恥知らずや助兵衛という単語も頂戴した。
「もう少し良識ある方だと思っていたのに。ああもう、信じられませぬ」
「青葉。なんで怒ってるんだ?」
困惑する翔の心境としては、ただギンコと仲良く風呂に入り、体を洗ってやりたいだけであった。
なのに、破廉恥だの、助兵衛だの、恥知らずだの言われても、気分的に宜しくない。頬を掻き、一体何に対して怒っているのかを尋ねる。
すると。興奮していた青葉が、きょとんとしている翔を、まじまじと見つめてくる。心意を察したのだろう。これは失礼しました、と頭を下げ、こほんと咳払いを零す。
「翔殿は齢十七の幼い狐ゆえ、邪な気持ちを抱く年頃ではありませんよね」
あまり謝られている気分がしないのは、幼いと言われているせいだろうか。
「いいですか翔殿。貴殿が承諾した行為は、大層破廉恥なのですよ」
「なんで?」
首を傾げた。あまりにも破廉恥と言われ続けると、その意味そのものが、なんだったっけかな、となる。
「例えば、私と今から一緒に入浴できましょうか?」
「えっ、青葉と? いや、それはちょっと……」
真顔で見つめてくる、巫女と入浴する。ちょいと想像した翔は、腕を組んで首を横に振った。嬉しい気持ちより、気まずい思いを抱く。目のやりどころに困ってしまうことは、明白であった。
だったら、ゆっくりと風呂に入りたいものである。
それを述べると、青葉派深く頷き、ギンコと翔も同じ立場だということを示唆した。
「妖の器とはいえ、貴殿は若いオス狐なのですよ。オツネも若いメス狐。双方が睦まじく湯船に浸かるなど、妖狐から見れば番いも同じ。ツネキが発狂することでしょう」
なるほど。翔は首を縦に振った。つまり、異性の妖狐である自分達が一緒に入ってしまう行為は、たいへん意味深長なものになってしまうというわけだ。
翔自身、そういう疚しさは一抹も持ち備えていないのだが、確かに、青葉の主張は理にかなっている。
「うんじゃあ、俺とギンコが一緒に入るわけにはいかないな。青葉、教えてくれてありがとうな。まだ、妖狐の価値観が、いまいち分からなくてさ」
もし、また何か遭ったら教えて欲しい。翔が感謝すると、青葉が安堵したように頬を崩し、こちらも罵って申し訳ない、と謝罪してきた。これにて一件落着、翔はギンコと別個に入ってお仕舞い、になれば良かったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
なんと、蚊帳の外に放り出されていたギンコが、畳を蹴って飛躍。青葉の額を両の足で小突いたのである。
「ちょ、ギンコ!」
血相を変える翔を余所に、ギンコは銜えていた手ぬぐいを彼女の顔面に投げ、更に後ろの足で頭を蹴った。
これは不味い展開だろう。
口元を引き攣らせる翔の予想通り、顔を覆っている手ぬぐいを引っ掴み、細い眉をつり上げた青葉は、こめかみにくっきりと青筋を立てている。目に見えるほど体を小刻みに震わせ、「何をするんですかオツネ」と、地を這うような声と共に相手を睨みつけた。
つんけんとするギンコは、ぷいっと尾を向けた。こちらも、不機嫌な声で鳴く。
「邪魔をするな、ですって? オツネっ、まさか貴方。翔殿が妖狐の常識を知らないからと、それにつけ込もうとして……」
それが、どうしたと言わんばかりに、銀狐はべろんと赤い舌を出す。
「しっ、信じられません! 幼い翔殿になんてことをっ! そうやって、無知な翔殿の心につけ込んで、あれやこれやどれやする気だったんでしょう!」
もしや、自分は危ない橋を渡ろうとしていたのでは。翔は遠い目を作って、可愛いギンコを見つめる。うんっと首を傾げる銀狐は、素知らぬ顔を作るばかりである。
「とにかく。一緒に入るなんて、絶対に許しません。別々に入って下さい」
クオーン。やれやれ、と言った口振りでギンコは一声鳴く。なんと言ったかは分からずとも、横着な態度を取っていることは見て分かる。翔は言葉を失くしていた。
「誰が色気のない小娘ですって!」
獣語を理解する青葉の頭に狐耳が生え、尾てい骨からふさふさの尾が生えた。怒り心頭なのだろう。女の矜持が傷付けられたのかもしれない。
「守護獣ともあろう狐が、殿方をたぶらかすなんて」
青葉は握り拳を作った。こんな狐が守護獣だなんて認めない。語気を強め、部屋に居るにも関わらず、狐火を出そうとする。
大慌てで羽交い絞めにするが、青葉の怒りはおさまらない。ギンコもすっかりその気になり、右の前足を口元に当て、クンクン鳴いて尾を振っている。
(ギンコの奴。絶対に青葉のことを馬鹿にしてらぁ)
翔には殆ど見せない姿だが、普段のギンコの性格は非常に難癖あり、周囲は手を焼いている。簡単に言えば性格が悪いのである。真面目、生真面目の青葉は、それに毎度怒りを覚え、ギンコと喧嘩している次第なのだ。
結局、部屋をめちゃくちゃにするまで、喧嘩に明け暮れた青葉とギンコのせいで、翔は彼女達と共に別室にいたおばばに説教を食らう羽目になる。どうして自分まで怒られなければならないのか。情けない溜息をつきたくなったものだが、もっと溜息をつきたくなったのはこの後のこと。
『――なんで俺が、狐の姿で風呂に。しかも、三匹仲良く入れとか』
湯船に浸かる翔は、白狐の姿で入浴をしていた。
がっくり耳と尾を垂らす翔に、仕方がないではないか、と青葉が不機嫌に唸る。嬉しそうなのはギンコばかり。狭いヒノキ造りの浴槽をざぶざぶと泳ぎ、白狐となった翔に寄り添おうとするギンコだが、それを邪魔するように狐姿の青葉が間に割って入った。
『これは、おばば様の妥協案なのです。仲良く入れば、色気も何もなくなるだろうと仰るので仕方がなしにっ……あっ、湯をかけましたね。オツネ!』
腹を立てたギンコが、両の前足で青葉に湯をかける。仕返しだと言わんばかりに青葉も湯をかけ始めたため、浴槽の水面が大きく波を打ち始めた。
『お前等、浴槽は狭いんだ。暴れるんじゃねよ……あーあ、俺は保護者かよ』
本来ならば、ぴちぴちの若いメス狐達と入浴しているのだから、一端のオス狐としては喜ばなければいけない場面なのだろう。
しかし、翔の心はヒトであるため、メス狐の体を見て興奮うんぬんはない。寧ろ、自分まで狐になって入浴をしなければいけなくなった、この現状に頭を抱えたくなる。妖狐というのも楽ではない。翔は人間の女の裸体が恋しいと、深い溜息をついた。
こうした事件はあったものの、基本的に翔はギンコと仲良しこよしである。
「ギンコ。一緒に寝ようぜ」
寝る時は必ず、翔からギンコに、一緒に寝ないか、と声を掛けている。ギンコの過去を知ってしまった以上、どうしても、一人で寝かせることはできなかったのだ。
普段、本殿で寝ているというギンコだが、翔が寝ようと誘う度に、部屋へ来てくれた。布団に入れてやると、それはそれは嬉しそうに鳴いてくるので、翔の方もつい猫かわいがりしてしまう。いや、狐かわいがり、というべきか。
そういうことをしまうので、青葉から甘やかしすぎだ、とお咎めをもらうことも多いが、翔は右から左に流している。勿論、青葉の主張は正しいだろう。社を守護する狐として、毅然とした態度でいて欲しいと願うことは、同じ神職として当然のことなのだ。彼女は間違ったことを言っていない。
ただ、翔にとって、ギンコはギンコでしかない。守護獣として見ていない翔にとって、甘えたいとねだる狐の気持ちを受け止めてやるのは、しごく自然の話。
先代が与えたくとも与えられなかった優しさ、ぬくもり、愛情を、自分が引き継いで与えていければ良いと考えていた。まあ、保護者の猫又から苦笑いを買うことも多いので、ギンコに対して、自分は非常に甘いのだろう。自覚はある。
そうそう。
ギンコは必ず、ボロキレと化している翔の黒いコートを持参する。すっかり、お気に入りにしているそれは、寝具の一部となっているようで、コートがないと大慌てで部屋を飛び出し本殿へ向かうことも、しばしば。捨てられようものなら、烈火の如く怒るそうだ。
あれには翔のにおいが付いているので、それと共に寝ることで、孤独を紛らわしているのかもしれない。なにせこの狐、見た目以上に甘えん坊の寂しがり屋なのだから。
「ギンコ。これが海だ。でっかい水溜りみたいだろ」
その日。翔はiPadを持ち込み、寝る前にギンコと画面を眺めていた。妖の世界は電気もなく、電波も届かないため、眺めている画像は事前に保存しておいたものだ。これをギンコに見せて、少しでも外の世界を知ってもらう。
「海ってのはな。川の水と違って、しょっぱい水なんだ。お前、川には行ったことあるか? へえ、あるのか。俺もあるよ。魚釣りに挑戦したんだけど、ちっとも釣れなかった思い出があるよ」
腹ばいに寝そべり、和紙で囲われた置行灯よりも、強く発光するiPadをギンコと眺める。燦々と太陽に照らし出されている青い海と、まっさらな砂浜がギンコの好奇心をそそったらしく、毛布の中でぱたぱたと尾を振っている。
「ん? 次の画像を見たいのか?」
ギンコが恐る恐る前の足を出し、画面に触れて良いのかと迷っている。
触れて良いのだと手を添えて、次の画像を見るための動作を教えてやる。狐の前足を左右に何度も動かし、こうして画像を切り替えるのだと教えてやれば、賢い狐はすぐに動作を覚えて、動きの真似をした。
“妖の社”で生まれ育ち、九十九年、自由という自由を得られなかった狐は映し出される画像にどれも尾を振って感動に浸っている。優しく見守っていると、ギンコが食い入るように一枚の画像を見つめた。
iPadを覗き込めば、闇夜を一斉に照らす粒子が一本の大木を装飾している。幻想的な粒子はまるで光る雪の粒のよう。宙に一閃を描いて、光羽ばたく蛍に見蕩れるようだ。
そんなギンコに頬を崩す。
「これは蛍って虫。俺も本物は見たことないや」
画面を指差す。うんっと見上げてくるギンコに、お尻が光る虫なのだと告げ、特定の場所でしか見ることのできない、貴重な虫であることを教える。翔は画面に視線を戻す。
「ギンコが十歳だった時代になら、ここらへんにもいたかもしれないな。蛍」
都市化が進んでいる日本だ。人口の多い場所では、まず見ることができないだろう。田舎の綺麗な森林や河原がある場所であっても、彼等にめぐり合うことは難しい。
以前、雪之介は言っていた。山林が切り崩されているせいで、山に住む妖達は住む場所を失っている。
ならば、蛍達も住むところを追われているのだろう。
「綺麗だよな。目の前で見たら、もっと綺麗なんだろうな」
クオン。鳴いて同意するギンコに、「だな」と目尻を下げる。
「ギンコ。俺といつか、蛍を見に行こうぜ。蛍」
ぴんと狐の耳が立つ。提案に喜びを覚えているようだ。
「約束するよ。お前が自由に社から出られるようになったら、それこそ南の地が平和になったら、俺はお前に蛍を見せてやる」
ここらじゃ見られないだろうから、自然豊かな田舎へ行こう。泊まりがてらに。
「俺達は夜行性だから、夜には強い。山の中を歩き回れば、きっとすぐに蛍も探せるさ」
できるならこの画面のように、一斉に光羽ばたく蛍が見たいものだ。恍惚に画面を見つめていると、ギンコが翔の腕を鼻先で持ち上げ、懐に潜ろうとする。右の腕を上げてやれば、コートを銜えて擦り寄ってきた。くすっ、と笑みを零し、銀狐を腕に閉じ込める。
「この甘えん坊狐」
喉を鳴らすギンコの頭を撫でると、手の平を舐められた。愛情を返しているのだろう。
柔らかな体毛に顔をうずめ、いたずらげに戯れてやる。すると、狐が首筋に顔をうずめ、甘噛みをされた。お返しをされているようだ。
「あはは、くすぐってぇ」
お互いに相手の体に顔を擦り合わせ、そのぬくもりを感じ合う。
それが、とても楽しいと思えるのは、翔が狐の本能を持ち始めているからだろう。狐なりの愛情表現を体で示すことが、いつしか翔にとって普通になっていた。甘噛みも、舐める行為も、嫌悪感なく受け入れることができるし、自分から与えることもできた。
「そろそろ寝ようぜ。ギンコ。もう夜が明ける」
お遊びを切り上げ、翔はクンと一つ鳴く。iPadの電源と置行灯の蝋燭を消すと、おとなしく欠伸を零すギンコは瞼を下ろした。その際、つんつんと鼻先で体を突いてくるため、翔は狐のやって欲しいことを察し、軽く体を叩いてやる。
すると。身を丸めたギンコは、数分もしない内に夢路を歩いてしまった。
「本当に甘えん坊狐だな。お前。けど、ギンコはそれでいいよ」
少なくとも、自分の前では、ひねくれ狐のオツネでなく、甘えん坊狐のギンコでいて欲しいもの。
「蛍が見られる場所、ちゃんと調べておこう」
それだけではない。ギンコには沢山のものを見せてやりたい。自由をこよなく愛する狐と約束したからには、それは、しかと果たさなければいけないだろう。
約束を胸に刻みなおすと、翔も瞼を下ろし、小さな寝息を立てる。障子の向こうでは夜が明け始め、人間達の目覚める刻が迫っている。
されど、いまの翔には遠い世界。また月がのぼる刻限まで、深い深い眠りに就いた。