<十七>南条翔の春休み(壱)
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暦が変わり、季節は三月に入った。三月一日に卒業する三年生が在学生に見送られ、いよいよ二年が最高学年に上がる環境が整いつつある。
教師の口からは常々やれ受験だの、やれ進路だの、やれ大学だの。クラスメートの口からは常々やれ予備校だの、やれ偏差値だの、やれセンター試験だの。
翔は耳にする話題にうんざりしていた。
当然、翔も受験生になるため、進路のことは気にしなければらない。早いところ行くべき道を決めて、それに向けて勉強するべきなのだろう。
しかし始終、そのような話題を耳にしていたら、息も詰まる。
通う高校は私立校であるが、それなりの進学校ゆえ、より偏差値の高い大学に行かせようと教師達も必死だ。名門大学に行かせることが、学校のブランドを上げる。
それゆえ自分達の進路なのだから慎重に決めろというわりには、あれやこれや大学を押し売りしてくる。
専門学校に行く組も少数いるようだが、そんな彼等にすら、まずは大学を勧める次第である。受験するのは生徒なのだから、好きにさせてやればいいのに。翔はそう思って仕方がなかった。
(進路、ねぇ)
配布された進路調査のプリントと睨めっこする。HR中の現在、できるだけ詳しく進路状況を書けと担任に指示され、仕方がなしにボールペンを持っているのだが、翔は何も書けずにいる。
大学も専門学校も考えていない、まっさらな状態なのだ。親には国立を狙えと言わているものの、学力不足である。残り一年足らずで、何処まで学力を伸ばせるか。明確な目標がないせいか。翔は乗り気ではなかった。
(どうすっかな。私立だったら近場がいいかも。親もそう言っているし)
現実逃避をするように窓辺を眺めると、暖かな日差しを受けた梅の蕾がそっと花開こうとしている。まだまだ残寒の季節ゆえ、コートもマフラーも手放せずにいるが、花々は確実に春を感じているようだった。
(ねむっ)
眠気を噛み締め、微睡んでしまう。結局、何も書かないまま回収されてしまったため、後ほど呼び出しを食らうだろうと翔は未来を予想した。
終業式を迎えると、翔のテンションが一気に上がる。
待ち望んでいた春休みが始まるのだ。嬉しくないわけがなかった。予備校の春季講座を申し込むべきか、云々と悩んでいる親には申し訳ないが、この春休みは自由にさせてもらうつもりである。
なにせ、はじめて出来た同級生の妖と交わした約束があるのだ。妖の器になった翔にとって、同級生の妖と過ごす時間は貴重である。
毎日、正体を隠して生きるのもしんどいのだ。隠し事をもっぱら苦手とする翔だ。隠して生きることにストレスすら感じている。無論、日々友人や幼馴染達と過ごす時間は楽しいが、妖と人は何か違うと思えて仕方がない。
決して口に出さないが、翔は自分が“妖”なのだという自覚を、しっかりと持つようになっていた。
「ショウ。一緒に帰らないかい?」
正午過ぎ。
帰りのSHRが終わり、身支度をしていた翔の下に珍しい訪問客が現れた。幼馴染の片方、和泉朔夜が来たのである。
何事に対しても、腰の重い彼が自ら訪問してくるなんて、極めて珍しい。しかも、一緒に帰る誘いなど滅多にない。驚きを隠せずにいる翔だが、断る理由もないため、肯定の返事をして荷物を持った。ここ最近、気持ちが落ち着いているので、彼等を避ける行為も少なくなった。一緒に帰宅するくらいなんてことないだろう。
廊下で待つ朔夜の下に走り、揃って昇降口に足を向ける。飛鳥の姿は見えない。今日は別個に帰るのだろうか? それはそれで珍しい光景だ。
「飛鳥は?」
彼女はどうしたのだと尋ねる。
「野暮用で先に帰ったんだ」
朔夜がやんわりと目尻を下げる。そして、今日暇かと言葉を重ねた。暇なら一緒に昼食を取ろうと誘われる。
思わず聞き返してしまった。天変地異でも起きるのではないだろか。帰るだけでなく、昼食の誘いまで来るなんて。朔夜の性格を熟知しているからこそ、翔は目を見開く。
暇なことを伝えると、朔夜は安堵したように良かったと笑みを零す。
もしや、何か悩み事でも抱いているのだろうか。だとしたら、相談に乗るつもりだ。朔夜が行動を起こすなんて、よっぽどなのだから。
彼と正門をくぐると、今日も今日とて心配性のおばばが顔を出しに赴いてくれた。猫又は本当に心配性で、しょっちゅう学校まで顔を出す。おばばは散歩がてらだと言っていたが、気持ちは察していた。
「ごめん。今から朔夜と飯に行くんだ」
ブロック塀から飛び下りたおばばを受け止め、迎えに来てくれた猫又の頭を撫でる。予定を聞いたおばばが、右の前足を出して宙をかいた。楽しんで来いと言っているのだろう。
「また後で会いに行くよ。来てくれて、ありがとな」
先ほどいた場所に戻すと、おばばは颯爽とブロック塀の上を走って行く。祖母には世話になりっぱなしだ。何か、手土産でも買っていかないと。
「まだ仲が良いんだね」
見守っていた朔夜が声を掛けてくる。やや言い方に棘があった。
「コタマは世話焼きだからな。いつも、ばかな孫の面倒を看てくれるよ」
当たり前のように、猫又を祖母と言ってしまう辺り、翔の中で変化が起こっているのだが、本人はその異常に気付けずにいた。気付いたのは、聞き手に回る者だけ。
「ショウ。君の心はどこまで、猫又に……ねえ、ショウ。もしも、あの猫がいなくなったら、どうする?」
「ごめんけど、怖くて考えたくもない。想像もしたくないや」
おばばがいなくなるなど、今の翔には、考えられない話である。あれは己の保護者であり、大切な祖母。あの猫又が、最初に翔に言ってくれたのだ。妖の器になりたての自分に、何が遭っても面倒を看てやる、と。
率直にそれを伝え、翔は話題を替えることにした。空気が悪くなっていることに、ようやく気付いたのである。
「それより何を食べる? 俺、千円ちょいしかねぇから、高いもんは無理だぜ」
すると、朔夜はもう決めているのだと返事する。
「今日のお昼はオムライスだよ」
「はあ? オムライスぅ? なんで、オムライスなんだよ」
主催する朔夜が、オムライスを食べたいというのならば、付き合ってやらなくもない。
しかし、先程も述べた通り、翔は千円ちょいしか持っていない。ぎりぎり足りるか、足りないかの線だろう。
更に言えば、そんな洒落た店が近所にあるとも思えない。バスで移動するのだろうか。行き帰りの運賃が気になるところである。
「どこの店だ。頼むから、歩ける場所にしてくれよ。金がねーんだって」
「大丈夫だよ。徒歩で行ける距離だから」
「だったらいいけどさ。まさかのオムライス……野郎だけで行ける店なんだろうな」
どうも、オムライスというものに抵抗感を覚えてしまう。それは、翔が偏見を持っているせいだろう。そういう店に限って女性向けで尚且つ、OLといった少し大人向けを対象にしているように思えるのである。お前達が来るなんてお門違いだ、という空気は味わいたくない。
憂慮を抱く翔だが、朔夜が案内する道には見覚えがあった。まさかな、と首を傾げていたものの、丁字路を直進し、住宅街を突き進むこと十分。やはり、そこは予想していた通り、飛鳥の家であった。
「定食屋でも開き始めたわけじゃねーよな」
冗談もほどほどに、翔は見なれた幼馴染の家を眺める。レンガ造り二階建ての一軒家の前には花壇があり、なんともメルヘンチックである。妖祓の家とは思えない。
花壇に植えてある、名も知らない草花を眺めていると、朔夜がインターフォンを鳴らした。家の主は出るや否や、勝手に入ってと命じてくる。先に朔夜が家の門を潜り、無造作に玄関扉を開ける。
「来たよ。上がるね、飛鳥」
中にいる飛鳥に掛け、佇む翔を手招きしてくる。まったく意図が読めない。オムライスを食べる予定が、なんで飛鳥の家に来る羽目になったのだろう。
考えたところで答えが出るはずもない。後頭部を掻く翔は肩を竦め、朔夜の後を追った。
こうして、飛鳥の家にお邪魔させてもらうと、リビングでは忙しなく食事の支度をしている飛鳥本人が見受けられた。母親の姿はない。彼女一人のようだ。
三人分のオムライスを食卓に並べている彼女は、私服姿だった。可愛らしい猫のプリントが入った桃色のTシャツに、短パン姿の飛鳥は、肩まで伸びている髪を一つに縛っている。魅力的な姿とは思えど、面に出すことはない。素直に出せずにいる自分がいる。
側らのソファーにコートと通学鞄を置くと、その上で身を丸くしていた猫が顔を上げた。飼い猫のミミだ。アメリカンショートヘアのあどけない顔は愛くるしい。
「ごめん。起こしたか」
この猫はたいへん気まぐれな上、飼い主とその家族にしか懐かない。そのため翔が声を掛けても、そっぽを向くことが多い。
けれど、今日は様子がおかしい。翔を確認するや、足元にすり寄ってきた。それだけなら良いのだが、移動をするところ、ミミがついて回ってくる。トイレを借りようとしたら、そこまでついて来たのだから困ってしまった。
「お、お前な。俺達、一緒にトイレに入るほどの仲じゃねーだろ」
ミミをトイレから追い出すと、そこから出るまで鳴き続けられた。そして、またトイレから出ると翔の足にすり寄ってくる。歩きづらいので、仕方がなしに抱っこをしてやると、嬉しそうに鼻先を舐められた。心なしか、尾っぽが揺れている。
「なんだよお前。久しぶりに会ったら、ずいぶん可愛い性格になって。それとも俺の正体に、お前は気付いているのかな」
獣仲間だと思われているのだろうか。腕の中で小さな欠伸をこぼすミミに、翔は苦笑いをひとつ零した。
「あ。ミミ、探したんだよ。ご飯食べよう」
リビングに戻ると、皿を並べ終わった飛鳥が飼い猫に声を掛けた。どうやら餌を与えたいようだ。手を伸ばし、翔の腕からミミを抱き上げる。
これで、ようやくお役御免になったと思いきや、なんと驚き。ミミは餌の入った皿を鼻で押して、翔の足元まで移動してくる。移動すると、皿ごと猫も移動する。どうしても一緒にいたいようだ。
「ええー?! 私にだって、そんなことしたことない癖に、ショウくんに浮気なんて酷いよ」
飼い主は面白くないようだ。脹れ面を作って、ミミの尻尾を指で突いていた。
「珍しいね。ミミが飛鳥以外の人間に、ここまで懐いているなんて」
朔夜も驚いている様子。
やはり、ミミには分かっているのだ。翔が人間ではない、獣の化け物だということを。翔は片膝をつき、猫の頭に手を置いた。食事の邪魔をされても、ミミは嫌がる素振りを見せない。こちらを見上げ、小さく鳴いてくるばかり。
「俺にもくれるって? いいよ。それはお前のだ」
なんとなく、ミミの言いたいことが分かるのは、普段から獣の妖達と共にいるせいだろう。鳴かれる度に、うんうんと頷いて、律儀に言葉を返してやる。
それをどう見たのか、飛鳥が食事にしようと手を叩いた。そのため、半ば強制的に立たせられ、キッチンで手を洗うよう命じられる。
その間、彼女は手作りのオムライスを四人掛けテーブルに置き始めた。ちらっと、オムライスを見ると、ケチャップの文字で名前が入っている。その名前入りオムライスが、自分の座る場所なのだろう。翔は自分の席が飛鳥の隣になのかと、目を丸くしていた。小悪魔な性格をしている普段の彼女であれば、さり気なく朔夜の隣に座ると思っていたのだが。
気を利かせてオムライスの場所をかえると、瞬く間に戻された。
「ショウくんは私の隣だよ。嫌?」
そういう聞き方はずるいと思う。異論はないため、翔はおとなしく席に着いた。
さて、三人が席に着いたところで食事が始まったのだが、どうしてこうなったのか、翔には、いまいち状況が掴めずにいる。
確か今日は朔夜から一緒に帰ろうと誘われ、ついでにお昼を一緒に食べないかと言われたから、それに承諾して。あれよあれよと、オムライスを食べに行くことになって。結末が飛鳥の家で、手作りオムライス。
やはり、流れが掴めない。どうしてこうなった。
「ん。なんだ、ミミ。飯は食い終わったのか?」
もそもそとオムライスを食べていると、ミミが足元でじゃれてくる。
今は遊べないのだと猫に告げると、無遠慮に膝の上に乗ってきた。そこで何をするわけでもなく、身を丸めてしまう。やや食べにくいが、ギンコも同じようなことをしてくるため慣れている。翔は気にすることなく食事を再開した。
「ショウくん。美味しい?」
作り手が味の感想を聞いてくる。翔は素直に美味しいと頷き、コンソメスープに手を伸ばした。
「良かった。ショウくんが美味しいって言ってくれて。作った甲斐があったよ」
動きが止まりそうになるが、かろうじてスープの入った皿を引き寄せることに成功する。そういう台詞は朔夜に言ってやればいいものを。
「なんだか、久しぶりだね。学校以外で、三人で過ごすの」
そういえば。翔はスープを見つめ、飛鳥の言葉を反芻する。
彼等と学校以外で過ごす、という時間はいつぶりだろう。最後に過ごした時間すら覚えていない。おおよそ、自分が妖の器になる前だろうから、一ヶ月半ほどだろうか。ギンコと出逢った夜は、彼等に約束を破られてしまったっけ。
それから、関係を崩したくないと一線を引いて早幾日。おかしい話だ。常に一緒にいたいと思っているのに、離れている時間の方が多くなっている。それが無性にさみしい。
「春先から受験生だ。これから、もっと過ごす時間が減るだろうね」
だから、時間が作りやすい春休みに予定を立てよう。朔夜が提案を出す。らしくないと思った。率先して、計画を立てるような男ではないだろうに。その役は常に翔が受け持っていた。
「二人とも、塾の予定は?」
他人事のように様子を見守っていると、朔夜と飛鳥が会話を進めていく。各々予備校に、家庭教師と、予定が詰まっているようだ。遊べる時間帯は午後からだと話していた。その内、翔にも話を振られたため、いつでも良いと正直に答える。自分は予備校の予定もなければ、家庭教師の予定もないのだから。
すると、息を合わせたかのように、彼等から行きたい場所を聞かれた。何をしたいでも可能だとのこと。それについては特にないため、二人に合わせると返事した。
「あーもう。やっぱり言うと思った。ショウ、たまには自分のしたいことを言ってくれよ。君はいつも、僕達に合わせるだろう?」
計画を立てるのは翔だが、遊ぶ場所を合わせてくれるのも翔だ。朔夜がスプーンで指してくる。
「ショウはいつもそうだ。僕達に我儘を言わない」
どちらかが映画に行きたいと言えば、前売り券を買おうと提案し、カラオケに行きたいと言えば、予約を取っておくと答える。三人で一緒に過ごしたいと駄々を捏ねるのは翔だが、不平等なく計画を立てる翔自身の我儘は聞いたことがない。
「計画を立てて、はじめて気付いたよ。ショウに何をしたら喜ぶのか、それすら分からないだなんて。何年の付き合いだろうね、僕達」
力なく笑う朔夜と、心配の眼を向けてくる飛鳥を交互に見つめ、翔はようやく気付く。このちぐはぐな流れの意味を。
自惚れても良いのなら、これはもしや自分のための計画。こうして飛鳥の家で昼食を取っていることや、好意を寄せている彼女の手料理を食べること。彼女の隣に並んでいること。幼馴染三人で過ごす、この時間は全部自分のため。ああ、二人は自分に気遣ってくれているのだ。
それに気付いてしまった翔は、泣きたいような、笑いたいような、曖昧な感情に駆られた。彼等の優しさが嬉しくもあり、つらくもあった。
「なんだよ。らしくないことしやがって」
憎まれ口を叩くが効果はない。彼等は待っている、翔が気持ちを明かしてくれることを。翔が二人の気持ちを察したように、幼馴染達も気持ちを察しているのだ。なにか悩みがあって、彼等を避けていることも。翔が少しずつ変わっていることも。
ここで、すべてを打ち明けるべきなのだろうか。いまの彼等なら受け入れてくれるのでは。脳裏に過ぎる、淡い期待はいつぞか見た、妖祓の冷たい眼差しを思い出すことで打ち砕かれてしまう。やはり、打ち明けることは怖かった。
このまま、傷付き傷付けて終わる未来しかないのならば、べつの形で関係を終わらせるべきなのかもしれない。翔は悩んでしまう。
「やっぱり、そう簡単には白状してくれないか。覚悟はしていたんだけどね」
重い空気を散らすように、朔夜が椅子に凭れて唸る。その目はどこか落胆の色に帯びていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。二人のことを、信用していないわけではないのだ。いや、話せないということは、結局のところ疑心暗鬼になっているのかもしれない。相反する気持ちが交差する。
「俺はお前達から、少しずつでも離れて行くべきなんだと思う」
やっと出てきた言葉は、翔の望まない気持ちであり、どこか望む気持ちでもあった。
「だって俺はばかみたいに、お前達に執着している。この気持ちはあまりにも、我儘だ」
いつだって自分に楽しい景色を見せてくれたのは、この二人だった。
幼少からそれは変わらず、自分は金魚の糞みたいに彼等の後をくっ付き回っていた。仲間に入れてもらったことが、どれほど嬉しかったのだろう。自分の執着っぷりには恐れ入るものがある。高校すら二人に合わせるのだから。
そして常に我儘を言っている。幼馴染と三人で過ごしたい。一緒にいたい。なんて子ども染みた醜い感情なのだろう。重いなんてものではない。これを寄せられた者達は、さぞ息苦しかったことだろう。だから、翔は我儘を言わない、という朔夜の言葉を否定した。これが我儘でないというのならば、二人の菩薩のように寛大である。
「でも俺は、どこかでお前達と一緒にいたいと思っている。おかしいだろう? 矛盾していると、自分でも思っているよ」
分かっていても、簡単にこの性格は直せない。
だったら、いっそのこと物理的に離れてしまうのも手かもしれない。翔は自嘲した。これからもこの関係が続いて欲しい。そう切望する、自分が滑稽に思える。
「分かった。取りあえず、米倉くん辺りを叩きのめせば解決するんだね」
斜め上の回答である。
翔は間の抜けた声を出し、飛鳥を凝視してしまった。そこで、どうして、悪友の米倉が出てくるのかが分からなかった。
「変なことを吹き込まれたんでしょ? ショウくん、単純だから」
完全に濡れ衣である。本人が聞いたら激怒することだろう。
「……あいつに何も言われてねーけど」
「じゃあ、どうして離れようなんて考えに至ったの? 私達、ショウくんに迷惑だなんて言ったことあった?」
言われたことは無いが、態度がそれを物語っていたことが多々あった。見て見ぬ振りをしていたが、重い溜息を何度つかれたことか。ああ、そうだ。適当に会話を切られたこともあったっけ。あれ、これは本当に離れるべきでは。思い出に泣きそうである。
遠い目を作って、当時のことを思い出していると、「あったかもしれないけど!」と、飛鳥が大きな声を出して遮ってくる。
「それでも、ショウくんを嫌いになったことなんて一度もないよ。私も朔夜くんも」
知っている。二人は優しいから。
「ショウくんは、私達を大切だと言ってくれるけど、私達も同じ気持ちなんだよ。そうじゃなかったら、わざわざ手料理なんて作らないよ」
翔は呆けてしまう。まさか、面と向かって、同じ気持ちと言われるとは思いもしなかったのである。
「その顔、やっぱり分かってない。朔夜くん、ショウくん、何も分かってないよ」
信じられないと言わんばかりに、飛鳥が頭を抱えた。向かい側にいる朔夜に至っては、こめかみを擦って溜息ばかりついている。
「単純馬鹿のくせに、変なところで単純馬鹿じゃなくなって。ほんと、ただのばかだよ」
「おいこら。普通に悪口なってんぞ」
「悪態だってつきたくなるさ。お前、僕達をなんだと思っているんだい。自分だけ、大切だと思っているような素振りをして」
非常に腹立たしい。朔夜が舌打ちを鳴らす。本人に聞こえるほどの音であった。隠す振る舞いすら見せない。反対に言えば、それだけ頼って欲しいのだろう。もし、翔が朔夜の立場で、同じような態度を見せられたら、きっと盛大な舌打ちを鳴らすに違いない。
なんだか可笑しい気持ちに駆られる。
怒りを向けられているというのに、笑いたくなるし、嬉しい気持ちもこみ上げてくる。なにより、同じ気持ちなのだということが切に伝わってくる。それだけで、胸に抱えていた悩みが軽くなった。
「ごめん。お前達のことを舐めていたよ」
翔は真摯に謝った。頬が崩れてしまうのは、彼等の気持ちを受け取ったという証だ。伝わって欲しい。ああ、けれど。
「ごめん。いまの俺は、お前達に何も話せない。話すことができない」
待ってくれている彼等には悪いが、これが翔の答えだった。
「それは、つまり。ショウくんの悩みが、直接私達に関係することだと思っていい?」
スプーンを置くと、膝に乗っているミミを抱いて椅子を引く。みゃあ、鳴き声を上げてくる猫の頭を撫で、中庭に通じる大きな窓辺の前に立つ。硝子の向こうに見える中庭には、様々な草花が植えられている。日差しを浴びている草花に目を細めた。あの世界は本当に眩しく、不快だ。
「言っただろう。俺はお前達に執着しているって。言えば、お前達は離れていく。だから、いまは言わない」
いまは。翔は強調する。
「言っとくけど、お前達が何かしたってわけじゃない」
それだけは、勘違いしないで欲しい。これは翔自身の問題であった。
「俺が臆病になっているだけなんだ。いつかを思って、俺は臆病風に吹かれている。それだけなんだよ」
怖い。いつか、人間でなくなる、自分が。
怖い。いつか、崩れてしまうであろう、この関係が。
怖い。いつか、彼等に祓われるやもしれない、未来が。
「じゃあ、お前の気持ちが固まるまで、僕達は気長に待つことにするよ。ゆっくりでいい。いつか、すべてを話してくれよ。いまはショウが、僕達を見直してくれたことで十分だから」
真似をするように、いまは、と朔夜は強調する。
驚き、ゆるりと背後を振り向くと、自分達の存在を忘れるなと言わんばかり、二人から笑われた。猫に心を奪われても良い。傍に置いても良い。ただ頼られず、相談されず、見守るだけの者達はさみしい思いを抱いている。それを忘れないで欲しい。彼等の口から、気持ちを伝えられる。隠し事を作る翔を、咎める言葉はない。問い詰めたい気持ちはあれど、翔の気持ちを優先してくれているのだろう。
(ほんと、お前等の方こそばかだ。面倒な幼馴染と、距離を置けるチャンスだったのに)
いつか、三人でいられなくなる日が来るかもしれない。そんな未来が来たら来たで、執着心を見せている自分を変える、良い機会なのかもしれない。
自分に言い聞かせても、ああ、やっぱり無理だ。彼等のことを切り捨てることなどできない。同じ気持ちを抱いてくれる、彼等といつまでも一緒にいたい。彼等は翔にとって大切な存在だ。
少しだけ、淡い期待を抱いても良いだろうか。
「約束するよ。いつか、お前達に話す。絶対に話すよ」
その時が来ても、自分達の関係は変わっても、それを越えられる未来がある。そんな甘い希望を持っても良いだろうか。
今日一番の笑顔を見せると、この話は仕舞いだと飛鳥が手を叩いた。折角遊びに来てくれたのだから、楽しい話をしよう。そう言って、テーブルに戻ってくるよう手招いてくる。
「あと、ショウくん。どこに行きたいか、はやく決めてね」
春休み計画の決定権は、翔にあるようだ。本人としては、二人の希望を聞いて計画を立てた方が慣れている上に気も楽だ。自分から何かをしたいと考え、行動することは非常に苦手なのである。二人の傍にいたいがために行動を起こすことはできるものの、遊ぶ内容は幼馴染達に任せてばかりだった。
翔はさり気なく、二人に観たい映画はないか、と尋ねた。聞き出すことができれば、喜んでそれに便乗しようと思う。
「そうだね。ショウが観たい映画かな」
意地の悪い返事だ。見透かされている。
「俺が決めろって言われてもな。ミミ、お前は何がしたい?」
みゃあ。能天気な猫はごろごろと喉を鳴らし、撫でろと態度で示してくる。味方にはなってくれなさそうだ。
「ショウくんが決められないなら、私が決めてもいいよ。ショッピングとか、ケーキの食べ放題とか」
「お願いだからショウ、君が決めてくれ。飛鳥の計画は……地獄にしか見えない」
「男の子は嫌がるよね。こういうの。私は楽しいけど」
翔としても、あまり飛鳥の計画には乗りたくない。ケーキは好きだが、食べ放題には行きたいと思えないし、女の子と行く買い物は根気と覚悟がいる。少なくとも、飛鳥の場合、色んなものを見て回りたい性格をしているため、あちらこちらに連れ回される。それで疲れることも多々あるので、翔も朔夜も彼女と行く買い物は苦手としている。
さて、どうしよう。
遊園地は乗り継ぎがあって面倒だし、山海は季節的にも寒い。無難に映画というべきところなのだろうが、そもそも観たいものがない。
うんぬん考えながら、再び中庭に目を向ける。日光を浴びる草花があまりにも綺麗で、見惚れてしまった。そうだ、この季節にぴったりの行事があるではないか。
「俺、花見がしたいな。三人で花見とか、やったことねーよな?」
季節的に早いかもしれないが、温暖化の影響で三月の下旬から四月の上旬にかけて桜が花開くだろう。もしかすると、春休みは終わってしまうかもしれない。
しかし是非、今年の春に咲く桜を三人で見たい。来年は進路もバラバラとなり、三人で集まる機会も少なくなるだろう。だから今年の内に、四季折々三人で楽しめることをしたい。名案だと思えた。
「花見なら、昼も夜も楽しめるだろ。近場でいいから花見に行こう。朔夜、飛鳥」