<十三>君の恐れ(弐)
はてさて。
マンションに帰宅した翔は親がいないことを十分に確認すると、抜き足差し足忍び足で自室に入る。
扉を閉めたところで緊張の糸が切れた。
「あ、焦ったぁ」
両足から力がなくなり、へなへなとその場に座り込んでしまう。
妖祓との鬼ごっこは思った以上に精神にきたようだ。
おばばの機転で翔の素行の悪さは『猫又が取り憑いたせい』となっているが、なんとも後味は悪い。
やはりおばばを悪者にしてしまったこと。
そして幼馴染たちから逃げたことが原因だろう。
「おばば。ごめんな。悪者にして」
苦虫を噛み潰すような表情を浮かべると、腕の中におさまっていたおばばが掛けていたマフラーからひょっこりと顔を出す。
『何を言っているんだい。子どもが要らない心配をするんじゃあないよ』
「だってさ」
『子どもが困っている時は大人の出番さね』
するりとおばばが腕から抜け出す。
『坊や。あったかくしておくれ』
すっかり静電気で逆立った毛を整えるため、猫又が前足を舐め始める。
それを横目で見ると、「はいはい」と、言ってエアコンのリモコンを手に取った。
『坊や。こっちの生活はどうだい? 不自由しているんじゃないかい?』
おばばのために飲み物を取りに行った翔が、お盆を持って部屋に戻ってくると祖母らしい心配を寄せられる。
「狐の夜行性には困ってるかな」
翔は急須に入ったお茶をお椀に注ぎ、皿にのっていた氷を二つその中へ落とした。
また買い置きの煎餅も、四つに砕いてお椀に入れてやる。ふやけた煎餅はおばばの大好物だ。
「どうしても朝昼は眠くなっちまう」
今日も説教を食らってしまった。翔は苦い顔を作る。
『学び舎は異界にもあるよ。人里での学び舎は諦めて、こっちの学び舎に通ってみたらどうだい? わたしが比良利に話をつけてあげるよ』
ありがたい話ではあるが、翔の答えはもちろん「いいえ」である。
「ンなことしたら、母さんたちにどやされるじゃんかよ。ただでさえ、ばか息子の夜遊びに怒り心頭なんだぜ? とどめを刺すように学校に通わなくなってみろよ。家から叩き出されるっつーの」
『わたしたちには都合がいい話だけどねえ。オツネも青葉もわたしも、そしてお前さんと双子関係にある比良利も、坊やは異界で暮らすべきだと思っているから』
それだけヒトが住まう世界は妖にとって生きづらいのだろう。
翔は思い悩む。
果たして、この生活がいつまで続けられるのか、と。
(俺の希望は当たり障りなく、今の生活を続けていきたいんだけど……)
現実問題、それは不可能だということを、先日の騒動沙汰で思い知らされた。
いまだって、以前の自分ならば何でも幼馴染三人で行動したがっていたものの、現在は距離を置くよう努めている。
先日の騒動沙汰を引き摺っているのだ。
どんなに離れたくないと願っていても、あの事件は翔にとって大きな衝撃だった。
ふとした拍子に命を狙われた場面を思い出してしまい、恐怖心が込み上げてくる。幼馴染らを見ると顔を引き攣ってしまう。
だからこの気持ちが隠せる程度に落ち着くまでは、距離を置きたいのである。
(本当はこんな気持ちになりたくねえんだけど)
こればっかりは仕方がない。
「大事な幼馴染でもさ。命を狙われたら、やっぱビビっちまうもんだな。おばば」
翔はおばばに胸の内を伝える。
聞き手に回るおばばは、保護者らしい面持ちをしていた。
いや『らしい』は不適切だ。おばばは妖狐の翔にとって頼れる保護者なのだから。
「あいつらのことは好きだ。でも俺は半妖……いつ妖になるかと思うと、さ」
ヒトと妖は相対する存在。
妖祓ならば尚更だ。
翔は幼馴染たちとの距離に悩んでいた。
お互いに傷つきたくない、傷つけたくない一心で距離を置いている。
そのせいで朔夜と飛鳥に不信感を与えていることも気づいていた。
今日の二人を思い返すと、真摯になって心配してくれる彼らには申し訳なかったな、とため息がこぼれてしまう。
「もうちょっと上手く立ち回れたらいいんだけど、俺は不器用だからさ」
親身になって聞いてくれるおばばは『そうかい』と相づちを打った。
『お前さん、少しだけ変わったねえ』
「そっか?」
『ちゃんと自分が半妖なんだって自覚しているじゃあないか。以前より妖を受け入れようと努力している。それはおばばにも伝わってくるよ』
褒めてくれるおばばについ苦笑い。
「そりゃ狐になったり、妖をこの目で見たり、甲斐甲斐しくばあちゃん猫又に世話されていたらな。でもやっぱり、ヒトの俺を捨てたくないや。どうしようもないことくらい、自分でも分かっているんだけどさ」
ぽりぽりと頬を掻き、先程の話題に戻す。
おばばが来てくれて助かったことや、夜遊びの一件、親の目が厳しくなっている現実。
どれも翔の悩みの種であった。
これから先も似たような悩みが続くことだろう。
夜遊びをすれば親の目が厳しくなる。そして自然と幼馴染たちの耳に入る。また同じような騒動が起きるに違いない。ああ、想像するだけで気が重い。
気が滅入ると呟く翔に、『その悩みは解決できるかもしれないよ』と鳴いた。
『坊やにいいものをあげよう』
「いいもの?」
『比良利に頼んで、ちょいと便利なものを作ってもらったんだよ』
おばばが長い尾を丸め、それを翔に向けた。
反射的に手を差し出すと尾っぽが広がり、手のひらに一枚の紙が落とされる。
そこにのっていたのは人形に切り取られた紙だった。
「なにこれ」
目を丸くする翔に『それは形代だよ』とおばば。
翔の身代わりをしてくれる、身代わり人形だと説明した。
『形代に妖力を送って、ゆっくりと息を吹きかけてごらん』
言われるがまま、翔はたどたどしい動きで、最近自在に引き出せるようになった妖力を形代に送る。ぼうっと淡く光り始めたところで、ゆっくりと息を吹きかけた。
すると意思を宿したかのように、その紙が手中からするりと抜け、それは宙に舞い上がる。
「あ、向こうに行っちまった」
形代がベッドの方へ向かう。
毛布に滑り込むと瞬く間に光を放ち、形代は消えた。
代わりに毛布に膨らみができる。
そこには眠りこけているジャージ姿の【南条翔】がいた。
「うわっ、俺だ!」
鏡越しに自分の姿は見たことはあるが、さすがに実体を目にしたことはないので妙な気持ちに駆られてしまう。
「寝てるのか? こいつ」
恐る恐る寝息を立てている【南条翔】に手を伸ばし、そっと前髪を抓んでみる。まごうことなき本物の髪であった。引っ張ると痛みが走ったのか、【南条翔】から唸り声がもれる。
思わず飛び退いてしまった。
「う、うわあ。なんか気持ち悪い。俺がもうひとりいるみたいだ」
この形代を揺すったらどうなるのだろう。起きるのだろうか。会話はできるのだろうか。物は食べられるのだろうか。
身を丸くして眠っている【南条翔】を見つめていると、おばばが起きることはないだろうとかぶりを振った。
『形代は坊やの妖力に合わせた行動しか起こせない。いまの坊やじゃあ、これが限界さね』
「眠りこけた人形しか出せないってことか?」
『上出来だと思うけどねえ。形代はよほどの妖力がないと使えない代物だから。この子を元に戻す時は、自分の妖力を抜けばいいよ』
へえ。
翔は相づちを打つ。
「こんな便利な物があるなら、もっと早く渡してくれよ。おばば」
形代さえあれば、親の目を誤魔化せることができたのに。
脹れ面を作る翔に『形代は作るのに時間を要するんだよ』と、おばばは返す。
『形代を作れるのは神職の位を持つ者。それも神主しか作ることを許されていないんだ』
「じゃあ、比良利さんが作ってくれたのか」
『ああ。そうだよ。多忙な比良利に形代を作ってもらえたんだ。それだけでも感謝しなさい』
そのように言われてしまえば返す言葉もない。
気を取り直して、翔は質問を投げた。
「俺の妖力の使い方が上達すれば、形代は俺と同じ生活が送れたりするのか?」
『できないことはないよ。けどおすすめはしないねえ』
「なんで?」
『形代は視えない人間には【ただの人】に見える。だけど霊力を持つ人間には一目で【人】ではないと分かる。身近に妖祓がいる坊やの環境じゃ形代は適さない。使えるとしたら、せいぜい家の中くらいかねえ』
「そっか。いざとなったら、学校に行ってもらおうと思ったんだけど、それは無理か」
だが、親の目を誤魔化せる手が増えただけでも儲けものだろう。
これで心置きなく妖の社に行ける。
「見れば見るほど、生きているように見えるな」
眠りこけている【南条翔】の寝顔を覗き込む。
形代が寝返りを打ったため、思わず身を引いてしまった。
翔に寝顔を見せてくる形代は本当によく出来ている。弾力ある頬にぬくい体。すぅすぅと聞こえる寝息。時折動く手足。どれも生きているように見える。
形代の寝顔をまじまじと見つめていると、おばばはおかしそうに笑った。
『いわば、坊やの分身だからねえ』
生きているも同然だそうだ。
『形代はお前さんと繋がっている』
「繋がっている?」
『たとえば坊やが怪我を負えば、この子も怪我を負ってしまう。それは分身だからだ。形代は別名【生き写し紙】とも呼ばれていてね。形代の状態で本体の状態も分かるんだ』
「俺が風邪をひいたら、こいつも風邪をひいちまうのか?」
『分身だからねえ』
「形代が怪我を負ったらどうなるんだ?」
『本体に影響はないさね。あくまで形代が本体と繋がっているに過ぎないんだよ』
ふうん。
翔はふたたび形代を見やる。【南条翔】は穏やかな顔で眠り続けているが、一体全体どんな夢を見ているのだろう。
「よろしくな。これからお前には世話になるよ」
なんとなく声を掛ける。
形代は何も返事をせず、ただひたすら寝息を立っていた。